第124話 北条鯛めしですね
中に入ると、外から見たときより静かだった。
「あそこに写真がありますね。」
昔の写真があった。
今より簡素な港と海岸、低く続く町並み、その向こうに見える鹿島。
僕は写真を近くで見た。
建物も違っていたし、港の様子も今とは違っていた。
それでも、どこを見ているのかは何となくわかった。
さっきまで僕たちが歩いていた北条と、まったく別の場所には見えなかった。
昔の学校や周辺の様子を写した資料もあった。
写真の中には生徒や住民たちも写っていた。
美咲さんが一枚を見ながら言った。
「この人たちの中にいたかもしれませんね。」
「そうですね。」
でも、写真の中の人たちをどれだけ見ても、この人がその人だと特定することはできなかった。
僕たちはほかの資料も見て回った。
その中には『北条市誌』もあった。
分厚い本だった。
綾乃さんは最初から読み始めず、まず目次と索引を確認した。
美咲さんは学校や地域の暮らしに関する部分を開き、僕は産業や商業に関するところをめくった。
住所も、彼の家族につながるような記録も見つからなかった。
僕はページをめくりながら、ふと河野信夫が話していた家のことを思い出した。
「会社のほうの記録が残ってる可能性もありませんか?」
僕が言うと、美咲さんが顔を上げた。
「会社を経営してたって話でしたもんね?」
「はい。」
綾乃さんも別の索引を開いた。
「会社名がわかれば、ずっと探しやすいんですけどね。」
問題は、その名前がわからないことだった。
僕たちは商業や産業、北条出身の人物に関するところをさらに探した。
朝鮮やほかの地域へ渡った人についての記録も確認した。
それでも、河野信夫の父親だと特定できる人物は出てこなかった。
結局、少し休むために休憩室へ移動した。
自動販売機でそれぞれ飲み物を選び、椅子に座った。
「簡単じゃないですね。」
「そうですね。」
綾乃さんが飲み物の缶を持ったまま尋ねた。
「ところで、日本側の身分を持っていたことが、朝鮮で会社を経営するうえで影響した可能性はあるんですか?」
僕は少し考えてから答えた。
「そういう可能性はあったと思います。」
飲み物を飲んでいた美咲さんが僕を見た。
「会社令というものがあったんです。」
「会社令?」
「はい。1910年から、朝鮮で会社を作るときに総督府の許可を受けなければならなかった時期がありました。」
許可を受けなければならない、という言葉だけなら単純だった。
でも、実際に許可を受ける側の立場で考えると話は違ってくる。
「たとえば、学校にいくつか学科があると考えてみてください。」
美咲さんが僕を見た。
「学校ですか?」
「ただのたとえです。」
僕はテーブルの上に手を置いた。
「生徒が好きな学科を自由に選ぶんじゃなくて、許可をもらわないと入れないとします。」
「はい。」
「それで、将来性があって人気のある学科には日本人の生徒が先に入って、空きがあって初めて朝鮮人の生徒にも機会が来るように感じたとしたら。」
美咲さんが少し考えた。
「いい気分はしないでしょうね。」
「そうでしょうね。」
僕はスマートフォンで会社令についての資料をもう少し調べた。
「1918年までに会社設立の許可を受けた数を見ると、日本人の会社が289社、朝鮮人の会社が63社と出ています。」
美咲さんが僕の画面を見た。
「かなり差がありますね。」
「はい。」
僕は別の資料も少し探した。
「工場のほうを見ても差があります。朝鮮人が経営するところには皮革や製紙、金属加工のような分野が多くて、製粉や製鉄のほうは日本人が経営するところのほうがずっと多かったと出ています。」
美咲さんが少し考えた。
「やっている事業自体にも違いがあったんですね。」
僕は画面を少し下へ送った。
「これだけ差が見えると、朝鮮の人たちからすれば、日本人が主にやる事業と朝鮮人が主にやる事業が、実質的に分かれているように感じた人もいたかもしれません。」
「そう感じてもおかしくはないですね。」
「利益が見込めて将来性のある事業には、すでに日本人が先に進出していて、自分たちには彼らがあまり関心を持たない事業しか残っていない、と感じた朝鮮の人もいたかもしれません。」
綾乃さんが言った。
「でも、会社令はあとでなくなったんですよね?」
「はい。1920年に廃止されています。」
「どうしてなくなったんですか?」
僕は少し画面を見てから答えた。
「理由を一つだけで説明するのは難しいと思います。」
「そうなんですか?」
「そのころには、会社令がなくても日本企業が資本力で朝鮮企業より優位に立てると考えられていたのかもしれませんし。」
僕は少し考えてから付け加えた。
「逆に、会社令があることで日本企業の側も不便を感じていた可能性もあります。そこまで正確な事情は僕にもわかりません。」
美咲さんがうなずいた。
「とにかく、会社令そのものはなくなったんですね。」
「はい。でも、だからといって、その日からスタートラインまで同じになったわけではなかったと思います。」
「どうしてですか?」
「会社令が廃止されるころには、すでに日本の会社が朝鮮市場のいろいろな分野で先に地位を築いていたでしょうから。」
「そういうこともありそうですね。」
「会社を作れるようになっただけで終わりじゃないですし。金融や取引先の面でも、日本人の事業者とまったく同じ条件だったとは考えにくかったでしょうし、見えない壁のようなものもあったでしょうね。」
綾乃さんが缶を置いた。
「それなら、日本側の身分を使うほうがずっと有利だったんでしょうね。」
僕は飲み物を一口飲んだ。
「でも、解放後は状況がまったく変わります。」
「どう変わるんですか?」
「日本人や日本の会社が朝鮮半島の南側に持っていた財産は、米軍政のもとで帰属の対象とされたんです。」
綾乃さんが少し考えた。
「それなら、河野信夫のお父さんが急いで財産を整理しようとしていたのも……。」
僕はうなずいた。
河野信夫の話では、父親は会社の持分や財産を息子へ移すために朝鮮側の書類を用意しようとしていて、その過程で姜泰洙という名前ができたということだった。
「会社の名前さえわかれば、かなり調べやすくなると思うんですけど。」
美咲さんは飲んでいた缶をテーブルに置くと、悔しそうに小さく拳を握り、何度か振った。
「仕方ないですよ。今、僕たちが見ているのは何十年も前の記録ですから。」
当時、祖父には会社名まで書き留める余裕がなかったのかもしれないし、河野信夫がそこまで話さなかった可能性もあった。
そうなると、確認できる範囲には限界があった。
そのとき、美咲さんが振っていた手を止め、ぱっと上げた。
「じゃあ、戸籍は?」
すると綾乃さんが少し考えてから言った。
「難しいでしょうね。さっき学校の記録も確認できなかったんですから、戸籍はもっと難しいと思います。」
「やっぱりそうですよね。」
「はい。」
美咲さんががっくりとうつむいた。
「ここまで来たのに……。」
「でも、おいしいじゃこ天は食べられたじゃないですか。」
僕が言うと、美咲さんがぱっと笑った。
「そうですよね? おいしかったですよね。」
「おいしかったです。」
綾乃さんもうなずいた。
僕たちはふるさと館の外へ出た。
中で思ったより長く資料を見ていたらしい。
入ってきたときより、日がかなり傾いていた。
「そろそろ戻ったほうがいいですかね?」
僕が尋ねると、綾乃さんが時間を確認した。
「そうしたほうがよさそうですね。」
僕たちは公園を出て、また町を歩いた。
すると綾乃さんが一方を見て、足を止めた。
「あ。」
「どうしました?」
綾乃さんが店のほうを指した。
「北条鯛めしですね。」
「鯛めしですか?」
入口のあたりには、持ち帰りできるという案内も見えた。
綾乃さんが僕たちを振り返った。
「あれを持ち帰って、夕食にするのはどうですか?」
美咲さんがすぐにうなずいた。
「いいですね。」
僕も店を見た。
「僕もいいです。」
僕たちはそちらへ歩いていった。




