第109話 曾祖父・朴相吉
翌朝。
目を覚ますと、まず体の調子を確かめた。
喉に少しざらつく感じは残っていたが、その程度だった。
風邪はほとんど治ったようだった。
僕は昨夜開けた祖母の遺品の箱を、もう一度取り出した。
昨日ひと通り見て、考えが変わった。
僕が一つずつ確認するには、状態が心配なものが多すぎた。
もう全部、綾乃さんに預けたほうがよかった。
箱の中を整理し直していると、昨日きちんと見ていなかった小さな写真用の封筒が目に入った。
「これも写真か?」
中には、古い男性の写真が一枚入っていた。
初めて見る顔だった。
写真を裏返した。
母の字があった。
「曾祖父・朴相吉。」
僕はもう一度写真を見た。
「……この人か。」
ノートの中で、ずっと名前だけを見てきた人だった。
僕は写真の表と裏をスマートフォンで撮った。
そして、三人のLINEグループに送った。
[曾祖父の朴相吉の写真だと思います。裏に母の字でそう書いてありました。]
それほど経たずに、美咲さんから返事が来た。
[……この人、日曜劇場で悪役をやってそうな顔ですね。]
少しして、もう一つメッセージが来た。
[こんなこと言ったら失礼ですか?]
僕は驚いた顔のキャラクタースタンプを一つ送った。
続けて、大丈夫という意味のスタンプを送った。
今度は綾乃さんが返した。
[写真が入っていた封筒も一緒に持ってきてください。]
僕は写真を封筒に戻した。
そして、祖母の遺品の箱と三つ目のノートを用意した。
◆◆◆
しばらくして、美咲さんが宿へ来た。
箱と鞄を見ると、少し目を大きくした。
「これ、全部持っていくんですか?」
「はい。昨日全部見てみたんですが、どう考えても僕一人でやることじゃない気がして。もう全部預けようと思います。」
「確かに多いですね。」
美咲さんが箱の中をのぞいた。
上のほうには、昨日確認した三つの手紙の束があった。
「これが、おばあさまの弟さんたちからの手紙ですよね?」
「はい。」
美咲さんが、いちばん上の封筒を見た。
「大阪、呉……松山。」
僕は下のほうにくっついている封筒を指した。
「最初は一緒に住んでいたような気もするんですが、くっついていて確認できませんでした。」
「研究所で見てもらえば大丈夫そうですね。」
そうして僕たちは出発し、それほど経たずに研究所へ着いた。
綾乃さんは、テーブルを空けて待っていた。
箱を置くと、最初に手紙の束を確認した。
端や側面を見ていた綾乃さんが言った。
「これは、このままにしておいたほうがいいですね。」
「やっぱりそうですか?」
「はい。封筒同士だけがくっついているのか、中の便箋までくっついているのか、まず確認しないといけません。」
僕は封筒を見ながら尋ねた。
「住所が残っていれば、あとでその家族を探すこともできますか?」
「可能性はあります。ただ、人を探すのは私の専門ではないので……。」
「大丈夫です。それは僕が調べますから。」
僕の言葉に、美咲さんが笑った。
「日本で運転もできないのに、どうするんですか?」
「やっぱり美咲さんに手伝ってもらわないといけませんね。」
僕が言うと、美咲さんが笑った。
「これは病院関係の書類みたいですね。」
綾乃さんの言葉で、また書類へ視線を戻した。
「これは文字がよく見えなかったので、そのままにしておきました。」
「それで正解です。」
綾乃さんが紙を確認した。
「内容は、あとで医療関係の人にも見てもらったほうがよさそうですね。まず状態を記録しておきます。」
次に、古い韓国語の書類を取り出した。
「これも読みにくいんです。単語や名前は少しわかるんですが、かなり崩して書かれていて。インクがにじんでいるところも多いです。」
綾乃さんが、しばらく書類を見た。
「こういう書類なら、聞ける人がいます。」
「誰ですか?」
僕が尋ねると、美咲さんが先に言った。
「前にキㇺチの発音を教えてくれた韓国人の研究者ですか?」
「はい。」
綾乃さんが答えた。
「南宮熙さんです。今、研究交流で日本に滞在しています。ご自分の研究もあるので何度もお願いすることはできませんけど、こういう資料なら一度見てもらえると思います。」
「よかったです。」
綾乃さんでは判断しにくい文書でも、知り合いに頼めるのは助かった。
綾乃さんは、パスポートと装身具、写真を片側にまとめた。
そして、小さな写真用の封筒を手に取った。
「これが、さっき送ってくださった写真ですよね?」
「はい。」
綾乃さんが慎重に写真を取り出した。
美咲さんも横へ近づいた。
僕ももう一度写真を見た。
丸みのある顔だった。
髪は短く、梳かして流していて、濃い眉の下の目は大きくはないが、視線が強かった。
鼻と頬には肉付きがあったが、柔らかな印象ではなかった。
口を固く結び、きちんとしたスーツを着ていた。
写真を撮るときも笑っていなかった。
こちらから声をかけるのを、少しためらうような顔だった。
綾乃さんが言った。
「会社の重役みたいな印象ですね。」
少しして、もう一度写真を見た。
「……でも、美咲さんが言っていたのもわかります。日曜劇場で悪役をやってそうな顔ですね。」
美咲さんが言った。
「ですよね。」
曾祖父の朴相吉がかなり強烈な印象の男だったことだけは確かだった。
そのとき綾乃さんが写真を裏返し、状態を確認した。
「写真自体は、思っていたより状態は悪くないですね。封筒のほうは、もう少し確認したほうがよさそうです。」
綾乃さんは写真を慎重に置くと、今度はテーブルの片側に置いてあったノートを見た。
「これが、話していた三つ目のノートですね?」
「はい。」
綾乃さんはノートを手に取った。
表紙を見て、背と角も確認した。
「こちらのほうが、ずっと状態がいいですね。」
綾乃さんは、ノートをほかの資料から少し離れたところに置いた。
「ただ、先に持ってきていただいたものから整理したほうがいいと思います。それ以前の時期の内容を把握しておく必要がありますから。」
「そうですね。」
綾乃さんが、もう一度三つ目のノートを持ち上げた。
「これは資料保管室に置いておきます。行ってみますか?」
「資料保管室ですか?」
「はい。」
僕と美咲さんは、綾乃さんについていった。
作業室の奥へ少し進むと、別の扉があった。
扉が開くと、窓のない部屋が見えた。
壁沿いに棚が並び、さまざまな大きさの保存用の箱が整理されていた。
壁の一角には小さな画面があった。
温度と湿度が表示されていた。
「ここが資料保管室です。」
「温度と湿度も別に管理しているんですか?」
「はい。ずっと確認しています。設定した範囲を外れると、すぐわかるようになっています。」
僕は部屋の中を見回した。
「停電したらどうするんですか?」
「非常用発電機があります。停電しても、こちらの設備は優先して稼働できるようにしています。」
「博物館みたいですね。」
「保管しないといけない資料がありますから。」
綾乃さんが三つ目のノートを持って、奥へ歩いていった。
「今日持ってきていただいたものも、状態の確認が終わったらこちらで保管します。」
「お願いします。」
作業室へ戻ると、綾乃さんが紙を一枚差し出した。
「それと、こちらも確認してください。」
「何ですか?」
「資料預かり証です。」
今日、僕が預けた資料が書かれていた。
資料の所有者は僕のままで、研究所は保存と確認のために預かることになっていた。
僕は内容を確認して、名前を書いた。
これで祖母の遺品まで、ほとんどをここに預けることになった。
「調査は、これからどう進める予定ですか?」
「今まで見てきた記録の続きを、そのまま見ていくのがいいと思います。それまでの時期から順に追っていく必要がありますから。」
「僕もそれがいいと思います。」
綾乃さんは少し考えてから、僕を見た。
「ただ、これからはその場でハルさんに確認したいことが増えそうですね。」
「僕にですか?」
「韓国語の資料もありますし、家族関係や、以前確認した内容もありますから。」
綾乃さんが言った。
「そのたびに別に連絡するより、資料を確認するときはハルさんもここにいたほうが早いと思います。」
「僕なら大丈夫です。」
横にいた美咲さんがすぐに言った。
「じゃあ、私も一緒にいていいですよね?」
「もちろんです。」
「私も今まで一緒に見てきましたし、私の祖母にも関係することですから。」
その通りだった。
僕は美咲さんを見た。
「でも、仕事は大丈夫ですか?」
「ノートパソコンさえあればできる仕事も多いです。」
美咲さんが答えた。
「朝、ハルさんをここまで送って、私は近くのカフェで仕事していればいいです。何かあったらLINEで呼んでください。」
綾乃さんが美咲さんを見た。
「どうしてカフェにいるんですか?」
「え?」
「ここで仕事をすればいいじゃないですか。」




