第128話 久しぶりだな
僕はしばらく綾乃さんを見た。
「本当に挨拶だけでいいんですよね?」
「はい。」
「そのくらいなら……わかりました。」
綾乃さんの表情が、ようやく少し和らいだ。
「ありがとうございます。」
美咲さんは何も言わず、僕たちを見ていた。
それで話は終わった。
父親が来るまではまだ時間があったので、綾乃さんはすぐに自分の研究室がある二階へ上がっていった。
「はあ。」
僕は冷蔵庫からお茶を一本取り出し、目の前にあった瀬戸田レモンのお菓子を手に取った。
何か少し食べていたほうがいい気がした。
僕が少し休もうと飲み物やお菓子を手にすると、美咲さんも仕事を止めて一緒にお菓子や飲み物を口にすることが多かったが、今日は忙しいのか、ずっとノートパソコンに向かっていた。
仕方ないか。
僕はお菓子を食べながら、仕方のないことだと自分を納得させた。
研究が遅れるのはよくない。
綾乃さんの言うとおり、遅れて困るのは僕だった。
僕はまたノートパソコンの前へ戻り、以前確認した資料を見直した。
そうして時間が過ぎた。
「そろそろ上がったほうがよさそうです。」
二階から下りてきた綾乃さんの言葉に、僕は席を立った。
美咲さんが言った。
「いってらっしゃい。」
「はい。」
綾乃さんと一緒に上へ向かった。
ヘリポートに着くと、日が少しずつ傾いていた。
綾乃さんが言った。
「本当に、普通に挨拶だけしてもらえれば大丈夫です。」
「わかりました。」
しばらくすると、遠くからヘリコプターの音が聞こえてきた。
音はすぐに大きくなった。
ヘリコプターが近づくにつれて風が強くなり、機体がゆっくりと降りてきた。
完全に着陸すると、ドアが開いた。
一人の男性が降りてきた。
綾乃さんの父親だった。
きちんとした服装で、歩くのも速かった。
周囲を見回したり立ち止まったりすることなく、そのまま僕と綾乃さんのところへ歩いてきた。
綾乃さんが言った。
「お父さん。」
そして僕を見て付け加えた。
「この前話した方です。」
父親はすぐに僕を見た。
「初めまして。」
「ああ。写真は見たよ。君が佐伯君か。」
僕は軽く笑って頭を下げた。
彼は一度時間を確認した。
「悪いが、長くはいられなくてね。このあと大事なミーティングがあるから、今日は顔だけ見ておこうと思って寄ったんだ。」
幸い、僕については何一つ聞かれなかった。
「また時間があるときに会おう。」
「はい。」
綾乃さんの父親は再びヘリコプターのほうへ戻ろうとして、足を止めた。
「ああ、これも。」
持っていた紙袋を一つ、綾乃さんに渡した。
「これ、何ですか?」
「来る途中でもらったんだ。このままミーティングに行かないといけないから、君たちで食べなさい。」
綾乃さんの父親は再びヘリコプターに乗った。
しばらくして機体が浮かび上がった。
僕は遠ざかっていくヘリコプターを見てから、綾乃さんを見た。
「……終わったんですか?」
「はい。」
「本当に顔だけ見て帰りましたね。」
「そう言ったじゃないですか。」
思っていたより、ずっと簡単に終わった。
僕たちは一階の作業スペースへ戻った。
ドアを開けると、美咲さんが僕たちを見た。
「もう終わったんですか?」
「はい。」
僕は席に座りながら言った。
「顔を一度見て、また今度って言われて終わりました。」
美咲さんが綾乃さんの手にある紙袋を見た。
「それは何ですか?」
「父が来る途中でもらったそうです。一緒に食べなさいって。」
綾乃さんが紙袋から箱を取り出した。
きれいに包装された箱の一角には、インディーズカシマシという名前が書かれていた。
箱を開けると、中には個包装のお菓子が入っていた。
フィナンシェやマドレーヌ、リーフパイも見えた。
「日本に来て、本当にいろいろ食べてますね。」
僕が言うと、美咲さんが笑った。
「今度はお菓子ですね。」
僕はフィナンシェを一つ選んだ。
美咲さんはリーフパイを取り、綾乃さんはマドレーヌを選んだ。
包装を開けると、バターの香りがした。
僕はフィナンシェを一口食べた。
表面は少ししっかり焼かれていたが、中はしっとりしていた。
噛むほどに、バターの香ばしさが残った。
隣では美咲さんがリーフパイを食べていた。
薄い層がさくさくと崩れる音がした。
「これもおいしいです。」
綾乃さんもマドレーヌを一口食べた。
「柔らかいですね。」
少し前まで彼氏のふりをする話をしていたのに、いつの間にか三人でお菓子を食べていた。
「でも、すぐ終わってよかったですね。」
美咲さんが言った。
「そうですね。」
綾乃さんもうなずいた。
僕たちは残ったお菓子を箱に戻した。
「資料の保存処置が終わって、もう確認できます。みんなで上に行って見ましょう。」
綾乃さんの提案で、僕たちは全員二階へ上がった。
「この部分を見てください。」
今回は、いつもより出来事の流れが長めに残っていた。
僕は記録を追いながら、その日、祖父が経験したことを頭の中に浮かべた。
◆◆◆
私は以前会った上等兵と、また一緒に動いていた。
以前、煙草を渡そうとしてきた男だった。
今回は何も取り出さなかった。
今日は奥の補給施設を確認することになっていた。
棍棒を持った警備兵二人と、上等兵を含む補給兵三人、それに私が一緒に動いた。
私たちは捕虜たちがいる区域の奥へ入った。
「二等中士殿、先頭に立ってください。」
上等兵に言われ、私は一番前に立った。
最初は何もなかった。
以前にも見た施設だった。
だが、奥へ進むほど、以前とは違う視線を感じた。
彼らの目つきは鋭く、敵意がこもっているように見えた。
そのとき、捕虜が一人前へ出てきた。
「下がれ。」
私は言った。
下手に近づけば、棍棒を持った警備兵に痛い目に遭うかもしれなかった。
そのとき、その男が上等兵に向かって叫んだ。
「お前! この前の物資は、なんであんなに少なかったんだ!」
周囲からも別の声が聞こえた。
「そうだ。」
「前も足りなかったぞ。」
上等兵の表情が硬くなった。
「下がれ。」
「下がれ!」
棍棒を持った警備兵たちが警告した。
だが、捕虜たちは下がらなかった。
むしろ何人かは、さらに近づいてきた。
警備兵の一人が、近づいてきた捕虜を棍棒で殴った。
その瞬間、空気がさらに険悪になった。
上等兵が叫んだ。
「走れ!」
すると警備兵と補給兵たちは、すぐに出口のほうへ走った。
私も後を追おうとした。
だが、位置が悪かった。
一番前に立っていたせいで、逃げる機会を逃してしまった。
周囲を見た。
捕虜たちが私を取り囲んでいた。
何人かはポケットが膨らんでいた。
中に何が入っているのかはわからなかった。
「あの野郎が責任者か!」
ますます空気が荒れていった。
そのとき、人々の後ろから声が聞こえた。
「久しぶりだな。」
顔を向けた。
以前会った捕虜代表が立っていた。
代表は人の間を抜けて前へ出てきた。
しばらく私を見てから尋ねた。
「あんた、今までどこにいた?」
「釜山にいました。」
「釜山?」
「はい。そちらへ転属になって、今回は少し補給の状況を確認しに来ました。」
代表がうなずいた。
「そうか。」
彼は周囲を見てから、また私を見た。
「あんたが来なくなってから、ここの補給はめちゃくちゃだ。特にさっきの上等兵が担当してるときは、いつも物が足りない。」
「上には、できるかぎり今の状況を伝えてみます。」
そして少しして付け加えた。
「ただ……私の立場でできることは多くありません。」
代表が私を見た。
「正直だな。」
そのとき、外のほうから音がした。
武装した警備兵たちが中へ入ってきていた。
さっき先に逃げた兵士たちが、状況を知らせたらしい。
その中には、少し前まで一緒にいた上等兵の姿も見えた。
代表は警備兵たちを見た。
そして私に手で合図した。
「行け。」
周囲にいた人々が、少しずつ道を空けた。
私はその間を通っていった。
警備兵たちのいるところまで抜けたあと、少し離れた場所に立っていた上等兵を見た。
目が合った。
私は彼を睨んだ。
上等兵は何も言わなかった。
私はそのまま区域の外へ出た。
◆◆◆
僕は記録から目を上げた。
美咲さんが言った。
「危なかったですね。」
「そうですね。」
「これ、佐伯さんが前に石鹸の数をそろえて渡した、あの人ですかね?」
「そうかもしれません。」
僕はもう一度記録を見下ろした。
祖父はただ、あのときした約束を守っただけだった。
そのことを覚えている人がいるとは、思っていなかっただろう。




