第130話 会員
カフェの入口には、本日営業終了と書かれた札が掛かっていた。
私はドアを押して中へ入った。
中は普通の喫茶店だった。
テーブルの上にはコーヒーカップと灰皿が置かれ、片隅には折りたたまれた新聞も見えた。
「今日はもう営業は……。」
店員らしい男が、私を外へ出そうとした。
「いや、その人も会員だ。」
カフェの主人がドアに鍵を掛けてから、中へ戻ってきた。
「久しぶりだな、佐伯。」
「お久しぶりです。」
「あ、あなたが佐伯さん?」
私に営業は終わったと言っていた店員が、ぺこりと頭を下げた。
「しばらく座っていろ。」
カフェの主人に言われ、私は空いている席に座った。
しばらくすると、カフェの裏口が開き、一人、また一人と人が入ってきた。
「あれ?」
「お久しぶりです。」
「誰かと思えば、佐伯じゃないか。」
みんな顔を知っている人たちだった。
しばらくして、十数人がカフェに集まった。
「もういいだろ。みんな、気にせず話そう。」
店の主人がそう言うと、みんな日本語で話し始めた。
そのとき、向かいにいた男が私に言った。
「それにしても、君は本当に運が悪かったな。」
「どういうことですか?」
「どうして軍隊にまで連れていかれたんだ?」
「私も、そうなるとは思っていませんでした。」
隣にいた人が笑った。
「君が連れていかれたあと、朴さんから連絡が来たんだ。」
「朴相吉さんからですか?」
「ああ。朴さんが警告したのに君が市内へ出て軍隊に連れていかれたから、みんなもしばらく目立たないようにして、身を隠していろってな。」
カフェの主人もうなずいた。
「おかげで、俺たちもしばらく気をつけてたよ。」
「だから、君が一番運が悪かったってことだ。」
隣にいた別の人が言った。
「うまく察して避けておけばよかったのにな。」
「ちょっと鈍いもので。」
みんなが笑った。
しばらくして、向かいの男がまた尋ねた。
「軍隊生活はどうだ?」
「どうにかやっています。」
「どこで勤務してるんだ?」
「釜山の補給廠にいます。最近までは巨済捕虜収容所に派遣されていました。」
「捕虜収容所?」
「はい。」
「巨済はどうだった? 今、あそこはかなり騒がしいって聞くけど。」
「仕事中に捕虜たちに囲まれたこともありました。」
「何?」
向かいの男が私をじっと見た。
「大丈夫なのか?」
「幸い、怪我はありませんでした。」
「危なかったな。本当に危なかった。」
「俺の知り合いが言ってたけど、今あそこはいつ爆発してもおかしくない火薬庫みたいなものらしいぞ。」
「そうかもしれません。でも、今すぐ大きな問題が起きるわけではないようにも思います。」
そのとき、少し離れたところに座っていた男が言った。
「今の階級は何だった?」
「二等中士です。」
「それってどのくらいだ? 伍長くらいか?」
「私もよくわかりません。たぶん、そのくらいだと思います。」
「昇進、ものすごく早いんじゃないか?」
「運がよかったんです。」
「俺なんか何年もかかって、やっと上等兵になったのにな。」
「どこにいらしたんですか?」
「日本陸軍の朝鮮軍にいた。ここで勤務してたんだ。」
「そうだったんですね。」
「軍隊生活はどうだ? やっていけそうか?」
「ただ、任された仕事だけ考えて過ごしています。」
今度は私が彼らに尋ねた。
「皆さんは、その間どうしていたんですか?」
「俺たち?」
「はい。ずいぶん長いことお会いしていなかったので。」
カフェの主人が、自分の前にあるカップを持ち上げた。
「俺は相変わらず、カフェをやりながら暮らしてるよ。」
「ずっと続けてるんですね。」
「何とかな。」
彼は大したことでもないように言った。
「普段は普通に営業して、金曜の夜だけ少し早く店を閉めるんだ。来られる人がいたら来て、顔を見るくらいさ。」
隣にいた男が言った。
「俺もまだ工場にいる。」
「同じ工場ですか?」
「別のところだ。」
彼は少し笑ってから言った。
「何が面白いと思う?」
「何ですか?」
「今の社長は、昔俺の下で働いてた技術者なんだ。」
「今は逆になったんですか?」
「ああ。今は俺が、その人の下で工場長をやってる。」
彼は淡々としていた。
「もともと頭のいい人だったんだ。工場も俺よりうまく回してる。」
「では、これからもそこにいるつもりですか?」
「当分はな。」
彼は指でテーブルを軽く叩いた。
「まだ俺じゃないとうまくいかない工程がいくつかあるんだ。」
別の人が笑った。
「それ、もう何年も言ってるじゃないか。」
「本当だって。」
「工場が君を手放さないのか、君が工場を手放せないのかわからないな。」
「両方だろ。」
今度は私も笑った。
少しして、別の人が私に韓国語で言った。
「ところで君、韓国語はもうかなり話せるのか?」
「このくらいなら話せます。」
私も韓国語で答えた。
すると、ほかの人たちも一人、また一人と韓国語で話し始めた。
初めて会ったころとは違っていた。
話し方だけ聞けば、日本人だと簡単には気づかないほどだった。
しばらくすると、会話はまた日本語に戻った。
「朴さんにはずいぶん世話になったな。」
工場にいるという男が言った。
「あの人がいなかったら、今の工場にも入れなかった。」
別の人もうなずいた。
「俺も最初に仕事を探したとき、人を紹介してもらったよ。」
カフェの主人が言った。
「君が連れていかれたあと、俺たちにまで連絡してくれたんだから、また世話になったことになるな。」
私は何も言わず、うなずいた。
朴相吉氏は私だけでなく、この人たちともずっと連絡を取っていたようだった。
しばらくして、カフェの主人が折りたたんであった新聞を広げた。
「平和条約の話は聞いたか?」
「締結されたということだけ聞きました。」
「じゃあ、詳しいことは知らないんだな。」
彼は新聞を私のほうへ押した。
「日本は朝鮮に対する権利や請求を放棄することになった。」
そのとき、今まで黙っていた人が突然声を上げた。
「ちくしょう、俺たちは見捨てられたんだ。」
ほかの人たちの表情が硬くなった。
男が新聞を指した。
「本土では平和条約が結ばれたって喜んでるんだろうが、じゃあ俺たちはどうなる?」
誰も何も言えなかった。
「俺は、俺たちの問題も一緒に考えてくれると思ってた。」
隣にいた人が言った。
「俺もそう思ってたよ。」
「財産の問題でも身分の問題でも、何かしら結論が出るとは思ってた。それが、ただ放棄するだけだって?」
工場にいるという男が言った。
「まだ条約が発効したわけでもないし、ほかに整理しなきゃならない問題も残ってるだろ。」
「ああ。だから待とうって人もいる。」
「どうせもう全部終わりだ。終わり。」
「そんなに決めつけるな。もう少し待とう。」
「いったいいつまで?」
誰も答えなかった。
彼がまた声を上げた。
「終戦からもう六年だぞ、六年!」
彼は勢いよく席を立った。
「俺は日本へ帰る。もうここにいる理由はない。」
「今さら? 残ってる財産を全部諦めるのか? 今までそのために耐えてきたのに。」
「今さらもっと待ったって、何か変わるとも思えない。」
工場にいるという男が言った。
「俺はまだ行かない。」
「工場のためか?」
「それもある。」
彼は少し考えてから言った。
「ここでずっとやってきた仕事があるんだ。全部捨てて日本へ行って、最初からやり直したくはない。」
カフェの主人も言った。
「俺も今すぐ帰るつもりはない。」
別の一人は肩をすくめた。
「俺はもう、日本がどうなろうと構わない。ここで暮らすよ。」
私はずっと黙っている男を見た。
以前、貴金属の細工をしていると言っていた男だった。
「どうするつもりですか?」
「わからない。」
彼の表情は明るくなかった。
「前はこのままここで暮らすつもりだったけど、今はそれもよくわからないな。」
カフェの主人が新聞を畳んだ。
「結局、みんな考えが違うんだな。」
「事情が違うからな。」
「でも、一つだけ同じだろ。」
誰かが言った。
「こんなに長く待つことになるとは、誰も思ってなかったってことだ。」
誰も反論しなかった。
しばらくして、向かいにいた男が私を見た。
「それで、佐伯。」
「はい?」
「君はどうするんだ?」
私は彼を見た。
「朝鮮戦争が終わったら、日本へ帰るのか?」
私は答えられなかった。




