第127話 佐伯君
「何て言ったんですか?」
綾乃さんはしばらく僕を見てから言った。
「最初から話したほうがいいと思います。」
「はい。」
僕は綾乃さんの話を聞きながら、その昼食の様子を頭の中に思い浮かべた。
◆◆◆
最初は普通の昼食だった。
父が最近の研究はどうだと聞いてきて、私は昨日、研究のために松山と北条へ行った話をした。
そこで三津浜焼きも食べたし、じゃこ天と北条鯛めしも食べたと言った。
しばらく聞いていた父が言った。
「研究の話より、食べた話のほうが多い気がするな。」
「研究もちゃんとしました。」
私がそう言うと、父が笑った。
「最近は研究がずいぶん楽しいみたいだな。」
「はい。楽しいです。」
「最近、研究所で一緒に動いている人たちがいるんだろ?」
「はい。今、一緒に資料を見ている方たちです。」
そのとき、父が別の話を始めた。
「お前ももういい年だし、これから一度会ってみてほしい人たちが何人かいる。」
「誰ですか?」
「一度会ってみてもいいんじゃないかと思う人たちだ。」
「え?」
私は驚いた。
父はすでに来週の予定まで、ある程度決めていたらしい。
来週はほとんど毎晩、誰かと会う予定が入っていた。
「そんなに会ってたら、研究する時間がないじゃないですか。」
「まず一度会ってから考えればいい。」
父には大したことではないようだった。
でも、私にとっては違った。
研究が止まって、遅れていくのが嫌だった。
父が言った。
「今、特に付き合ってる相手がいるわけでもないんだろ?」
その瞬間だった。
「います。」
思わず、そんな言葉が出た。
「何が?」
私は少しためらってから答えた。
「……彼氏です。」
「研究所にいるっていう、あの佐伯という人か?」
え?
一瞬、疑問に思った。
どうして父が佐伯という名前を知ってるんだろう?
でも、もう彼氏がいると言ってしまったあとだった。
思わず「はい」と答えてしまった。
父がもう一度尋ねた。
「一緒に撮った写真はあるのか?」
あった。
前日に北条で撮った写真だった。
私はスマートフォンから写真を探して、父に見せた。
私とハルさんが一緒に写っている写真。
後ろに北条と海が見えていた、あの写真だった。
父は写真を少し見た。
「この人が佐伯君か。」
◆◆◆
綾乃さんの話を聞いて、僕はしばらく何も言えなかった。
ふと、一つ気になったことがあった。
「ちょっと待ってください。」
「はい?」
「でも、どうして僕が佐伯なんですか?」
綾乃さんが視線をそらした。
「たぶん、運転手さんからだと思います。」
「まだ話してなかったんですか?」
「……まだ言えてなくて。」
以前、運転手さんが僕を佐伯さんだと思っていたことがあった。
綾乃さんが訂正しておくと言っていたので忘れていたが、まだ話していなかったらしい。
「たぶん、運転手さんが父にそう話したんだと思います。」
「それで、その写真も見せたんですか?」
「……はい。」
僕は美咲さんのほうを見た。
美咲さんも何も言わず、僕たちを見ていた。
「それで……話はそこで終わったんですか?」
僕が尋ねた。
綾乃さんがゆっくり首を横に振った。
「いいえ。」
「まだあるんですか?」
「父が、一度直接会ってみたいと言ったんです。」
「僕にですか?」
「はい。」
僕は少し言葉を失った。
「いつですか?」
「今日の午後、遅めの時間です。」
「今日ですか?」
「でも、本当に少しだけです。」
綾乃さんがすぐに付け加えた。
「そのあと大事なミーティングがあるので、長くはいられません。もともとの予定の合間に、少し時間を作って寄るだけです。」
「ここにですか?」
「はい。」
「どうやって?」
「ヘリコプターで。」
僕はもう驚かなかった。
綾乃さんのお父さんなら、そういうこともありそうだった。
「顔を見たら、すぐ行くと思います。」
「じゃあ、僕は何をすればいいんですか?」
「何もしなくて大丈夫です。」
綾乃さんが言った。
「時間になったら、私と一緒に屋上まで上がってください。私が紹介するので、普通に挨拶だけしてもらえれば。」
「それで終わりですか?」
「はい。」
綾乃さんが少し言葉を止めた。
「そうしないと、しばらくは紹介された人たちに会いに行かないといけなくなりそうなので。」
そして、とても真剣に付け加えた。
「そうしたら研究する時間がなくなります。ハルさんが日本にいる時間も限られていますし。」
僕は綾乃さんを見た。
美咲さんは何も言わなかった。
綾乃さんがもう一度、僕を見た。
「それで……お願いしてもいいですか?」
「何をですか?」
少しの沈黙があった。
「父が来たとき、少しだけ私の彼氏のふりをしてもらえませんか?」
綾乃さんがもう一度言った。
「本当に少しだけです。挨拶だけしてもらえれば大丈夫です。」
僕は簡単には答えられなかった。




