第107話 風邪にはサムゲタン!
「韓国料理なんですけど、サムゲタンはどうですか?」
二人が同時に僕を見た。
綾乃さんが先に尋ねた。
「サムゲタンですか?」
「はい。」
美咲さんが言った。
「韓国料理が食べたいんですか?」
僕は少し考えた。
「風邪にはサムゲタンでしょう。」
僕の言葉に、綾乃さんがスマートフォンを取り出した。
「韓国料理専門店、サムゲタン……。」
画面を何度か動かしてから言った。
「近くにありましたね。実は韓国料理店って、行ったことがないんです。」
少し意外で、僕は彼女を見た。
「一度も行ったことがないんですか?」
「韓国料理が日本でも人気なのは知っています。周りからも何度か聞きましたし。」
綾乃さんが画面を消しながら言った。
「でも、わざわざ食べに出かけたことはないんです。」
美咲さんが言った。
「綾乃さんは、そもそも食べに出る時間があまりないじゃないですか。」
「それはそうですね。」
「私も韓国料理店は初めてです。」
今度は僕が美咲さんを見た。
「美咲さんもですか?」
「通りかかって韓国料理店を見たことはありますけど、実際に入って食べたことはなかったんです。」
綾乃さんが言った。
「じゃあ三人の中では、ハルさんだけが韓国料理を食べたことがあるんですね。」
僕は彼女の言葉に笑った。
「そうなりますね。」
美咲さんもつられて笑った。
僕たちは一階へ下りた。
僕はスマートフォンの電源を入れ直した。
さっき連絡した韓国の番号から、新しいメッセージは来ていなかった。
スマートフォンをポケットに入れ、外へ出た。
研究所の前には、黒いセダンが一台待っていた。
初めて見る車だった。
車体はかなり長く、線も鋭く折れてはいなかった。
前から後ろまで端正で、少し昔の車のようにも見えるのに、古びた感じはまったくなかった。
前には、翼を広げた鳥のような模様が付いていた。
車種はわからなかったが、雰囲気だけでも高そうな車だということはわかった。
車の横には、灰色のスーツを着た中年の男性が立っていた。
僕たちが近づくと、彼が頭を下げた。
「お嬢様。」
僕は綾乃さんを見た。
綾乃さんは、ごく自然に答えた。
「お待たせしました。」
「いえ。」
運転手が後部座席のドアを開けた。
「運転手さんがいるんですね。」
僕が言うと、綾乃さんがうなずいた。
「はい。」
あまりにも普通の返事だったので、それ以上は聞かなかった。
綾乃さんが言った。
「私が前に乗ります。ハルさんと美咲さんは後ろに乗ってください。」
「はい。」
美咲さんがものすごく早く答えた。
「僕が前でも大丈夫ですが。」
美咲さんがすぐ僕を見た。
「風邪ひいてるじゃないですか。後ろに乗りましょう。」
「それと助手席と、何の関係があるんですか?」
「後ろのほうが楽じゃないですか。」
綾乃さんもうなずいた。
「そうです。後ろのほうが楽ですよ。」
二人の意見がまた一致した。
僕は結局、後部座席に乗った。
中に入ると、まず座席が目に入った。
革ではなかった。
高い車なら当然革だろうと何となく思っていたが、濃い色の布張りだった。
けれど普通の乗用車の布シートとは違った。
厚くて、目が詰まっていた。
背中を預けると、車の座席というより小さなソファに座ったようだった。
美咲さんが尋ねた。
「どうしたんですか?」
「いえ。」
「車が珍しいですか?」
「少し。」
「私も最初はそうでした。」
綾乃さんは助手席でシートベルトを締めた。
「出してください。」
「はい、お嬢様。」
車が動き出した。
大きな車なのに、発進するときもほとんど揺れなかった。
しばらく窓の外を見ていた綾乃さんが言った。
「ハルさん、次は三つ目のノートも持ってきますよね?」
「はい。持ってきます。」
「佐伯さんについての資料が、このまま問題なく出てくるといいですね。」
「そうですね。」
そのとき、運転手がルームミラー越しにこちらを一度見た。
「佐伯さんという方は、どなたですか?」
綾乃さんが答えた。
「ハルさんのお祖父さまです。」
「そうですか。」
運転手はまた前を見た。
しばらくして、車が大通りを外れた。
低い建物が続く通りの一角に、ハングルと日本語が一緒に書かれた看板が見えた。
車がその前で止まった。
運転手が先に降りて、後部座席のドアを開けた。
綾乃さんが言った。
「食事が終わったら連絡します。」
「かしこまりました、お嬢様。」
あまりにも自然なやり取りだった。
僕は車を降りたあと、遠ざかっていく黒いセダンを少し見ていた。
すると、先を歩いていた綾乃さんが僕に言った。
「早く入りましょう。ハルさん、風邪がひどくなりますよ。」
「もうほとんど治りました。」
美咲さんが言った。
「風邪をひいてる人が一番よく言う言葉ですね。」
◆◆◆
昼食の時間は、もうかなり過ぎていた。
店内に客は多くなかった。
僕たちが席に座ると、綾乃さんがメニューを開いた。
美咲さんが写真をのぞき込んだ。
「サムゲタンって、これなんですね。」
「はい。」
「もち米が鶏の中に入ってるんですね。」
「はい。」
僕たちはサムゲタンを三つ注文した。
しばらくして、土鍋が三つテーブルに置かれた。
三つの土鍋から同時に煮立つ音がして、白い湯気が上がった。
土鍋の中には鶏が一羽入っていて、そのあいだからニンニクとナツメが見えた。
美咲さんがスプーンを持って、少し迷った。
「そのまま食べればいいんですか?」
「はい。」
「味付けは?」
僕は横に置いてある塩を指した。
「まずスープを飲んでみて、足りなければ少し入れればいいです。」
綾乃さんが先にスープをすくって飲んだ。
少し味わってから言った。
「思ったよりあっさりしてますね。」
美咲さんも慎重に一口飲んだ。
僕もスープを飲んだ。
熱いものが、喉をゆっくり通っていった。
朝まで残っていた喉のざらつきが、少し楽になった。
美咲さんが尋ねた。
「どうですか?」
「いいですね。」
「本当に風邪にいいんですか?」
僕は土鍋を見下ろした。
「風邪にはサムゲタンです。僕はそうやって食べてます。」
鶏を少し崩した。
すると、中からもち米が見えた。
僕はゆっくりご飯を味わった。
綾乃さんも鶏肉を少し取って食べた。
「塩に少しつけてもいいですよ。」
僕が言うと、二人がほとんど同時に塩の小皿へ箸を伸ばした。
美咲さんが言った。
「今日はハルさんが韓国料理の先生ですね。」
「サムゲタン一つで先生まではいきません。」
「じゃあ、サムゲタン専門家にします。」
そう言いながら、美咲さんが土鍋の横にあるおかずの皿へ箸を伸ばした。
「サムゲタンにもキムチが出るんですね。」
「キㇺチです。」
横から綾乃さんが言った。
「キㇺチ。」
思ったより正確な発音だった。
僕は彼女を見た。
「上手ですね。」
美咲さんもすぐに顔を向けた。
「韓国料理店は初めてなのに、どうしてそんなに発音がいいんですか?」
「前に韓国の研究者から聞いたことがあるんです。」
「ずるいです。」
「何がですか?」
「予習してたじゃないですか。」
「食べたことがないのと、聞いたことがないのは違うでしょう。」
「それはちょっと不公平です。」
僕はそのあいだに、キムチを一切れ食べた。
熱いスープのあとに食べると、酸味と辛味がよりはっきりした。
綾乃さんもキムチをつまんだ。
そして、箸の先にある白菜をしばらく見た。
「昔のキㇺチも、こんなに赤かったんですか?」
「いいえ。」
「違うんですか?」
「今、僕たちがすぐ思い浮かべるような、こういう赤いキㇺチが最初からあったわけではありません。」
美咲さんが尋ねた。
「その前は、キムチって白かったんですか?」
「種類はいろいろあったでしょうけど。野菜を塩漬けにして食べること自体は昔からありましたし、唐辛子をたくさん使うキㇺチが定着したのは、それよりあとです。」
僕は付け加えた。
「その唐辛子は、日本を経て朝鮮に伝わったという説があります。」
美咲さんが、手にしていたキムチをもう一度見た。
「キムチも、ずっと変わってきたんですね。」
「はい。」
僕は言った。
「白菜も変わりましたし。」
綾乃さんがすぐ反応した。
「品種の話ですか?」
「はい。」
美咲さんが尋ねた。
「白菜も昔とは違うんですか?」
「今みたいに大きくて、しっかり結球する白菜が最初からそのままあったわけではありませんから。いい性質を持つものを選びながら、ずっと品種改良してきたんです。僕の考えでは、そういう品種改良が、今のような白菜キㇺチが定着するうえでもかなり大きな影響を与えたと思います。」
美咲さんは、まだあまり実感できないような顔をしていた。
僕は彼女の前の土鍋を指した。
「鶏も似ています。」
美咲さんが土鍋の中を見下ろした。
「この鶏もですか?」
「昔の鶏と今の肉用鶏では、成長する速さも体格もかなり違うでしょう。よく育って肉が多く取れるものを選び続けた結果ですから。」
綾乃さんがうなずいた。
「選抜育種ですね。」
「はい。」
美咲さんが言った。
「鶏を食べてたのに、急に難しくなりました。」
「簡単に言えば、よく育つ鶏をずっと選んだということです。」
「そう言ってくれれば、すぐわかります。」
美咲さんが鶏とキムチを交互に見た。
「つまり、普段何気なく食べているこれも、人がずっと変えてきたものなんですね。」
「そうですね。」
「急にどっちも研究成果みたいに見えてきました。」
綾乃さんが言った。
「実際、そういう面もありますから。」
僕はキムチをもう一切れ取った。
「実は韓国で、こういう野菜や白菜の育種を語るなら、禹長春博士は外せません。」
僕は続けた。
「『禹の三角形』という研究でも有名です。」
そのとき、綾乃さんのスプーンが止まった。
「禹の三角形……。」
少し考えてから、彼女が言った。
「あ、その研究者ですか。」
「ご存じなんですか?」
「はい。大学のとき、遺伝学のほうも少し勉強しました。専門ではありませんけど。」
そのとき、美咲さんが鶏肉をほぐしながら言った。
「ところで。」
「はい?」
「今、かなり重要なことに気づきました。」
「何ですか?」
「サムゲタン、おいしいです。」
僕は笑った。
「気づくのがずいぶん遅いですね。」
「説明をたくさん聞かされたじゃないですか。」
綾乃さんも言った。
「私も、おいしいと思います。」
「気に入りましたか?」
「はい。思っていたよりずっと。」
彼女は、ほとんど空になりかけた土鍋を見下ろした。
「これから風邪をひいたら、これを食べます。」
そう言って、綾乃さんがさっきの僕の言葉をまねした。
「風邪にはサムゲタン!」
その言葉に、僕は笑った。
すると美咲さんが、本当にできるのかという顔で尋ねた。
「綾乃さんが自分でここまで来るんですか?」
「いいえ。注文して届けてもらえばいいでしょう。」
美咲さんがテーブルの端に置かれた案内を見た。
「ここ、配達してないみたいですよ。」
「運転手さんに頼めばいいでしょう。」
しばらく誰も何も言わなかった。
美咲さんが僕を見た。
僕も美咲さんを見た。
綾乃さんが尋ねた。
「どうしたんですか?」
美咲さんが言った。
「何でもないです。やっぱり綾乃さんですね。」
◆◆◆
須永長春/禹長春
禹長春は、1898年に日本で生まれた育種学者である。
父は朝鮮の近代式軍隊で大隊長を務めた軍人、禹範善。母は日本人の酒井ナカだった。
禹長春は日本で成長し、広島県立呉中学校を卒業した。
この学校は現在、広島県でも有数の伝統を持つ広島県立呉三津田高等学校へと受け継がれている。
その後、禹長春は東京帝国大学で農学を学び、同大学で農学博士の学位を取得した。
彼の代表的な研究の一つが、1935年に発表した論文、
「Genome analysis in Brassica with special reference to the experimental formation of B. napus and peculiar mode of fertilization」
である。
この研究で禹長春は、アブラナ属植物の遺伝的な関係を分析した。
基本となるのは、ハクサイ系統、キャベツ系統、クロガラシ系統だった。
そして、この三つの系統のゲノムが二つずつ組み合わさることで、別の三種が成立する関係を説明した。
ハクサイ系統とキャベツ系統のゲノムが組み合わさったものがナタネ、
ハクサイ系統とクロガラシ系統が組み合わさったものがカラシナ、
クロガラシ系統とキャベツ系統が組み合わさったものがエチオピアガラシにあたる。
三つの基本系統を三角形の三つの頂点に置き、それぞれの頂点のあいだに、その遺伝的な組み合わせによって成立した種を配置すると、六種の関係が一つの三角形として表される。
今日、この関係は一般に「禹の三角形(U’s Triangle)」と呼ばれている。
単に植物の外見が似ていることを分類したのではなく、種間交雑と染色体に関する研究を通して、異なる種のあいだの遺伝的関係と、新しい種が成立する過程を説明したものだった。
この研究は、その後の植物遺伝学と育種学における重要な古典として残った。
そして彼の論文には、一つ目を引く点があった。
禹長春は日本で、須永長春という名前も使用していた。
しかし、彼の博士学位や代表的な論文などでは、日本で使用していた姓の須永ではなく、父から受け継いだ朝鮮の姓、禹を使用した。
1950年、禹長春は韓国へ渡り、韓国で野菜種子の自給と品種育成、育種技術の定着、研究者の養成に力を尽くした。
その後、韓国の近代園芸と育種研究の基盤を築いた重要な研究者として記憶されるようになった。




