第108話 そして僕が生まれた
店の外へ出ると、乗ってきた高級セダンが待っていた。
通りかかった人たちも、ちらちらと見ていた。
おそらく日本でも、あまり見かけない車種なのだろう。
運転手の男性が頭を下げた。
「お食事はいかがでしたか、お嬢様。」
「おいしかったです。それに、また食べたくなったらお願いするかもしれません。」
「かしこまりました。」
研究所へ戻るあいだは、特に話をしなかった。
腹もいっぱいになり、さっきより体もずいぶん楽になっていた。
研究所の前に着いて車を降りた瞬間、綾乃さんが僕に何かを差し出した。
「え?」
オレンジ色と白が混じった、小さな個包装だった。
中央には大きくCと印刷されていた。
「ビタミンCです。普段から持ち歩いてるんです。」
「ありがとうございます。」
僕が受け取ると、綾乃さんが突然、右手を軽く握って掲げた。
「風邪にはビタミンC!」
僕は笑った。
綾乃さん、意外と面白い人だった。
◆◆◆
「ゆっくり休んでくださいね。」
「ありがとうございます。」
美咲さんの車を降り、宿へ戻った。
部屋に入って、美咲さんが買ってくれた風邪薬を飲んだ。
あ、そうだ。これも飲まないと。
綾乃さんにもらったビタミンCも水と一緒に飲んだ。
LINEを確認した。
[ちゃんと着きました?]
[はい。今、送り届けたところです。]
綾乃さんと美咲さんのやり取りが残っていた。
僕もメッセージを一つ送った。
[今日もありがとうございました。これからゆっくり休みます。]
そして、キャラクターが布団をかぶって眠っているスタンプを一つ送った。
もう一度目を覚ますと、部屋の中は暗くなっていた。
何時間かぐっすり眠ったようだった。
体を起こしてみた。
朝まで残っていた体の重さは、ほとんど感じなくなっていた。喉も少しざらつく程度だった。
水を一口飲み、ベッドから下りた。
「微妙な時間だな。」
もう一度寝るには、頭が冴えすぎていた。
そのとき、部屋の片側に置いてある箱が目に入った。
祖母の遺品だった。
韓国から受け取ったあと、必要な写真を何枚か確認しただけで、箱の中身を全部きちんと見たことはなかった。
僕は箱を床へ移し、蓋を開けた。
一つずつ取り出してみると、思っていたよりいろいろなものが入っていた。
写真のあいだには古い封筒があり、病院でもらったような紙も混じっていた。
「これはパスポート?」
ひとまず横へ置いた。
手帳とかノートみたいなものはないのかな。
もともと記録を残していなかったのか、それとも残らなかったのかもしれなかった。
これは手紙?
その代わり、祖母は自分のもとへ届いたものを長く保管していたようだった。
手紙が束になって残っていた。
僕は封筒を見ていった。
差出人ごとに分けてあるのかな。
大きく三つの束に分かれていた。
これ、もしかして日本に住んでいたという弟たちから?
手紙の束を持ち上げようとして、僕は一瞬ひやりとした。
これ、下手に触ったら危ないな。
長いあいだ湿気を吸っていたのか、端同士がくっついていて、中の便箋まで一緒に貼り付いているように見えるものもあった。
指先で端を少し触ってみたが、すぐにやめた。
今確認できるのは、表に書いてある情報くらいか。
一つ目の束のいちばん上の封筒には、大阪の住所が書かれていた。
差出人は漢字で、朴永洙。
朴永洙だった。
二つ目は広島県呉。
差出人は朴正浩。
朴正浩だった。
三つ目は愛媛県松山だった。
差出人の名前が書かれている部分は下の封筒とくっついていて、きちんと見えなかった。
僕は慎重に封筒をもう一度確認した。
いちばん上の封筒の住所は、大阪、呉、松山とそれぞれ違っていた。
けれど下のほうにくっついている古い封筒の中には、端に大阪と書かれているものが見えた。
もう少し見えている古い封筒には、名前もあった。
朴健一。
朴健一。
やっぱり祖母の弟たちからの手紙なのか。
僕は三つの束をもう一度見た。
最初は大阪に一緒にいたのかな。
確認するには、くっついている封筒を離さなければならなかった。
僕はそれ以上触らなかった。
祖母の弟たちなら、父にとっては母方の叔父たちになるはずだった。
その人たちは大阪にいたあと、それぞれ別の地域で暮らすようになったのだろうか。
そう考えて、それらを横へ置き、別の書類を確認した。
これは病院の診療記録か?
処方箋や診療関係の書類のように見えた。
文字がかなり薄くなっているものもあり、折り目が弱くなった紙もあった。
これも無理には広げなかった。
これはまた何だろう。
最初は帳簿かと思った。
何枚か見てみると、古い韓国語の書類だった。
でも、いったい何て書いてあるんだ?
間違いなくハングルだった。
けれど文字はかなり崩して書かれていて、ところどころインクもにじんでいた。
いくつかの単語や名前はわかったが、文章として続けて読むのは難しかった。
結局、それも別に置いた。
次に、小さな布に包まれたものを開いた。
銀色の小さな装身具が出てきた。
古くなって色はかなりくすんでいて、結び目のように見える部分も傷んでいた。
高そうにも、華やかにも見えなかった。
「祖母が使ってたものかな……。」
一緒に入っているメモはなかった。
これもまた布に包み、元どおりに置いた。
次に、ようやく古いパスポートを手に取った。
祖母のものかと思って開き、写真と名前を見て手が止まった。
「……祖父のじゃないか。」
金春雄のものだった。
祖母の遺品の中に、祖父のパスポートが入っていた。
どうしてここに保管されていたのかはわからなかった。
僕は中をさらにめくろうとして、やめた。
これもあとで、きちんと見たほうがよさそうだった。
最後に写真を取り出した。
すでに見た、若いころの祖母の写真があった。
若い祖父の写真もあった。
そのほかにも家族写真や古い個人写真が何枚か混じっていた。
何枚かの裏には、母の字が残っていた。
僕は一枚ずつ確認した。
そして、ある写真で手が止まった。
祖父と祖母が一緒に写っていた。
二人とも、僕が覚えている姿よりずっと若かった。
祖母は腕の中に小さな赤ん坊を抱いていた。
僕は写真を裏返した。
母が書いたメモがあった。
写真の中の赤ん坊が父だと書かれていた。
ここにある写真の中で、祖父と祖母、父の三人が一緒に写っているものは、これだけだった。
日付はなかった。
僕はもう一度、写真の表を見た。
祖母の腕に抱かれている小さな赤ん坊。
妙な気分だった。
写真の中の父は幼すぎて、僕が知っている父の面影はまったく感じられなかった。
けれど、この子が育った。
そして僕が生まれた。
僕はしばらく写真を見ていた。
それから慎重に横へ置いた。
「うーん。どうしよう。」
積まれているものを見た。
最初は、自分で一つずつ確認すればいいと思っていた。
けれど実際に見てみると、とても気軽に触る気にはなれなかった。
「綾乃さんに見せたほうがいいかな……。」
そのとき、頭が少し痛み始めた。
ひとまず休もう。
僕がこれ以上触るより、綾乃さんに見てもらうほうがよかった。
こういうとき、綾乃さんに相談できるのは助かった。
そう思いながら、もう一度目を閉じた。




