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第105話 嫌っていた金

僕は、綾乃さんが指した紙片を見た。


片側の端はまだ少し歪んでいたが、前には見えなかった文字が現れていた。


綾乃さんは紙片を拡大して見せた。


「午前、物資整理。」


僕はその下へ視線を移した。


「母が亡くなったとの知らせを受けた。」


「亡くなったんですね。」


「……はい。」


綾乃さんは、横に置いてあった別の紙片を見せた。


「休暇を申請した。」


次の記録には、別の日付が書かれていた。


「休暇が許可された。」


綾乃さんが今度は、二つ目のノートのほうへ移った。


「そのあとは、こちらに続いているようです。」


彼女が、台の上に置かれたノートの一か所を見せた。


「母の葬儀を行った。」


その下には、葬儀に来た人たちが短く書かれていた。


その中に、知っている名前があった。


「朴相吉氏も来た。」


次の行は少し長かった。


「朴相吉氏の娘が、ずっと母の世話をしてくれていたと聞いた。」


僕はその一文で止まった。


今もまだ、朴相吉氏の娘だった。


その下に、もう一行あった。


「母の最期にも立ち会っていたと聞いた。」


前日に見た、若いころの祖母の写真が一瞬浮かんだ。


次の行を確認した。


「朴相吉氏の娘に、ありがとうと伝えた。」


祖父が残した言葉は、それだけだった。


綾乃さんが言った。


「この方、本当に長い文章は書かないんですね。」


「はい。もともとそうなんです。」


「でも、必要なことは残してあります。」


僕はもう一度、その文を見た。


「朴相吉氏の娘に、ありがとうと伝えた。」


祖母が何と答えたのかは書かれていなかった。


少し先には、祖父が両親の使っていたものを整理した記録が続いていた。


何行か確認したあと、綾乃さんが僕を見た。


「ところでハルさん、風邪をひいたんですよね?」


「だいぶよくなりました。」


「でも、まだ喉が少しつらそうです。」


綾乃さんが席を立った。


「少し休んでから見ますか?」


僕たちは一階の奥にある小さな応接スペースへ下りた。


テーブルには、ティーカップが三つ用意されていた。


綾乃さんが、銀色がかったアルミの個包装を一つ取り出した。


表には黄色い柑橘の絵が描かれていた。


「私のおすすめのお茶です。」


綾乃さんが、お湯を注いだ。


しばらくすると、紅茶の香りのあいだからレモンの香りが立ち上がった。


綾乃さんが僕のほうへカップを押した。


「飲んでみてください。」


僕は一口飲んだ。


温かい紅茶の味が先にきて、そのあとにレモンの香りが軽く残った。酸味が強く前に出る味ではなかった。


喉はまだ少しいがらっぽかったが、温かいお茶は飲みやすかった。


「おいしいですね。」


「でしょう?」


綾乃さんが少し満足そうな顔をした。


「そういえば、綾乃さん。」


「はい?」


「宿に、祖父のノートがもう一冊あります。」


綾乃さんが僕を見た。


「どんなノートですか?」


「前の二冊より後の時期のノートです。だいたい昭和三十年代以降に書かれたものだと思います。」


「状態は?」


「僕が見るかぎり、この二冊よりはよさそうでした。なので、ひとまず宿に置いてあります。」


綾乃さんは少し考えた。


「次に来るとき、持ってきてください。」


「それも見ていただけますか?」


「まず状態を確認して、安全に保管しておきます。」


彼女が一度、上の階のほうを見た。


「今は、前の二冊と紙片の整理を先にしたほうがいいですから。」


「そうしてください。」


宿に置き続けるより、そのほうがよさそうだった。


「それから、祖母が残した資料もあります。こちらは僕が先に確認してみます。」


綾乃さんは少し考えた。


「はい。見ていて気になるものがあったら、LINEで教えてください。ただ、私が確認したほうがよさそうな資料が出てきたら、原本も見せてもらえますか?」


「もちろんです。」


僕はスマートフォンを取り出した。


「それと、これは昨日見つけた祖母の写真です。」


写真を綾乃さんに送った。


彼女が画面をしばらく見た。


「美人ですね。」


「これから送る資料があったら、綾乃さんにLINEで送ります。」


そのとき、一人で静かにお茶を飲んでいた美咲さんが一つ提案した。


「それなら、いっそグループトークを作りませんか?」


「グループトークですか?」


「同じ資料を私と綾乃さんに別々に送るより、そのほうが楽じゃないですか。」


「そうですね。」


綾乃さんもうなずいた。


美咲さんがLINEで、僕たち三人のグループを作った。


しばらくして、僕の画面にも新しいトークルームが表示された。


僕たちはスタンプを一つずつ送り、簡単に挨拶をした。


お茶を飲み終えたあと、僕たちはもう一度上の階へ上がった。


僕は二つ目のノートの前へ戻った。


葬儀のあとの記録は、さらに数日続いていた。


そして、ある一行から流れが変わった。


「朴相吉氏と二人で話した。」


僕はその下を読んだ。


「軍での生活について聞かれた。」


美咲さんもノートのほうへ視線を向けた。


次の行には、もう少し具体的な内容があった。


「多富洞の戦いの最中に、補給のほうへ移ったことを話した。」


僕は横に置かれていた小さな軍用手帳の紙片を見た。


綾乃さんが、その中から一枚を探して前へ持ってきた。


「こちらですね。」


短い記録だった。


「補給へ移動。」


当時は、特に理由は書かれていなかった。


戦いの最中に、祖父が補給のほうへ移った。


それだけだった。


僕はもう一度、二つ目のノートを見た。


「補給へ移ったのが偶然だと思っていたのか、と聞かれた。」


美咲さんが言った。


「偶然じゃなかったってことみたいですね。」


「そうですね。」


僕は次の行を読んだ。


「どういう意味か尋ねた。」


「多富洞の戦いの最中に補給のほうへ移ったのは、偶然ではなかったと言われた。」


次の記録が続いていた。


「朴相吉氏がかなり手を回したと言った。」


僕はその次の行を読んだ。


「なぜそうしたのか尋ねた。」


答えは、すぐ下にあった。


「美來が朴相吉氏を訪ねてきたと言った。」


美咲さんが顔を上げた。


「朴美來さんが?」


僕は次の文を見た。


「美來が、私が前線に配置されたことを知ったと言った。」


そして次の行。


「そのことを知った美來が朴相吉氏を訪ねてきて、どうか私を助けてほしいと頼んだとのこと。」


僕はその文で止まった。


美咲さんもしばらく何も言わなかった。


「……当時、佐伯さんはこれをまったく知らなかったんですよね。」


「そうですね。」


僕は次の記録を読んだ。


「軍需関係で力のある人物に頼んだとのこと。」


「金も使ったとのこと。」


しばらく場が静かになった。


「お金を使って、所属部隊を変えたんでしょうか?」


僕は少し考えた。


「少なくとも朴相吉氏の話どおりなら、お金と人脈が影響したように思います。」


綾乃さんが尋ねた。


「今でも、そういう形で人の配置を変えられるんですか?」


「いいえ。今は人事や配置の手続きが、ずっと体系的に管理されています。あの頃のように外部の人が介入するのは、かなり難しいでしょうね。」


綾乃さんは何も言わず、小さな軍用手帳の紙片を見ていた。


僕もノートを見た。


朴相吉氏の話は、まだ終わっていなかった。


次の行には、思いがけない言葉が書かれていた。


「娘は、朴相吉氏の金の稼ぎ方を嫌っていたとのこと。」


朴相吉氏が金を稼いでいたやり方は、これまで読んだ資料にも何度か出ていた。


綾乃さんが言った。


「前に、軍政庁に知られると困ると書かれていた取引もありましたよね?」


「はい。」


その下に、次の文があった。


「そんなふうに稼いだ金を嫌っていた娘が、結局その金を使って私を助けてほしいと頼んだとのこと。」


僕はその文をゆっくり読んだ。


美咲さんが言った。


「朴美來さんも、よほど切羽詰まっていたんでしょうね。」


僕は答えなかった。


祖母が何を考えていたのかは、記録にはなかった。


僕はそのまま、下の文を読んだ。


「結局、私を助けるために使われたのは、朴相吉氏がそうやって稼いだ金だったとのこと。」

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