第119話 必要のない名前
会社を整理すると言って、父は毎日外へ出ていた。
俺はその姿を見ていて、とうとう尋ねた。
「でも、本当に全部渡すんですか?」
父が俺を見た。
「何のことだ?」
「会社です。」
俺は少し言葉を選んだ。
「もともと家族が一緒に作った会社だとしても、そのまま全部渡したら、お祖父さんと父さんが今まで苦労してきたのは何だったんですか?」
父はすぐには答えなかった。
やがて言った。
「俺もそれはわかっている。」
「じゃあ?」
「だから、こうしてるんだ。」
俺には意味がわからなかった。
父が椅子に座った。
「名義は戻す。今のまま俺たちの名義で持ち続けるのは危険だ。」
「それじゃ、結局全部渡すってことじゃないですか。」
「だからといって、何も持たずに日本へ帰るつもりはない。」
俺は父を見た。
「日本だって今はめちゃくちゃだ。ここにあるものを全部置いて帰ったら、俺たちだって一文無しになるかもしれない。」
父は母にも事情を書いて、手紙を送ったと言った。
「それで?」
「会社はこのまま続けないといけない。そうすれば、あとで俺たちの取り分も受け取れる。」
「父さんが?」
「俺の名前では駄目だ。だから、金を受け取る人間は別にしないといけない。」
「誰ですか?」
父が俺を見た。
「お前だ。」
俺はしばらく何も言えなかった。
「朝鮮側の名前を一つ作って、お前を親戚たちの中に入れる。」
俺は父を見た。
「嫌です。」
「まだ全部話してない。」
「聞くことなんてありません。」
俺は席を立った。
「どうして俺が朝鮮人になるんですか?」
「本当に朝鮮人になれと言ってるわけじゃない。」
「名前を作って、書類に入れるって言ったじゃないですか。」
「今はお前が若すぎる。何年かすれば、お前の名前を会社に載せられる。そのとき持分の一部をお前の名義にして、あとで整理して金に換えればいい。日本へ戻るときには必要のない名前だ。」
「嫌です。」
父はしばらく俺を見た。
「じゃあ、日本へ戻ってどうやって暮らすんだ?」
「何とかして暮らせばいいでしょう。」
「どうやって?」
俺は答えられなかった。
「お前の母さんまで路頭に迷わせるつもりか?」
「そこまで言う必要ないでしょう。」
「ある。」
父は声を荒らげなかった。
「今持っているものを全部ここに置いていけば、お前も、俺も、お前の母さんも、また一から始めないといけない。」
俺は黙った。
父が言った。
「全部俺がやる。お前は最後に名前だけあればいい。」
俺は最後まで嫌だと言ったが、結局、父の言うとおりになった。
親戚たちが書類を用意した。
どうやったのかは詳しく知らなかった。
父が一枚の紙を俺の前に置いた。
そこには、見たことのない名前が書かれていた。
姜泰洙。
俺はしばらくその名前を見つめた。
「これ、誰ですか?」
「お前だ。」
「俺の名前は河野信夫です。」
「わかっている。だが、しばらくだ。全部片づいたら北条へ戻ればいい。」
結局、俺はその書類を受け取り、十八になったころ会社の取締役になった。
名ばかりの取締役だった。
会社で何が行われているのか、まともに知ってもいなかった。
すべて父と親戚たちがやっていた。
俺はたまに会社へ出て、印を押したり、書類に名前を書いたりした。
それ以外にやることはほとんどなかった。
金はあったので、一日中酒を飲んだ。
そうしているうちに、聞き取れる言葉が少しずつ増えていった。
そのうち、酒を注文したり喧嘩をしたりするときくらいなら、朝鮮語でも話せるようになった。
日本へ戻るという話は、ずっと先延ばしになった。
金を整理して日本へ戻ることは、思っていたようには進まなかった。
そのうち体を悪くした。
最初は大したことではないと思った。
だが、目が黄色くなり、まともに食べることもできなくなった。
病院へ行くと、肝臓がよくないと言われた。
しばらく入院した。
退院するとまた酒を飲み、ほどなくしてまた病院へ入った。
そんな中で、戦争が始まった。
数日後、京城が落ちた。
父が病院へやって来た。
いつもより表情が硬かった。
「俺は行かないといけない。」
「どこへですか?」
「南へ。」
「俺は?」
父はしばらく俺を見た。
「お前はここにいろ。」
「病院にですか?」
「まだ患者だからな。それで病院の人に会ってきた。」
「どうしてですか?」
「体が治っても、しばらくここにいられるようにしておいた。そうしないと徴兵されるかもしれないからな。」
「徴兵?」
父がうなずいた。
「若い男たちを連れていくという話がある。」
そうして父が去ったあとも、俺は病院に残った。
その後、実際に軍人たちが何度か病院へ来た。
若い男たちを確認して回っていた。
だが、俺は患者だという理由で見逃された。
このまま無事に済むと思っていた。
ところが、ある日また軍人たちがやって来た。
一人の男が俺の書類を見下ろした。
俺の状態をいくつか確認してから尋ねた。
「もう退院してもいいんじゃないか?」
隣にいた兵士が、その男を軍医と呼んだ。
朝鮮語での質問に、俺は答えなかった。
「姜泰洙。」
俺はその名前を聞いても、すぐには答えなかった。
男が俺を見た。
「姜泰洙だろう?」
「違います。」
「何?」
俺は日本語で言った。
「俺の名前は河野信夫です。」
男の表情が少し変わった。
「お前が日本人だと?」
その男も、俺と同じように日本語で言った。
「今までは患者だと言っていたくせに、今度は日本人だと言うのか?」
「本当です。俺はもともと日本人です。愛媛県温泉郡北条町が故郷です。母も日本にいます。」
男は鼻で笑った。
「俺も日本から来た。だからといって、日本人だなんて嘘はつかない。」
「嘘じゃありません。」
男の顔から笑いが消えた。
「徴兵から逃れるために病院に隠れていたうえ、今度は日本人のふりか?」
「ふりじゃありません。」
俺は話を続けようとした。
そのとき、隣にいた兵士が銃を構えた。
銃口が俺のほうを向いた。
「もう一度くだらないことを言ったら、ここで終わりだ。」
俺は口を閉じた。
そのまま北朝鮮軍に無理やり連れていかれ、まともな訓練も受けないまま前線へ向かった。




