第103話 祖母の写真
宿に戻ったあと、まず新しく買った収納ケースを開いた。
ゆめタウンで選んだときは少し大きいかと思ったが、床に広げてみると、そうでもなかった。
机と鞄に分けて置いていた印刷物を先にまとめた。母から受け取った資料と、自分で書いておいたメモも片側に整理した。
三つ目のノートも別にまとめ、ケースの片側に入れた。
祖母が残したものは、母が送る前に一つずつ包んでくれていた。小さな箱や紙袋がいくつかあり、中に写真が入っていそうな封筒も見えた。
ひとまず今は、ケースに入れておいた。
以前なら資料があれば、とりあえず開いてみるほうだったが、綾乃さんに会ってからは、すぐに手を伸ばすことが減った。
下手に触って傷めることもあるので、気をつけなければならなかった。
まず今は、綾乃さんに送ることになっている資料を探そう。
僕はノートパソコンを立ち上げた。
母から受け取っていた初期のスキャンファイルを日付ごとに分けた。撮影した順番が変わらないよう、ファイル名はそのままにして、それぞれ圧縮した。
スマートフォンで数枚送るのとは違い、ファイルはかなり多かった。
僕はLINEを開いた。
[初期のスキャンファイルを整理しました。ファイルが多いので、メールアドレスを教えていただけますか?]
それほど経たずに返事が来た。
メールアドレスが一つ書かれていた。
僕はノートパソコンから圧縮ファイルを添付して送った。
[送りました。]
しばらくして返事が来た。
[受け取りました。]
少しして、もう一つ届いた。
[こちらのほうが、ずっと比較しやすいですね。]
僕は最後のメッセージを見て、ノートパソコンを閉じないまま席を立った。
これでこちらは片づいたので、そろそろ夕食にすることにした。
夕食も、ゆめタウンを出る前に買ってきていた。
緑色の看板が出ていたハンバーガー店で持ち帰りにしたものだった。
久しぶりに食べるハンバーガーセットだった。
紙袋を開けると、まず照り焼きソースの匂いがした。
ハンバーガーを一口かじった。
甘辛いソースが染みたパティのあとに、冷たいレタスの食感が続いた。ソースの味はかなり濃かったが、レタスが多く入っているので、思ったより重くはなかった。
フライドポテトを一本食べ、コーラを飲んだ。
昼に食べたお好み焼きとは、まったく違う味だった。
「いいな。気に入った。」
思わず、そんな言葉が出た。
ときどきは、ハンバーガーとフライドポテトとコーラが必要だった。
ハンバーガーを半分ほど食べたところで、スマートフォンが鳴った。
画面には母の名前が出ていた。
僕はハンバーガーを置いて電話に出た。
「はい、母さん。」
―何してたの?
「食事してました。」
―今から?
「昼を遅く食べたんです。」
―何食べてるの?
僕は紙の包みを見下ろした。
「照り焼きバーガーです。」
―日本まで行ってハンバーガー食べてるのね。
「今日初めて食べるんですけど、けっこうおいしいですよ。」
僕はハンバーガーがかなりおいしいという話をした。
―そう。ならいいけど。
母が尋ねた。
―今日は何してたの?
「祖父が残した資料を専門家に預けてきました。」
―預けたの?
母の声が低くなった。
―全部?
「最初のノートと二つ目のノート、それから最初のノートにあった小さな手帳の紙片です。」
―それを全部、他人に預けたの?
心配している声だった。
僕は母を安心させた。
「古文書や古い書籍の保存を専門にしている人です。」
―でも原本でしょう。
僕はハンバーガーを置き、指についたソースをナプキンで拭いた。
「僕も最初は少しそう思ったんですけど、実際に行ってみたら大丈夫そうでした。施設もすごく大きいです。」
―そうなの?
「むしろ預けておいたほうが安心です。」
―日本は昔の文書とか文化財みたいなものを保存する技術はしっかりしてるって聞いたことがあるけど。ちゃんとした専門家に会えたならよかったわね。
母もようやく安心したようだった。
―じゃあ、結果が出たら私にも教えて。
「そうします。」
通話を終え、残っていたハンバーガーを食べた。
少し冷めていたぶん、照り焼きソースの味が少し濃く感じられた。
僕はコーラの最後の一口を飲み、ハンバーガーが入っていた紙袋を畳んだ。
「ここ、いいな。」
ゆめタウンで見た店の看板を思い出した。
緑色の地に、白い丸みのある線がつながって、Mのような形になっていた。
次にゆめタウンを通るときか、ほかの場所でも同じ看板を見かけたら、また寄ってみようと思った。
そのとき、スマートフォンが鳴った。
今度は韓国の番号だった。
「会社の番号か?」
会社で使っている電話番号と同じ頭の数字が表示されていた。
電話に出た。
「もしもし。」
―キム・ハルさんでいらっしゃいますか?
初めて聞く声だった。
「はい。」
―今回、退職関係の業務を引き継いだ担当者です。
「あ、はい。」
―確認事項が少し残っていて、ご連絡しました。
もうすぐ会社を辞める人間を相手にしているからなのかはわからないが、話し方はかなりぶっきらぼうだった。
それとも、僕のせいで仕事が増えたからなのかもしれなかった。
―予定されている退職手続きを、二週間ほど遅らせることはできますか?
「二週間ですか?」
―はい。引き継ぎと内部確認に、もう少し時間が必要です。
「僕が別に何かすることはありますか?」
―今のところはありません。必要になれば、またご連絡します。
「韓国へ戻る必要もないんですよね?」
―はい。今の予定のままで大丈夫です。
それなら、僕としては特に問題なかった。
「わかりました。」
―可能ということでよろしいでしょうか?
「はい。二週間程度なら大丈夫です。」
―では、変更後の日程は改めてご案内します。
「はい。」
通話は思ったより早く終わった。
僕はカレンダーを開いた。
帰る日が少し後ろへずれることになった。
最初に考えていたより、日本にいる時間が増えた。
意外ではあったが、嫌ではなかった。
美咲さんにも知らせておいたほうがよさそうだった。
LINEを開いた。
[会社から連絡がありました。]
返事はすぐに来た。
[何かあったんですか?]
[退職手続きが二週間ほど遅れることになりました。]
しばらく返事がなかった。
やがてメッセージが来た。
[じゃあ……資料も急がずに見られますね。]
[そうですね。]
すぐに次のメッセージが入った。
[よかったですね。]
僕は画面を見ていた。
少しして、もう一つ来た。
[あ、資料の調査のことです。]
[はい。わかっています。]
今度は返事が少し遅かった。
[……はい。]
僕はスマートフォンを置いた。
机の上をもう少し片づけた。
包装を片づけ、床に開いたままの収納ケースのところへ戻った。
まだ入れていない祖母の遺品がいくつか残っていた。
母が一つずつ包んでくれた包装は、ほとんどそのままだった。
薄い紙袋を一つ持ち上げて、ケースの中へ入れようとした。
そのとき、封筒のあいだから写真が一枚滑り落ちた。
はがきより少し大きい、縦長の写真だった。
僕は腰をかがめて写真を拾った。
若い女性が韓服を着ていた。
きちんと整えられた髪と、やわらかな顔の輪郭がまず目に入った。
笑ってはいなかった。
けれど、冷たい感じもしなかった。
カメラを見ている目は、はっきりしていた。
写真の中でただ静かに立っているだけなのに、自分の考えをしっかり持っている人のように見えた。
僕は写真を裏返した。
裏には母の字があった。
若いころのおばあちゃん。
もう一度、写真を表に返した。
祖父から、朴相吉氏の娘と呼ばれていた人。
そして、僕の祖母になった人だった。




