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第102話 綾乃さんですから

「じゃあ、食事に行きましょう。」


美咲さんがスマートフォンを鞄に入れながら言った。


僕たちは、もう一度建物の中へ入った。


飲食店が集まっているほうへ行くと、遅めの昼食を取っている人がまだけっこういた。


店のメニューを一つずつ見ていた美咲さんが、足を止めた。


「お好み焼きはどうですか?」


「いいですね。」


「広島のほうのお好み焼きは、食べたことあります?」


「ちゃんと食べたことはありません。」


「じゃあ、せっかくここまで来たんだから食べてみましょう。」


席に座り、メニューを開いた。


写真のお好み焼きには麺が入っていた。


「そばが入るのが基本なんですか?」


「広島のほうでは多いですよ。うどんに変えることもできますし。」


「そうなんですね。」


メニューをもう少し見ていくと、肉玉そばの下に追加できる具材が並んでいた。


その中の一つが目に入った。


「イカ天って何ですか?」


「干したイカを揚げたものです。」


美咲さんがメニューを見ながら言った。


「細かくして入れるんですけど、入れると香ばしくておいしいですよ。」


「では、入れてみます。」


僕は肉玉そば(イカ天入り)を注文した。


美咲さんは肉玉そばを選んだ。


しばらくして、鉄板で焼けていく匂いが先に漂ってきた。


僕の前に置かれたお好み焼きからは、まだ湯気が上がっていた。


卵の下には麺とキャベツが層になっていて、その上には濃い色のソースが薄く広がっていた。


箸で端を切って口に入れた。


まずソースの甘さと塩気がきて、そのあとに火の通ったキャベツのやわらかな食感が続いた。


鉄板に当たっていた部分の麺は少し固めに焼けていて、歯ごたえが残っていた。


何度か噛むと、そのあいだからイカ天がさくっと砕けた。


香ばしさが加わった。


「おいしいですね。」


美咲さんが笑った。


「イカ天、入れてよかったでしょう?」


「はい。」


僕はもう一口食べた。


「思っていたより合いますね。」


「何とですか?」


「麺とキャベツです。最初は、イカの揚げ物がそのまま入るのかと思っていました。」


「そんなに大きいのが入ってたら食べにくいじゃないですか。」


「そうですね。」


美咲さんも自分のお好み焼きを切って食べた。


しばらく静かに食事が続いた。


研究所で資料を見て、そのあと買い物までしたせいか、思っていたより腹が減っていた。


美咲さんが僕を見て言った。


「朝もしっかり食べたって言ってたのに、お昼もよく食べますね。」


「昨日までずっと朝を抜いていましたから。」


「じゃあ、これからはちゃんと食べてください。」


「努力します。」


僕はお好み焼きをもう一切れ切った。


美咲さんが笑った。


「でも今日は、ハルさんの意外な特技を一つ知りましたね。」


「特技ですか?」


「韓国海軍出身の日焼け止め専門家。」


「その呼び方、もうやめてもらえませんか?」


「どうしてですか? 似合ってるのに。」


「全然似合ってません。」


美咲さんが笑った。


僕もまた食べ始めた。


そのとき、ふと思い出した。


「あ。」


「どうしたんですか?」


僕は箸を止めて、スマートフォンを取り出した。


「榊原さんに頼まれていたものがありました。」


「あ。」


美咲さんもすぐに思い出したようだった。


「最初にスキャンしたものですか?」


「はい。」


母から受け取っていたファイルを開いた。


写真やスキャンデータは、思っていたより多かった。


最初は単に祖父の持ち物を確認するために受け取ったものだったが、今ではその順番や状態そのものが資料になっていた。


ファイルをいくつか進めた。


最初のノートを開いた状態で撮った画像が出てきた。


ノートの内側には領収書やいろいろな紙が付いていて、そのあいだに小さな軍用手帳の紙片も見えた。


今は別にまとめてある紙のうち、何枚かはそのときまでノートの中に付いたままだった。


「ありました。」


美咲さんが少し身を寄せた。


「これが最初の状態ですか?」


「はい。母が最初にスキャンしたときのものです。」


次の画像を開いた。


位置が少し違っていた。


片側の端だけが付いている紙片もあり、別の紙の下に一部が隠れているものも見えた。


「これは綾乃さん、喜びそうですね。」


「喜ぶものなんですか?」


「たぶん、かなり喜ぶと思います。」


僕はファイルを送ろうとして、手を止めた。


「……連絡先がありませんね。」


「え?」


「榊原さんのLINEを知りません。」


美咲さんもしばらく黙っていた。


「そういえば、そうですね。」


聞くのをすっかり忘れていた。


美咲さんがスマートフォンを取り出した。


「ちょっと待ってください。」


しばらくして、僕のLINEに連絡先が一つ送られてきた。


榊原綾乃。


僕は連絡先に追加した。


少し考えてから、メッセージを送った。


[キム・ハルです。今日お話に出ていた、最初のノートの初期スキャンデータを見つけました。]


画像を何枚か選んで、一緒に送った。


返事は思ったより早かった。


[受け取りました。]


少しして、もう一つ届いた。


[今は別にまとめてある紙片の、もとの位置がかなりわかりますね。助かります。]


僕は画面を美咲さんに見せた。


「もう見たみたいですね。」


「まだ研究所にいるんでしょうか。」


「たぶん、資料を見てるんだと思います。」


美咲さんが笑った。


「今頃、時間が経つのも忘れてるでしょうね。」


僕はスマートフォンを置こうとして、また手を止めた。


「そういえば、もう一つ聞き忘れたことがあります。」


「何ですか?」


「費用を聞いていませんでした。」


さっき研究所で書いた書類を思い出した。


資料を預け、撮影に同意し、保存や分析についての説明まで聞いた。


けれど肝心の費用については、一言も話していなかった。


僕はもう一度メッセージを入力した。


[それと、今日お願いした分析と保存に関する費用について確認できていませんでした。どうすればよいでしょうか?]


今度はすぐには返事が来なかった。


僕はスマートフォンを横へ置き、またお好み焼きを食べた。


数分ほどして、振動した。


[私が確認したい範囲については、研究費で処理します。]


すぐに、もう一つメッセージが届いた。


[さらに保存処置が必要になった場合は、そのとき改めてお話しします。]


二つの文を読んだ。


もう一度読んだ。


「これ、どういう意味ですか?」


「見せてください。」


美咲さんが僕のスマートフォンの画面を見た。


少し読んでから言った。


「とりあえず今やっている範囲は、費用を請求しないという意味です。」


「どうしてですか?」


「綾乃さんが見たいからです。」


「それが理由になるんですか?」


「綾乃さんには、十分な理由です。」


僕はもう一度画面を見た。


美咲さんが笑った。


「あの人、興味を持った研究では、まずお金のことから考えるタイプじゃないんです。」


「では、自分の研究費を使ってまで確認するということですか?」


「はい。」


「人の資料なのに?」


「だから許可をもらったんじゃないですか。」


美咲さんは何でもないように言った。


「綾乃さんなら、本当に確認したい資料があって必要な費用が出てきたら、お金をもらうどころか、自分で負担してでも調べ続けようとする人です。」


僕は少し答えられなかった。


「そこまでですか?」


「そこまでです。」


僕は二つ目のメッセージを指した。


[さらに保存処置が必要になった場合は、そのとき改めてお話しします。]


「では、これもお金を取らないという意味ですか?」


「それはまだわかりません。」


美咲さんが言った。


「実際にどんな処置が必要なのかを見ないといけませんし、ハルさんの許可ももう一度必要でしょうから。」


「でも、綾乃さん自身がやりたいと言ったら?」


美咲さんが少し考えた。


「そのときも、まず費用の話からはしない気がしますけど。」


「どうしてですか?」


「綾乃さんですから。」


僕はまたスマートフォンを見下ろした。


「榊原さんは研究にかなりお金を使うんですか?」


美咲さんが笑った。


「使いますよ。」


「研究所を見れば、そんな気はしました。」


「今日見たのは一部です。」


僕は顔を上げた。


「一部?」


美咲さんが少し止まった。


「……そのうち、ご自分で見ればわかりますよ。」


「今日、上の階まで行きましたけど。」


「そうですけど。」


「その上にも何かあるんですか?」


「そういう意味じゃなくて。」


美咲さんが笑った。


「綾乃さんが見せられる場所は、思ったより多いっていう意味です。今日私たちが見たのは、その一部にすぎません。」


僕はそれ以上聞かなかった。


もう一度スマートフォンを見た。


「榊原さんとは、よく一緒に仕事をしていたんですね。」


「何度か一緒にやりました。それで気づいたら、いつの間にか私が周りの人に通訳してるんです。綾乃語を日本語に。」


彼女が使っていた専門用語を思い出した。


しばらくして、スマートフォンがまた鳴った。


榊原さんだった。


[初期のスキャンデータは、全体の順番がわかるように、できるだけ元の解像度のまま送ってください。]


少しして、もう一つ届いた。


[現在の状態と比較してみます。]


僕は美咲さんに見せた。


「元のファイルも送らないといけませんね。」


「宿に戻ってから、ゆっくりやればいいですよ。」


「はい。」


僕はスマートフォンを置いた。


美咲さんが僕の皿を見た。


「ハルさん。」


「はい?」


「冷めますよ。」


そこでようやく、残っていたお好み焼きを見た。


「あ。」


「資料が出てくると、すぐご飯を忘れるんだから。」


「美咲さんも、さっきまで一緒に見ていたじゃないですか。」


「私は食べながら見てました。」


彼女の皿は、もうほとんど空になっていた。


僕はもう一度箸を持った。


少し冷めてはいたが、ソースの味はまだ濃く、麺のあいだからは時々イカ天がさくっと噛めた。


スマートフォンを裏返し、テーブルの上に置いた。


そして残っていたお好み焼きを食べた。


おいしかった。


おかげで、資料を調べ続けてあれこれ考えていた頭を少し休めることができた。


お好み焼きをほとんど食べ終えた頃、スマートフォンがまた鳴った。


榊原さんだった。


[それと、これからは美咲さんと同じように、私のことも綾乃さんで大丈夫ですよ。]


僕はメッセージを読んで、美咲さんを見た。


「榊原さんから、これからは綾乃さんと呼んでいいと言われました。」


「やっと言いましたね。」


「そのほうがいいんでしょうか?」


「それは私に聞くことじゃない気がしますけど。」


美咲さんが笑った。


僕は少し考えてから、返事を送った。


[わかりました。では、これからは綾乃さんと呼びます。]


しばらくして、返事が来た。


[はい。私もハルさんと呼びますね。]

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