第134話 まだ日本人だったのに?
一六タルトを食べて、また資料を整理していたときだった。
綾乃さんが言った。
「答えが来ました。」
僕は顔を上げた。
「さっき送ったやつですか?」
「はい。河野信夫さんの話です。」
美咲さんも綾乃さんのほうを見た。
「何て来たんですか?」
綾乃さんがメッセージを開いた。
しばらくそれを読んでいた彼女が言った。
「もし河野信夫さんのお祖父さんが、実際に日本の家庭に入り、有効な日本の戸籍に適法に記載されていたのなら、平和条約が発効したあとも日本国籍を維持したものとして扱われた可能性が高いそうです。」
綾乃さんが返答を少し下へ送った。
「当時は、朝鮮側の戸籍に記載されていた人でも、婚姻や養子縁組などの理由で日本側の戸籍に入った場合は、別の扱いになったそうです。」
「じゃあ、祖父が聞いた話が本当なら……。」
僕は少し考えた。
「河野信夫さんも日本人だったんでしょうか?」
「はい。河野信夫さん本人が話したとおり、実際に日本の戸籍に入っていて、平和条約が発効した時点でもその戸籍に引き続き在籍することになる人だったのなら、日本国籍を維持したと考えるのが妥当みたいです。ただ……。」
綾乃さんが考えを整理してから言った。
「河野信夫さん本人が、本当にその戸籍に入っていたのかはまだ確認できていません。佐伯さんが会った人が本当に河野信夫という人物だったのか、ほかの人の話を自分の話のようにしていたのかも、まだわかりませんし。」
「それはそうですね。」
僕は椅子の背にもたれた。
「もし本当に河野信夫さんだったのなら、その主張は法的にも成り立ち得たということですね。」
「そうですね。」
「でも、当時の状況では、それを明らかにして証明する方法もなかったわけですし。」
「はい。戦争さえなければ、もう少し簡単に確認できた可能性もありますけど、当時はかなり複雑な状況でしたから。」
僕はもう一度画面を見た。
そのとき綾乃さんが言った。
「関連して、参考になりそうな資料も一緒に送ってくれました。」
「どんな資料ですか?」
「当時の朝鮮人の国籍や法的地位に関する資料です。」
綾乃さんが添付された資料を一つ開いた。
何ページかめくっていた彼女が手を止めた。
「これは私もよく知りませんでした。」
美咲さんが尋ねた。
「何ですか?」
「日本に住んでいた朝鮮人も、一定の条件を満たせば選挙権があったそうです。」
「選挙権ですか?」
「はい。日本本土に住んでいた人たちには。」
綾乃さんが資料をもう少し読んだ。
「被選挙権もあったみたいです。」
美咲さんが驚いた顔で尋ねた。
「立候補もできたってことですか?」
「はい。」
僕も資料をのぞき込んだ。
「実際に立候補した人もいたんですか?」
「います。」
綾乃さんが画面を指した。
「朴春琴という朝鮮出身の衆議院議員がいたみたいです。」
「当選までしたんですか?」
「はい。それも東京で。」
「東京で?」
「はい。当時の東京府第4区で当選しています。一度だけじゃなくて、再選もしています。」
僕は画面をもう少し詳しく見た。
「じゃあ、制度上できただけじゃないんですね。」
「そうですね。実際に衆議院議員として活動した人がいたわけですから。」
綾乃さんが別の資料も開いた。
「それに、この人、朝鮮人に関する問題も実際に議会で取り上げています。」
「どんな問題ですか?」
「朝鮮にも参政権を実施するよう求めたことがありますし、朝鮮人に対する差別的な扱いや、農民救済の問題についても政府に質問しています。」
美咲さんが言った。
「ただ朝鮮人出身の議員がいたっていうだけじゃなかったんですね。」
「はい。朝鮮人の処遇に関する問題を、実際に議会で取り上げた例があったということですね。」
僕は少し考えた。
当時の朝鮮人は日本帝国の臣民で、日本本土では投票することもできた。
さらに選挙に立候補することもでき、実際に朝鮮人出身の衆議院議員まで出ていた。
「僕が聞いた話では、終戦直前には朝鮮でも衆議院議員を選ぶ選挙制度を実施しようとしていたそうです。結局、実施されませんでしたけど。」
「はい。実際に1945年には法律まで作られています。ただ、普通選挙ではありませんでした。」
「違ったんですか?」
「はい。一定の納税要件を設けた制限選挙でした。」
綾乃さんが次の資料を見ながら言った。
「でも、戦争が終わると状況が変わります。」
「どう変わるんですか?」
「まず選挙権の行使が停止されます。」
僕は綾乃さんを見た。
「国籍を失ったあとじゃなくて?」
「いいえ。その前です。」
「まだ日本人だったのに?」
「はい。でも1945年末には、選挙権と被選挙権の行使を停止する方向に変わっています。」
美咲さんが尋ねた。
「国籍はそのままなのに、投票はできなくなったんですか?」
「そういうことですね。」
しばらく誰も話さなかった。
綾乃さんが次の資料へ進んだ。
「そして平和条約が発効した1952年に、日本国籍を失う扱いになります。」
僕は祖父の記録を思い出した。
1951年。
朴相吉氏が息子たちの将来を心配していたころだった。
綾乃さんが言った。
「この過程を批判的に見る研究もありますね。」
「どういうふうにですか?」
「国籍の問題が完全に整理される前に、まず参政権から外されて、そのあと日本国籍そのものを失う扱いになったじゃないですか。」
綾乃さんが画面を少し下へ送った。
「こうした過程そのものを、戦後日本の政治共同体から在日朝鮮人を徐々に外へ押し出していく過程だったと見る研究があります。」
美咲さんが尋ねた。
「投票権の問題も関係していたってことですか?」
「そう見る研究もあります。」
「日本国籍を持ち続けていたら、選挙権の問題もまた出てくるかもしれないから?」
「はい。実際に選挙権も被選挙権もありましたから。」
綾乃さんが言った。
「もちろん、日本政府が投票権をなくすことだけを目的に、国籍をそのように扱ったと断定することはできません。」
「そうですよね。」
「ただ、参政権や政治的な影響力の問題も、戦後処理の過程に影響した要素の一つだったと見る解釈がある、ということです。」
僕はうなずいた。
綾乃さんが別の資料を開いた。
しばらく読んでいた彼女が手を止めた。
「これは、かなり強い見方ですね。」
「何て書いてあるんですか?」
美咲さんが尋ねた。
綾乃さんは画面を見ながら言った。
「朝鮮人を何十年も日本帝国の臣民として扱っておきながら、帝国がなくなったら今度は日本人ではないとしてしまったのは、結局、日本が自分の帝国の存在そのものを否定したことになるんじゃないか、という内容です。」
綾乃さんが別の資料も確認した。
「戦犯裁判で処罰された朝鮮人もいたみたいです。」
「朝鮮人の戦犯ですか?」
「はい。日本軍の軍人や軍属として勤務していて、連合国の戦犯裁判で有罪判決を受けた人たちがいました。死刑になった人もいます。」
美咲さんが尋ねた。
「その人たちも、そのときは日本国籍だったんですよね?」
「はい。でも、生き残った人たちは、その後、平和条約が発効すると日本国籍を失いました。」
僕はしばらく画面を見た。
「じゃあ、そのあとは補償の問題も出てきたでしょうね。」
「はい。それもその後ずっと問題になりました。」
僕はしばらく資料を見た。
日本で暮らしてきた朴相吉氏の息子たちがいた。
韓国に残って暮らしてきた日本人たちもいた。
そして、その間のどこかに河野信夫のような人もいた。
僕はゆっくり言った。
「考えてみれば、在日韓国人の問題も、在韓日本人の問題も、結局は大日本帝国が残した影なのかもしれませんね。」
しばらく誰も話さなかった。
◆◆◆
朝鮮人BC級戦犯と戦後補償――戦犯裁判、国籍喪失、そして援護の境界
戦争が終わったあと、連合国はアジア・太平洋各地で日本軍の戦争犯罪を裁いた。
いわゆるBC級戦犯裁判である。
2000年3月30日の第147回国会の参議院国民福祉委員会で示された数字によると、韓国・朝鮮出身者のうち148人がBC級戦犯として有罪判決を受けた。
そのうち23人が処刑され、125人は有期または無期の懲役刑を言い渡された。
1951年には、服役中だった人々の一部が日本の巣鴨刑務所へ移送された。
そして1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効すると、朝鮮出身者は日本国籍を失った。
しかし、国籍を失ったからといって、すでに言い渡された刑の執行が終わったわけではなかった。
1977年の「元韓国出身戦犯者の補償に関する質問主意書」には、当時の服役者たちが、日本国籍を失った以上は釈放されるべきだと主張して人身保護の手続きを取ったものの、刑を言い渡された時点では日本人だったことを理由に認められず、収監が続いた経緯が記されている。
戦後日本では、旧日本軍の軍人・軍属とその遺族を対象とした援護制度が整備された。
1952年には「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が制定された。
しかし、この法律には日本国籍と戸籍に関する要件があった。
1998年に日本政府が衆議院へ提出した答弁書でも、援護法は障害年金などの支給要件として日本国籍を求めており、戸籍法の適用を受けない者については当分の間、法律を適用しないとする規定があるため、在日韓国人には障害年金などを支給していないと説明している。
こうした制度上の違いは、朝鮮出身のBC級戦犯たちにとっても問題となった。
戦争中は日本軍の軍人・軍属として動員され、戦後は戦犯として裁かれ、刑の執行を受けた一方で、平和条約以後は日本国籍を失った外国人として扱われたからである。
この問題は、その後も日本の国会で議論され続けた。
2000年3月30日の第147回国会参議院国民福祉委員会で、当時の厚生大臣・丹羽雄哉は韓国出身のBC級戦犯たちについて、次のように述べた。
「日本国民として戦争犯罪を犯したという理由で刑を受け」
つまり、彼らが日本国民として戦争犯罪を犯したという理由で刑を受けたことを、日本政府の大臣が国会で直接言及したのである。
補償を求める訴訟も続いた。
2001年11月22日、日本の最高裁判所第一小法廷は、朝鮮出身の元軍属と遺族らが日本政府を相手に提起した「BC級戦犯公式陳謝等請求事件」で、原告側の請求を棄却した。
朝鮮・台湾出身の元BC級戦犯と遺族をめぐる補償と名誉回復の問題は、その後も終わらなかった。
2025年の第217回国会にも「外国籍元BC級戦犯者と遺族に対する立法措置に関する請願」が提出された。
この請願では、韓国・朝鮮および台湾出身の元BC級戦犯たちが、日本人として軍に動員され、日本人として戦犯裁判を受けたにもかかわらず、平和条約以後は外国人として扱われ、補償や援護の対象から除外されたという問題を提起し、別途の立法措置を求めている。
出典:
第82回国会 衆議院
「元韓国出身戦犯者の補償に関する質問主意書」
昭和52年10月19日
第143回国会
「衆議院議員山本孝史君提出在日韓国人元日本軍属への障害年金支給に関する質問に対する答弁書」
平成10年11月10日
第147回国会 参議院
国民福祉委員会 第13号
平成12年3月30日
最高裁判所第一小法廷
平成12年第1434号
「BC級戦犯公式陳謝等請求事件」
平成13年11月22日
第217回国会 衆議院
「外国籍元BC級戦犯者と遺族に対する立法措置に関する請願」
第2560号
戦傷病者戦没者遺族等援護法
昭和27年法律第127号
◆◆◆
洪思翊
洪思翊は朝鮮出身の日本陸軍軍人で、陸軍士官学校、陸軍大学校を経て中将まで昇進した。
洪思翊は、一般に創氏改名をせず、自分の名前を維持した人物として知られている。
正確には、創氏制度の適用を受けなかったわけではない。新たな日本式の氏を別途届け出なかったため、それまでの姓である「洪」が法定創氏によってそのまま氏となり、名前の「思翊」も日本式の名前には改めなかった。
そのため、新たな日本式の氏名を使用せず、「洪思翊」という名前のまま日本陸軍中将まで務めたことになる。
太平洋戦争末期にはフィリピンで第14方面軍兵站監などを務め、捕虜収容所の管理・監督に関係する職務にも就いた。
終戦後、マニラで行われたBC級戦犯裁判で、捕虜への虐待などについて指揮官としての責任を問われ、死刑判決を受けた。
1946年9月26日、マニラで刑が執行された。




