第101話 一枚くらい、残しましょう
研究所の外へ出ると、手に持った鞄が軽く感じられた。
ひどく何かが抜け落ちたような、妙な気分だった。
隣を歩いていた美咲さんが僕を見た。
「大丈夫ですか?」
「はい。」
僕は鞄を一度持ち上げてみた。
「ただ、少し変な感じがします。」
「綾乃さんに預けたなら大丈夫ですよ。」
「僕もそう思います。」
心配しているわけではなかった。
むしろ、二つ目のノートを破りかけたことを考えれば、僕が持ち続けるよりずっとよかった。
駐車場のほうへ歩いていた美咲さんがスマートフォンを取り出し、時間を確認した。
「あ……思ったより遅くなりましたね。」
僕もそこで、ようやく時間を見た。
仕事が終わるとすぐ僕のところへ来たのだから、もしかすると、もともとの予定を後回しにしたのではないかと思った。
「美咲さん。」
「はい?」
「もしかして、今日はもともと何か予定があったんですか?」
「今日ですか?」
「僕のせいで、できなかったことがあるんじゃないかと思って。」
美咲さんが少し止まった。
「あ。」
やはり何かあったようだった。
「ゆめタウン福山に行こうと思ってたんです。」
「ゆめタウンですか?」
「はい。撮影のときに着る服も一着必要ですし、少し買うものもあって。」
美咲さんがもう一度時間を確認した。
「ハルさん、まだお昼も食べてないですよね?」
「はい。」
「私もまだなんです。じゃあ、そこで遅いお昼も食べましょう。食事もできるので、ついでに行くにはちょうどいいですよ。」
僕は少し考えた。
「そういえば、僕も買うものができました。」
「何ですか?」
「残っている資料を入れておくケースのようなものが必要だと思います。」
「じゃあ、一緒に行きましょう。」
車が出発した。
美咲さんが運転しているあいだ、僕はスマートフォンでゆめタウン福山を調べてみた。
大型スーパーとショッピングモールが一緒になったようなところだった。
韓国のEマートみたいな感じか。
だいたいそう理解して、スマートフォンを置いた。
それほど経たないうちに、車は広い駐車場へ入った。
建物の中へ入ると、思ったより人が多かった。
買い物を終えた人たちがカートを押して通り過ぎ、ショッピングバッグを持った家族連れがエスカレーターのほうを行き来していた。
片側には食品や日用品を売るスペースが広く続き、上の階の案内には衣類や雑貨、飲食店などの表示が見えた。
「思ったより大きいですね。」
「いろいろまとめて買わないといけないときは便利ですよ。」
美咲さんが上の階を指した。
「服から見ますか?」
「はい。」
僕たちがエスカレーターのほうへ動こうとしたときだった。
前でカートを押していた人が、人を避けようとして急に方向を変えた。
美咲さんは反対側を見ていた。
僕は彼女の肘の近くをつかみ、自分のほうへ少し引いた。
「気をつけてください。」
「あ……。」
カートがすぐ横を通り過ぎた。
僕はすぐに手を離した。
「人が多いですね。」
「そうですね。今日は少し混んでますね。」
美咲さんが一度、自分の腕を見下ろした。
そして、何事もなかったように言った。
「上がりましょう。」
「はい。」
僕たちは、屋外で着るのによさそうな服が並んだ店へ入った。
美咲さんが探していたのは、薄手のウインドブレーカーだった。
「外で撮影すると、思ったより長く立ってるんです。海辺だと風もけっこう吹きますし。」
何着か見ていた美咲さんが、似たように見える二着を選んできた。
一つは少しゆとりがあり、もう一つは体にやや沿う形だった。
彼女が二着を交互に持ち上げた。
「どっちがいいですか?」
「僕に聞いてるんですか?」
「はい。」
「撮影のときに着るなら、美咲さんのほうがよくわかると思いますけど。」
「機能じゃなくて。」
「じゃあ何を……。」
美咲さんが一着を自分の体の前に当てた。
「似合うほうです。」
「あ。」
二着をもう一度見た。
ハンガーに掛かった状態だけでは、よくわからなかった。
「着てみないとわからないと思います。」
美咲さんが笑った。
「それは私もそう思います。」
しばらくして、最初のウインドブレーカーを着て出てきた。
腕を前へ伸ばし、ファスナーも上げてみた。
「どうですか?」
「いいと思います。」
美咲さんが僕を見た。
「それだけですか?」
「え?」
「いいと思います、だけじゃ選べないですよ。」
「あ。」
僕は今度はもう少しよく見た。
「動きやすそうです。」
「まず一つ。」
美咲さんがまた中へ入った。
二着目を着て出てきた。
「これは?」
今度はすぐに答えなかった。
最初の姿を思い出してみた。
「最初のほうがいいです。」
「どうしてですか?」
「撮影しながら動くのにも楽そうでしたし……。」
言いかけて、少し止まった。
「美咲さんにも、最初のほうが似合ってます。」
美咲さんは答えず、鏡を見た。
正面を一度見てから、体を回して横からも確認した。
「……じゃあ、最初のにします。」
「はい。」
「今度はちゃんと役に立ちましたね。」
「よかったです。」
ウインドブレーカーの会計を済ませても、美咲さんの買い物はまだ残っていた。
僕たちはもう一度下の階へ降りた。
化粧品や日用品の売り場を通っていた美咲さんが、日焼け止めが並んでいるところで足を止めた。
「あ、これも買わないと。」
「日焼け止めですか?」
「もうほとんどないんです。これから外で撮影することも増えますし。」
いくつか見ていた美咲さんが尋ねた。
「ハルさんは日焼け止め、使わないんですか?」
「今はほとんど使いません。」
「今は?」
「僕がいちばん日焼け止めを使っていたのは、軍にいたときです。」
美咲さんが、手にしていた商品を下ろした。
「軍隊で?」
「はい。」
「ちょっと意外ですね。」
「どうしてですか?」
「軍隊って、そういうのあまり気にしない気がして。」
「むしろ、かなり気にしていました。」
「本当ですか?」
「特に、海軍で艦艇勤務をしていましたから。」
勤務していた頃を思い出した。
「何週間も海に出て任務をして、戻れば軍港で待機したり、艦艇を点検したり整備したりする。その繰り返しでした。」
「じゃあ、本当に船にいる時間が長かったんですね。」
「はい。」
「海に出ていると、日焼け止めってそんなに大事なんですか?」
僕はうなずいた。
「日差しが強いからといって、好きなときに日陰へ逃げるわけにはいきませんから。」
「あ……。」
「社会にいれば、暑かったり日差しが強すぎたりしたら、少し中へ入ればいいでしょう。でも艦艇では、仕事があればずっと外にいなければなりません。海水で体が濡れることもありますし。」
「日焼け止めをたくさん使ったっていうのもわかりますね。」
美咲さんが笑った。
そして売り場から日焼け止めを二つ選んで手に取った。
「じゃあ、これは専門家に聞かないといけませんね。」
「専門家ですか?」
彼女が二つの商品を僕の前へ差し出した。
「韓国海軍出身の日焼け止め専門家、キム・ハルさんです。」
美咲さんが笑った。
「どっちがいいですか?」
僕は二つを受け取った。
そのうち一つは、金色がかった平たい容器に入っていた。
僕がよく使っていた日焼け止めの種類の一つだった。
二つの正面を確認してから、順番に裏返した。
まず、SPFやPAなどの表示を確認した。
「屋外撮影なら、こっちのほうがいいと思います。」
「もうわかったんですか?」
「SPF50+で、PA++++ですし……。」
僕は金色の容器の表示をもう少し確認した。
「耐水性もありますね。」
「数値が高いほうがいいんですか?」
「艦艇では、高い紫外線防止効果のものを探す人が多かったです。どうせ長い時間、外にいないといけませんから。でも、それだけ見ればいいわけではありません。」
「ほかにもあるんですか?」
「汗をたくさんかいたり、水に触れることが多い環境なら、耐水性も見たほうがいいです。だから、それを言ったんです。」
僕は美咲さんを見た。
「美咲さんも、瀬戸内海で船に乗って撮影することがありますよね?」
「はい。頻繁ではないですけど、あります。港や海岸で長く撮影することもありますし。」
「なら、こっちのほうがいいと思います。」
僕は手にしていた商品を美咲さんに渡した。
「それと、朝に一度塗って終わりでは駄目です。長く外にいるなら、途中でもう一度気をつけたほうがいいです。」
少し考えてから付け加えた。
「首の後ろや耳も忘れないほうがいいです。」
美咲さんが自分の耳に触れた。
「耳にも塗るんですか?」
「海に長くいると、そういうところも意外と焼けます。」
「……専門家に聞いてよかったです。」
美咲さんが、僕が選んだ金色の容器の日焼け止めを買い物かごに入れた。
そして、また尋ねた。
「でも、軍人が肌のことを気にしていても何も言われないんですか?」
「軍人が健康に気をつけることは、むしろ奨励されます。」
「大切な国民だから?」
「うーん。それが。」
僕は考えをまとめてから言った。
「少し冷たく言えば、軍人は国家の資産ですから。だから健康管理をきちんとすることも義務でした。」
「そう言われると、急に日焼け止めって言葉がちょっと悲しく聞こえてきます。」
「とはいえ、僕たちは自分たちの肌がもったいないので、ちゃんと塗ってました。肌が傷んだら、僕も損ですから。」
「そっちのほうがずっと納得できます。」
日焼け止めを買ったあと、美咲さんは生活雑貨のほうも少し見て回った。
小さな撮影用品を見ていた途中、スマートフォンホルダーの付いた折りたたみ式の三脚を一つ手に取った。
「これも必要だったんです。」
「スマートフォン用の三脚ですね。」
美咲さんが折りたたまれていた脚を一度広げてみた。
大きくはなかった。
折りたためば、鞄の片側に十分入る大きさだった。
「スマートフォンでもドキュメンタリーを撮るんですか?」
「本撮影はカメラでしますよ。でも、いつも大きな機材だけを使えるわけじゃないですから。」
美咲さんがホルダー部分を動かしてみた。
「ちょっと固定して記録したいときや、補助の画面が必要なときはスマートフォンもけっこう便利なんです。一人で動くときは、こういうのが一つあるともっと楽ですし。」
「そうなんですね。」
「実は前に使っていたものがあったんですけど、壊れちゃって。」
「それなら必要ですね。」
「今度はハルさんに聞かなくてもいいですよね?」
「僕は三脚の専門家ではありません。」
「よかった。専門家がまた出てきたら、今日の買い物が終わらなさそうなので。」
僕は何も言わなかった。
美咲さんが笑った。
「冗談ですよ。」
彼女は三脚も買い物かごに入れた。
今度は僕のものを見る番だった。
収納用品のところで、僕は丈夫そうなケースを見ていった。
宿に残っている三つ目のノートや遺品、印刷しておいた資料を、ひとまず一か所にまとめておくつもりだった。
紙を直接入れるためのものではなく、資料をそれぞれ整理したあと、外側から保護できる程度のもので十分だった。
ちょうどよさそうな大きさのケースを一つ手に取った。
横で見ていた美咲さんが言った。
「それ、少し小さいんじゃないですか?」
「このくらいで大丈夫だと思います。」
美咲さんが隣にあった一回り大きいものを開けてみた。
「こっちのほうがよくないですか?」
僕は中を見た。
確かに余裕があった。
「大きすぎませんか?」
「また何か出てくるかもしれないじゃないですか。」
僕はしばらく答えられなかった。
間違ったことではなかった。
韓国から日本へ来る前までは、ここまで多くのものを見ることになるとは思っていなかった。
「じゃあ、これにします。」
「よく考えました。」
「今回は美咲さんが選んでくれましたね。」
「日焼け止め代です。」
「僕が払ったわけじゃないですよ。」
「専門家の相談料です。」
美咲さんが笑った。
会計を済ませると、僕たち二人の手にはショッピングバッグが増えていた。
美咲さんは新しく買ったウインドブレーカーと日焼け止め、小さな三脚を持ち、僕は思っていたより大きな収納ケースを持っていた。
外へ出る前に、美咲さんが急に立ち止まった。
「あ。」
「どうしたんですか?」
彼女がショッピングバッグの中を見下ろした。
「三脚。」
「はい?」
「ちゃんと使えるか確認しておかないと。」
美咲さんが、さっき買った小さな三脚を取り出した。
「今ですか?」
「今がいいですよ。」
僕たちは入口のほうへ移動した。
人の通行を邪魔しない場所を見つけ、美咲さんが三脚を広げた。
最初は脚が少し不自然に開いたが、何度か触るときちんと立った。
スマートフォンを取り付け、画面の角度を合わせた。
「ちゃんと立ちますね。」
「じゃあ、これで終わりですか?」
「まだです。」
美咲さんがカメラを起動した。
「何を撮るんですか?」
「とりあえず何でも。」
彼女が三脚の向きを入口のほうへ変えた。
大きな `youme` の表示が画面に入った。
横に持っていたショッピングバッグもいくつか床に置いた。
「このくらいでいいですね。」
タイマーを設定して、手を離した。
少しして、シャッター音がした。
カシャッ。
美咲さんがスマートフォンを取って、画面を確認した。
「ちゃんと撮れてますね。」
「じゃあ、テストは終わりですか?」
「ちょっと待ってください。」
彼女がもう一度三脚を見た。
「物は撮ったから、人も一度撮ってみましょう。」
「人ですか?」
美咲さんが僕を見た。
「私たち二人で。」
「僕もですか?」
「はい。」
僕は少し迷った。
「いいんでしょうか?」
「何がですか?」
「僕は調査をしに来たのに、こんな写真まで撮っていいのかなと思って。」
美咲さんが数秒、僕を見た。
そして笑った。
「ハルさん。」
「はい。」
「今、ハルさんは日本を旅行してるんじゃないですか。」
「旅行……ですか?」
「調査だけして帰るつもりだったんですか?」
「そういうわけではありませんけど。」
「じゃあ、写真一枚くらい残しましょう。」
美咲さんがもう一度タイマーを設定した。
「早く来てください。」
僕は美咲さんの隣へ行った。
画面の中に二人が入った。
少し間が空いていた。
美咲さんが画面を確認すると、僕のほうへ半歩動いた。
「このくらい近づかないと、二人ともちゃんと入らないですよ。」
「はい。」
画面の端で数字が減り始めた。
カシャッ。
美咲さんがすぐにスマートフォンを取りに行った。
「どう撮れたか見てみましょうか?」
画面に、今撮ったばかりの写真が表示された。
ゆめタウンの表示を後ろにして、僕が立っていた。
その隣には、美咲さんがいた。
美咲さんが写真を拡大してから、また元に戻した。
「よく撮れてますね。」
「そうですね。」
僕は答えたあとも、しばらくその写真を見ていた。




