第120話 伊予弁
前線に着いたが、俺は戦うつもりはなかった。
機会を見て銃を捨て、両手を上げた。
そうして捕虜になった。
尋問官に、俺は日本人だと言った。
だが、彼は呆れたように俺を見た。
「お前の部隊にあった身上資料だ。名前は姜泰洙となっている。」
「違います。俺の名前は河野信夫です。」
俺のたどたどしい朝鮮語を聞くと、彼は笑いさえした。
「日本から来たみたいだな。うちの部隊にも日本から戻ってきた者はけっこういる。」
「俺は本当に日本人です。愛媛県温泉郡北条町が故郷で、母も日本にいます。日本の戸籍にも俺の名前があります。」
だが、彼は俺の言葉を無視した。
俺は近くの捕虜収容所へ移送された。
その後も同じことを主張したが、何も変わらなかった。
そしていくつかの収容所を転々としたあと、翌年、巨済捕虜収容所へ送られた。
入所時の物資を受け取るとき、俺はもう一度、自分は日本人だと叫んだ。
だが、無駄だった。
そのうちほかの捕虜たちと喧嘩になり、医務室へ来ることになった。
そして意識を取り戻すと、一人の男が見えた。
その男が日本語で尋ねた。
「本当に日本人なのか?」
俺の叫びに、初めて応えてくれた男だった。
俺はその男に、故郷の北条のことから、父のいる朝鮮へ来たこと、姜泰洙という名前を与えられたこと、病院から連れていかれたことまで、すべて話した。
◆◆◆
僕は一度、記録から目を上げた。
自分は日本人だと主張する男が、祖父に話した内容はそこまでだった。
そして、その先には、その後に起きたことが続いていた。
僕はもう一度記録を読み、その内容を追っていくうちに、当時の医務室の様子が頭の中に浮かんできた。
◆◆◆
管理将校が入ってきた。
疲れた表情をしていた。
捕虜の身上関係の書類を手にしていた。
将校は寝台につながれている男を見て、書類を確認した。
「お前、名前は?」
男がすぐに答えた。
「俺の名前は河野信夫だ。」
日本語で答えると、将校も日本語で返した。
「鹵獲した北朝鮮軍の書類には、姜泰洙とある。」
「それは俺の名前じゃない。俺は日本人の河野信夫だ。」
将校は書類を何枚かめくった。
「政治将校が残した兵士の評価書類には、お前が軍務から逃れるために、自分は日本人だと主張していると書いてある。」
男が管理将校を見た。
「本当のことを言っただけだ。」
「とにかく、今のお前が日本人かどうかは関係ない。」
「関係ないだと?」
「今、お前は北朝鮮軍の捕虜として登録されている。」
「俺は無理やり連れていかれたんだ。」
「それはここでは判断できない問題だ。」
「でも!」
「お前の話を信じないと言ってるんじゃない。だが、お前の話だけを聞いて、今すぐ記録を変えることもできない。」
男は黙った。
将校が言った。
「ほかの捕虜たちと喧嘩するな。」
「向こうが先に――」
「どちらが先でも喧嘩はするな。これは本気でお前のために言っている。この巨済捕虜収容所は、お前が今までいた小さな収容所とは違う。」
管理将校は警備兵に、男を連れていくように言った。
すると衛生兵が、男の手首にはめられていた手錠を外した。
男は寝台から起き上がった。
扉を出る前に、もう一度言った。
「俺は日本人だ。」
将校は答えなかった。
◆◆◆
「はあ。」
僕は長く息を吐いた。
しばらく記録を見つめてから、その下の文を確認した。
祖父はその後、あの男について何度か話を聞いたと書き残していた。
ほかの捕虜たちとまた喧嘩をして怪我をし、病院へ行ったという話があった。
状態が悪くなり、別の場所へ移されたという話もあった。
収容所から逃げようとして、警備兵に撃たれたという話もあった。
すべて祖父が誰かから聞いた話だった。
そのあと、自分は日本人だと主張していた男がどうなったのかは、どこにも書かれていなかった。
しばらく誰も話さなかった。
少しして、美咲さんが口を開いた。
「ところで、ハルさん。」
「はい?」
「さっき出てきた政治将校って何ですか?」
僕の知るかぎりでは、共産圏の軍隊で政治教育や思想に関する仕事を担当する将校だった。
ただ、当時の北朝鮮軍で正確にどんな役割をしていたのかまでは詳しく知らなかった。
「だいたいはわかるんですけど、当時の北朝鮮軍ではどうだったのか、一度調べてみます。」
検索してみた。
北朝鮮軍の政治将校は、兵士に政治・思想教育を行い、部隊員の態度や動向を見て報告する役割も担っていた。
兵士についての評価を残すこともあった。
僕は画面を見てから、もう一度祖父の記録を見た。
美咲さんも同じ部分を見ていた。
「じゃあ、この政治将校は日本人だという話を信じなかったんですね。」
「そうみたいですね。」
そのとき綾乃さんが言った。
「でも、捕虜になったあとで、とっさに作った話ではないですね。」
「それはそうですね。」
僕はまた検索画面を開いた。
「朝鮮戦争当時の北朝鮮軍による強制動員について調べてみます。僕の知るかぎりでは、韓国の占領地域からかなりの人数を動員していて、後になるほど強制動員が増えたと聞いているので。」
少しして検索結果が出た。
「正確な数字はないみたいですね。少ない推計では五万から十万人未満とする研究もありますし、広く見れば十万から四十万人まで推計されています。」
僕は画面を少し下へスクロールした。
「初期には自ら志願した人もいましたけど、後になるほど強制的な動員が増えたそうです。」
「では、病院から連れていかれたという話も、それほどおかしくはないんですね。」
美咲さんが言った。
「はい。」
僕は検索結果をもう少し確認した。
「韓国出身の捕虜のうち、約四万人が後に民間人抑留者として再分類されたという資料もありますね。ただ、すぐに解放されたわけではなかったみたいです。」
綾乃さんが祖父の記録をもう一度見た。
「それなら、あの管理将校の態度もある程度わかりますね。」
「そうですね。その場で、あの人が日本人なのかどうかを判断したり、記録をすぐ変えたりできる立場ではなかったでしょうから。」
彼にできたのは、この巨済捕虜収容所はこれまでいた場所とは違うから気をつけろ、と忠告することくらいだった。
そのとき美咲さんが資料の上のほうを指した。
「あの。」
「はい?」
「この言い方です。」
美咲さんが指で二か所を示した。
~けん
~しよる
祖父が、日本語の表現が少し独特だとして別に書き留めていた部分だった。
「これ、四国のほうで使う言葉だった気がするんですけど。」
「そうなんですか?」
「正確にはわかりません。調べてみます。」
検索してみると、「~けん」と「~しよる」は実際に愛媛の伊予弁でも使われる表現だった。
僕たちはもう一度、記録に書かれていた地名を確認した。
愛媛県温泉郡北条町。
美咲さんがしばらく記録を見つめた。
「……この人、本当に日本人だったんじゃないですか?」
僕はすぐには答えられなかった。
綾乃さんも記録を見ていた。
「まだ、そこまでは断定できません。」
「そうですけど……。」
美咲さんがもう一度、北条町という文字を見た。
「少なくとも、北条で暮らしていたという話は本当だったみたいですね。」




