第110話 星って何ですか?
「ここで仕事をすればいいじゃないですか。」
美咲さんが目を瞬かせた。
「ここでですか?」
「はい。一階にスペースがあります。」
綾乃さんが先に下の階へ降りた。
一階の奥には、思っていたより広い空間があった。
何人かで作業できるテーブルと椅子が置かれ、片側にはソファと小さな本棚があった。
ノートパソコンを使うためのコンセントも十分にありそうだった。
「ここ、長くいても大丈夫ですか?」
美咲さんが尋ねた。
「はい。自由に使ってください。」
美咲さんが周囲を一度見回した。
「……本当にカフェに行く必要ないですね。」
「こっちのほうが楽そうですけど。」
僕が言うと、綾乃さんがうなずいた。
「でしょう? あちらの飲み物やお菓子も自由にどうぞ。」
片側には飲み物とお菓子が用意されていて、前に美咲さんと食べた瀬戸田レモンのお菓子もあった。
冷蔵庫をのぞくと、ミネラルウォーターや何種類かの飲み物に混じって、緑茶のような飲み物のペットボトルが一本入っていた。
ラベルには大きく「お~いお茶」と書かれていた。
初めて見る飲み物だった。
「今、飲んでも大丈夫ですよ。」
綾乃さんに言われ、ちょうど喉も渇いていたので取り出して一口飲んだ。
冷たくて、おいしかった。
「ゲスト用のWi-Fiもあります。それを使ってください。」
「ありがとうございます。」
「私はここでそのまま仕事できますね。」
美咲さんが自分のノートパソコンを指した。
「はい。」
綾乃さんが、片側にある鍵のかかった収納棚に職員証をかざした。
ロックを解除し、中からノートパソコンを一台取り出した。
「ハルさんはこれを使ってください。私が送った資料を確認するときに使えばいいです。」
何も言われなかったが、おそらくセキュリティのためなのだろう。
「ありがとうございます。」
僕としても、毎回ノートパソコンを持ってくる必要がないので楽だった。
「それから、お昼は上で食べればいいです。」
「上でですか?」
「はい。別に部屋があります。」
僕たちはもう一度二階へ上がった。
綾乃さんは作業室の奥にある扉の前で止まった。
扉の横には静脈認証の装置があった。
綾乃さんが手をかざすと、少しして扉が開いた。
「お二人も少し手をかざしてください。」
「私たちもですか?」
「はい。これからここで食事をするなら、入れるようにしておかないといけませんから。」
美咲さんが認証装置を見た。
「私たち、前に入館登録しませんでした?」
「あれは研究所への入館登録です。この部屋は私一人で使っていたので。」
綾乃さんが認証装置を指した。
「お二人も追加で登録しますね。」
綾乃さんが横の画面を何度か操作した。
僕と美咲さんも登録された。
「できました。」
中へ入った。
食事のできるテーブルと椅子があり、片側には小さなソファとベッドが見えた。
冷蔵庫と電子レンジもあり、向かい側には用途のわからない扉が二つあった。
「思ったより広いですね。」
美咲さんがベッドを見た。
「ここで寝ることもあるんですか?」
「研究が遅くなったときは。」
「あっちの扉は何ですか?」
「一つはトイレで、もう一つは浴槽のある浴室です。疲れたらお風呂に入って少し休んでから、また仕事しています。」
これなら家に帰らず、ずっと研究していられそうだった。
綾乃さんがテーブルを指した。
「これからお昼は、ここで一緒に食べればいいです。」
「普段もここでお昼を食べてるんですか?」
「はい。いつも配達を頼んでいます。」
「毎日ですか?」
「はい。」
「毎日、配達ばかりだとちょっとあれじゃないですか?」
「どうしてですか?」
綾乃さんが、不思議そうに僕を見た。
「だって、デリバリーですよね。」
「おいしい店から頼めばいいじゃないですか。」
綾乃さんがスマートフォンを取り出した。
「ちょうど食事の時間も近いですし、頼みますね。いつも食べているものでいいですか?」
「はい。それでお願いします。」
「ところで、どこの店なんですか?」
美咲さんが尋ねると、綾乃さんはある日本料理店の名前を言った。
「……そこですか?」
「はい。」
「そこ、配達してませんよ。」
「してますよ?」
「してないです。私、その店知ってます。」
聞いていた僕が、控えめに尋ねた。
「どんな店なんですか?」
「昔からある日本料理店です。魚や旬の食材を使った料理で有名で、予約して行く人が多いですし、値段もけっこう高い店です。」
僕はもう一度、綾乃さんを見た。
「そんな店でも配達するんですか?」
「はい。」
綾乃さんがスマートフォンで電話をかけた。
「こんにちは。今日もお願いします。」
しばらく相手の話を聞いてから言った。
「今日は三人分で。」
そして、また短く答えた。
「はい。いつものようにお任せします。」
通話はすぐに終わった。
綾乃さんは続けて、スマートフォンで短いメッセージを送った。
美咲さんが、まだ納得できないような顔で尋ねた。
「それだけ言えば終わりなんですか?」
「はい。」
「配達はどうするんですか?」
「運転手さんが持ってきますけど?」
少し静かになった。
美咲さんが一度僕を見て、また綾乃さんを見た。
「……私もこれは知りませんでした。」
僕もようやく理解した。
「それ、お店が配達してるわけじゃないですよね。」
美咲さんが言うと、綾乃さんが少し首を傾げた。
「でも、料理はここまで来ますよね?」
「それは……。」
間違っているとも言い切りにくかった。
しばらくして、運転手さんが料理を持ってきた。
部屋の中までは入ってこなかった。
綾乃さんが扉を開けて料理を受け取った。
「お食事をお持ちしました、お嬢様。」
「ありがとうございます。」
そのとき、運転手さんの視線が僕と美咲さんへ一瞬向いた。
ほんの短い時間だった。
「では、失礼いたします。」
いつもと変わらない声だった。
運転手さんが帰ったあと、綾乃さんが包みをテーブルの上に置いた。
蓋を開けると、きれいに盛り付けられた日本料理が出てきた。
魚料理と旬の野菜、卵料理とご飯が、それぞれ整えて入っていた。
「……これが普段の配達料理だったんですね。」
僕が言うと、美咲さんが笑った。
「私も、こういう意味の配達は初めて見ました。」
綾乃さんは、どうして僕たちがそんな反応をするのか、まだよくわかっていないようだった。
僕たちはテーブルに座った。
料理を一口食べた。
「おいしいですね。」
「でしょう?」
綾乃さんには食べ慣れた料理のようだった。
美咲さんも食べて、うなずいた。
「本当においしいですね。」
僕も何口か食べてから、ふと尋ねた。
「でも、これって普段も運転手さんが取りに行ってるんですか?」
「はい。」
僕は箸を置いた。
「これから僕たちの分まで毎回お願いするのは、ちょっと申し訳ないですね。」
「どうしてですか?」
「運転手さんが昼食のために店まで行かないといけないじゃないですか。」
綾乃さんは少し考えた。
「次からは、本当の配達を頼みましょう。」
「本当の配達ですか?」
「デリバリーアプリとか。」
「あ。」
今度はわかった。
「デリバリーアプリは知ってますよね?」
「知ってます。」
「使ったことは?」
「ほとんどないです。」
「どうしてですか?」
「使う必要がなかったので。」
それも綾乃さんにとっては当然の話だった。
今までは、運転手さんが持ってくればよかったのだから。
美咲さんがスマートフォンを取り出した。
「こういうのを使えばいいんですよ。」
綾乃さんが美咲さんの横へ少し身を寄せ、画面を見た。
「お店が多いですね。」
「はい。ここから選んで注文すればいいんです。」
「じゃあ、次はここから選んでみましょう。」
「それでもいいですね。」
僕が言った。
「そうすれば、運転手さんも昼食のためにわざわざ出かけなくて済みますし。」
綾乃さんがうなずいた。
食事を終え、もう一度一階へ下りた。
研究所から借りたノートパソコンの電源を入れた。
けれど美咲さんは、まだスマートフォンの画面を見ていた。
「次は何を頼みましょうか?」
僕は美咲さんを見た。
「もう次の昼ご飯を考えてるんですか?」
「ちゃんと食べないと、仕事する力が出ないでしょう。」
「それはそうですけど。」
美咲さんが画面を少しスクロールした。
「それに評価も見ないと。ここ、よさそうですよ。評価も高いですし。」
「え? 4点台前半ですよ?」
「え?」
「え?」
二人とも、相手の言っていることがわからないという顔で見つめ合った。
「高いほうじゃないですか?」
「低いほうじゃないですか?」
少しして、美咲さんが尋ねた。
「韓国では、お店の星ってどうやってつけるんですか?」
「基本は5点で、ちょっと気に入らないなと思ったら4点、本当に気に入らなければ3点、みたいにつける傾向が強いんです。」
僕は画面を見ながら付け加えた。
「だから店の評価が4点台前半だと、何か問題があるのかなと思って、まず口コミを確認していました。」
今度は僕が尋ねた。
「日本では、お店の星ってどうつけるんですか?」
「悪くなければ3点くらいにする人も多いですよ。5点は本当に気に入ったときにつける人が多いですし。」
僕は笑って言った。
「僕も普段、こういうアプリの評価は人より厳しくつけるほうだと思ってたんですけど、日本だと、むしろ甘いほうだったんですね。」
「星のつけ方にも違いがあるんですね。旅行するときは気をつけないと。」
「そうですね。実は日本では評判のいい店なのに、知らずに通り過ぎるところでした。」
僕と美咲さんは顔を見合わせて笑った。
「何がそんなに面白いんですか?」
いつの間にか、向かい側に綾乃さんがいた。
僕は何気なく尋ねた。
「綾乃さんは、普段お店に星を何点くらいつけますか?」
「星って何ですか?」
美咲さんがしばらく綾乃さんを見た。
「……綾乃さん、デリバリーアプリのこと、実はあまり知らないんですよね?」
「はい。」




