第132話 まったく逆ですね
笑いが収まったあとも、僕たちはしばらく記録を見ていた。
美咲さんが言った。
「考えてみると、不思議ですね。」
「何がですか?」
「平和条約が、こんなふうに影響するとは思ってませんでした。」
僕は前に広げてある記録をもう一度見た。
綾乃さんが言った。
「サンフランシスコ平和条約っていうと、日本では普通、占領が終わって主権を回復した条約だっていうほうを先に習いますよね。」
「私もそういうものだと思ってました。」
美咲さんが言った。
僕はうなずいた。
「でも、祖父の記録を見ていると、少し違って見えますね。」
日本で暮らしてきた朴相吉氏の息子たちがいた。
反対に、韓国に残って暮らしてきた日本人たちもいた。
その後、サンフランシスコ平和条約の発効によって、日本にいた朝鮮人たちの地位が失われる。
そして、それは朝鮮にいた日本人たちも同じだった。
しばらく誰も話さなかった。
美咲さんがまた口を開いた。
「でも、日本人たちは韓国語をどうやって覚えたんでしょう?」
「生活しながら覚えた人もいたでしょうし、僕の知る限りでは、終戦後、当時の韓国にいた日本人社会では朝鮮語を覚えようという動きもあったそうです。」
「本当ですか?」
僕はノートパソコンを手前に引いた。
いくつか検索語を変えながら探してみると、関連する記録が出てきた。
僕は画面を少し回して、二人に見せた。
「1945年9月に、ソウルYMCAで日本人を対象にした朝鮮語講座が開かれたそうです。」
綾乃さんが画面をのぞき込んだ。
僕は説明を続けた。
「日本人の学生や婦人、老人も参加して、朝鮮語を学んで新しい朝鮮に協力しよう、という趣旨だったそうです。」
「じゃあ、本当にここでそのまま暮らしていこうと考えていた人たちもいたんですね。」
「はい。新しくできる国なんだから、技術や資本、行政や経営の能力を持つ自分たちが重用されるかもしれないと考えた人もいたんでしょうね。」
僕は検索画面をもう少し下へ送った。
「当時、朝鮮に住んでいた日本人は70万人を超えていたそうですから。あれだけの人たちが、ある日、全員一斉にいなくなったと考えるのも変でしょう。」
「じゃあ、実際に残っていた人たちもいたんですね。」
「はい。いろいろな事情で残った人たちはいたようです。」
僕は検索画面を下へ送りながら、ふと思い出して言った。
「韓国には、こういう人たちに関する変な陰謀論もあります。」
美咲さんが僕を見た。
「陰謀論ですか?」
「日本人が韓国人として身を隠して、そのまま暮らし続けたっていう話です。」
綾乃さんが尋ねた。
「それが陰謀論なんですか?」
「それだけで終わる話じゃないんです。」
僕は画面から手を離した。
「日本人たちが隠していた財産や金を使って、韓国の経済界で大きな力を持つようになった、という話につながるんです。さらに、政治家まで操っていて、実質的に韓国を裏から動かしているっていう話まであります。」
「あ……。」
「もちろん陰謀論です。」
美咲さんが前にある記録を見た。
「でも、実際に残っていた日本人がいたこと自体は本当なんですね。」
「はい。それはそうみたいです。」
「朴相吉氏みたいに、その人たちを助けた人もいて。」
「そういうことですね。」
僕は少し考えてから言った。
「もちろん、ただではなかったでしょうけど。」
「それはそうでしょうね。」
「とにかく、実際にあったことと確認されていない話が混ざると、まったく違う話ができてしまうこともあるんだなって感じました。」
綾乃さんが言った。
「でも、朴相吉氏の息子さんたちは、まったく逆ですね。」
「そうですね。」
「朝鮮人なのに、日本でずっと暮らしてきた人たちですから。」
美咲さんが言った。
「特に末の健一さんは、朝鮮語もほとんどできないって言ってましたよね?」
「はい。子供のころから日本で暮らしていたそうですから。」
「手紙を誰とやり取りしていたのかも、これでわかったわけですね。」
「はい。おかげで。」
これで、祖母が集めていた手紙が、日本にいた三人の弟たちとやり取りしていたものだと確認できた。
そのとき、美咲さんが時間を確認した。
「もう夕方ですよ。」
僕も時計を見た。
思っていたより、かなり時間が経っていた。
綾乃さんが言った。
「今日は何を食べます?」
「最近、ずっと日本の料理ばかり食べてた気もしますね。」
「じゃあ、違うものにしてみます?」
配達できる店を探していると、メキシコ料理の店が出てきた。
「タコスはどうですか?」
「いいですね。」
メニューを選んでいると、辛さを選ぶ項目があった。
辛口。
普通。
マイルド。
僕たちはマイルドと普通を適当に注文した。
しばらくして料理が届いた。
箱を開けると、タコスといくつかのサイドメニューが入っていた。
美咲さんが言った。
「どれが普通ですか?」
「こっちだと思います。」
僕は一つ取って食べた。
何度か噛んでみた。
「これなら大丈夫ですね。」
綾乃さんが尋ねた。
「辛いですか?」
「あまり辛くないです。」
僕の言葉を聞いて、美咲さんも同じものを一つ取った。
綾乃さんも続いて食べた。
少しして、美咲さんが水を手に取った。
「辛いです!」
綾乃さんもすぐに言った。
「辛いじゃないですか!」
僕は二人を見た。
「そうですか?」
もう一口食べてみた。
「このくらいなら大丈夫ですけど。」
美咲さんが僕をじっと見た。
「ハルさん、辛いもの苦手だって言ってませんでした?」
「はい。」
しばらく二人とも何も言わなかった。
美咲さんが言った。
「韓国でいう『辛いものが苦手』って、私が思ってた基準とは違うみたいですね。」
それを聞いた綾乃さんが、水を飲みながら笑った。
美咲さんが自分の前にあった普通の辛さのタコスを一つ、僕のほうへ押した。
「これはハルさんが食べてください。」
綾乃さんも普通の辛さのものを一つ、そっと僕の前へ移した。
僕は目の前に増えたタコスを見た。
そして、もう一つ手に取って食べた。
僕は少し不服そうに言った。
「本当に辛くないですよ。」
美咲さんと綾乃さんが同時に言った。
「辛いです!」




