第100話 読むより、残すこと
「この資料、私がきちんと確認してもいいですか?」
僕はしばらく、テーブルの上に置かれた資料を見た。
最初のノートと、そこから外されて別にまとめてある小さな手帳の紙片、それから二つ目のノート。
失くしてしまえば、二度と取り戻せない大切な資料だった。
人に預けるのはためらわれた。
けれど今は、専門家の助けが必要だった。
「はい。お願いします。」
榊原さんがすぐに顔を上げた。
「では、まずいくつか確認しますね。」
さっきまでの高揚した表情が、少し落ち着いた。
「この小さな紙は、もともとこうして別々になっていたんですか?」
「いいえ。最初のノートにありました。」
「貼り付いていたんですか?」
「はい。領収書やほかの資料と一緒に。」
僕は最初のノートを開いた。
「最初は母が韓国で、貼ったままの状態でスキャンしました。その時点ですでに自然に外れていたものも少しありました。僕が原本を受け取ってからは、無理なく外せるものだけ慎重に分けて、表と裏を確認しました。」
榊原さんが最初のノートを少し自分のほうへ寄せた。
「お母さまが最初にスキャンしたときの資料も残っていますか?」
「はい。」
「分ける前の状態も?」
僕は記憶をたどった。
最初に母から送られてきたファイルには、最初のノートを開いた状態で撮ったものがあった。
「あると思います。」
「それも送ってください。」
榊原さんは、最初のノートと手帳の紙片を交互に見た。
「今の状態だけでは、もともとどこに、どういう状態で付いていたのかわからないでしょう。最初の状態を確認できる資料があるなら、一緒に見たほうがいいです。」
「わかりました。」
僕はスマートフォンにメモしておいた。
榊原さんは、もう一度二つ目のノートを開いた。
少しして、彼女が言った。
「これは上で見たほうがよさそうですね。」
「上ですか?」
「はい。」
彼女が席を立った。
「ついてきてください。」
美咲さんは慣れているように、先に鞄を持った。
僕は資料をもう一度まとめようとした。
「それは私が持ちます。」
榊原さんが言った。
彼女は手帳の紙片とノートを慎重にまとめ、箱のような浅い容器へ移した。
僕は残った最初のノートを持った。
廊下を進むと、エレベーターがあった。
榊原さんが壁に付いている装置へ手のひらをかざした。
短い電子音が鳴った。
消えていた表示灯が一つ点いた。
僕は装置を見た。
「手のひらで開けるんですか?」
「静脈認証です。」
榊原さんは何でもないことのように、エレベーターのボタンを押した。
美咲さんも特に反応しなかった。
扉が閉まった。
「上の階も研究所なんですか?」
僕が尋ねると、榊原さんがうなずいた。
「はい。」
「何階まで使っているんですか?」
「全部です。」
「この建物全部ですか?」
「はい。」
僕はそれ以上聞かなかった。
エレベーターの扉が開いた。
一階とは雰囲気がまるで違った。
廊下から明るく、静かだった。
ガラスの向こうには広い作業台が見え、その上には僕には用途のわからない装置が置かれていた。
天井と作業台のあいだには、撮影機材のようなものが設置されていた。
モニターも何台か見えた。
研究室だと思って来たのに、片側は病院のようで、もう片側は写真撮影のスタジオのようにも見えた。
「ここで確認するんですか?」
「はい。少し待ってください。」
榊原さんが奥へ入っていった。
しばらくして、カーディガンの代わりに白衣を着て戻ってきた。
髪も後ろでまとめていた。
さっき一階で初めて会ったときとは、かなり印象が違って見えた。
「科学者みたいですね。」
僕が何気なく言うと、榊原さんが僕を見た。
「みたいじゃなくて、これも科学です。」
榊原さんは広い作業台の前に座った。
持ってきた資料をすぐには広げなかった。
まず作業台の上を整えてから、小さな手帳の紙片を一枚、決めた位置に置いた。
「まず、今の状態から記録します。」
彼女は機器を調整しながら言った。
「全体を撮影して、斜光で表面の状態を確認します。それから、波長を変えながらインクの反応も比べられます。必要なら、もう少し細かく見ます。」
僕はしばらく聞いてから、美咲さんを見た。
美咲さんも僕を見た。
「今回は、私も全部は説明できません。」
「つまり……さっき目で確認していたことを、今度は機械で確認するんですか?」
榊原さんが少し黙った。
「ものすごく簡単に言えば、そうです。」
美咲さんが少し笑った。
榊原さんは、また機器のほうへ向いた。
「紙も比べますし、筆跡も見ます。インクも一緒に確認します。」
今度は僕にもわかった。
「インクで、いつ頃書かれたものなのかもわかるんですか?」
「そこまで単純ではありません。」
榊原さんが答えた。
「インクだけを見て、正確な日付を決めるのは難しいです。でも、この記録が書かれたとされる時期に存在し得た材料なのかを見ることには意味があります。」
彼女は二つ目のノートを指した。
「それに、同じ人が書き続けた記録なら、互いに比較することもできますし。」
「もし、まったく違う反応が出たら?」
「そのときは理由を探します。」
「あとから書かれた記録かもしれないということですか?」
「そうかもしれませんし、別のペンを使っただけかもしれません。」
榊原さんは淡々と言った。
「だから、一つだけを見て結論を出してはいけないんです。」
僕はうなずいた。
榊原さんは今度は、小さな手帳の紙片と二つ目のノートを並べて見た。
「筆跡も比べます。」
「同じ人が書いたのか確認するんですか?」
「はい。」
僕たちはこれまで、当然のように祖父が書いた記録だと思っていた。
けれど榊原さんにとっては、それも確認すべき対象のようだった。
彼女が言った。
「こういう資料は、研究対象として興味深ければ興味深いほど、確認しなければならないことも増えるんです。」
美咲さんが横から言った。
「綾乃さん、もう完全に夢中ですね。」
「はい。」
榊原さんは何でもないように答えた。
彼女はくっついている紙片を機器の下に置き、しばらく画面を見ていた。
さっきのように高揚してはいなかった。
何度か位置を変え、拡大された画面を確認した。
「やっぱり、これはすぐに剥がさないほうがいいですね。」
「分けるのは難しいですか?」
「難しいというより、まだわからないんです。」
彼女が、くっついている端のほうを指した。
「まず、どうしてくっついているのかを確認しないと。」
「湿気が原因かもしれないんですか?」
「その可能性もあります。」
榊原さんは画面を拡大した。
「長いあいだ押さえられてくっついたのかもしれませんし、別の理由かもしれません。状態によって方法が変わります。」
「そのまま剥がしたら?」
「紙の表面まで一緒に剥がれることがあります。」
彼女は一度画面から目を離し、僕を見た。
「文字のある面まで一緒に剥がれたら、読もうとして分けたのに、逆に内容を失うことになります。」
宿で手を止めておいてよかったと思った。
「分けることはできますか?」
「できると思います。」
榊原さんが言った。
そして、すぐに付け加えた。
「たぶん。」
さっきとは違い、断言しなかった。
「今日すぐには難しいです。」
「どのくらい時間がかかりますか?」
彼女が資料をもう一度見た。
「早ければ一日くらいですが、数日かかることもあります。」
「数日ですか?」
「急がないほうがいいです。」
彼女は、くっついている小さな紙を見ながら続けた。
「内容を読むことより、この紙そのものを残すほうが先ですから。」
「お願いします。」
榊原さんがうなずいた。
「はい。」
彼女はすぐに、机の横から書類を何枚か持ってきた。
簡単な資料預かり確認書と、撮影に関する同意書だった。
説明を聞き、名前を書いた。
「最初にスキャンしたファイルは、あとで必ず送ってください。」
彼女がもう一度確認した。
「宿に戻ったら探してみます。」
僕たちは席を立った。
エレベーターで一階へ下りた。
研究所の外へ出ようとした瞬間、一度だけくしゃみが出た。
「くしゅん。」
美咲さんが僕を見た。
「ハルさん、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です。」
そのときは、特に気にしなかった。




