赤い残滓――悪魔が初めて沈黙した日
今夜、法廷の空気が変わります。
リリスが一歩リードしたはずの宇宙裁判。
けれどアダムは、たった一枚の記録で流れそのものをひっくり返そうとします。
誰が誰を堕落させたのか。
そして――
勝てばゼンタイの恩寵を取り戻せるこの裁判で、
ついに悪魔たちの側にも、あの感情が生まれます。
どうぞお読みください。
最初に飛んだのは、一人の老人だった。
いや――飛んだ、というより、折れた。
人類側の席にいたその老人は、もはや己の不安に耐えきれなかったのだろう。両肩を震わせたかと思うと、その身体はぎこちなく折り畳まれ、骨も肉も意思もすべて紙のように薄くなっていった。
次の瞬間。
彼は紙飛行機になっていた。
「もう終わりだ……!」
誰かが叫ぶ。
それを合図にしたように、法廷のあちこちで人間たちが次々と折れ始めた。
肩が尖り、腕が畳まれ、背が折れ、白い紙のような身体へと変わっていく。
紙飛行機。
何十、何百という紙飛行機が、法廷の中を旋回した。
彼らは悪魔たちに向かって突撃した。
しかし――
かすりもしない。
悪魔たちはただそこに立ち、静かにそれを見ているだけだった。
紙の機体が悪魔たちの肩や腕に触れても、何の傷も残らない。
ただ、ぱさり、と床に落ちる。
また飛ぶ。
また落ちる。
その無力さが、法廷の空気をますます冷たくした。
アダムはその光景を見つめながら、拳を握った。
人類はまだ敗北していない。
まだだ。
まだ、終わっていない。
そのとき、ゼンタイの槌が静かに鳴った。
「静粛に」
その一言だけで、法廷はかろうじて形を取り戻す。
紙飛行機になった人間たちも、ふらふらと元の姿へ戻っていった。
ゼンタイの視線がアダムに向く。
「アダム殿。証拠と証人を提示してください」
アダムは深く息を吸った。
胸の鼓動がうるさいほど響く。
だが、もう迷いはなかった。
彼は一歩前へ出る。
「証人として――トム・ピプキンを呼びます」
法廷がどよめいた。
リリスの瞳が、わずかに細くなる。
「異議あり」
彼女は即座に立ち上がった。
「トム・ピプキンは我々悪魔側の証人よ。もしアダムが彼を使うなら、何らかの操作か、強要の疑いがあるわ」
ゼンタイは即答した。
「異議を却下する」
静かだが、絶対だった。
「続けてください」
アダムは一礼した。
「閣下。リリス殿は教皇インノケンティウス八世の事例をもって、人類の悪は悪魔の介入なしに成立すると論じました」
彼は一拍置く。
「しかし、それは一例に過ぎません」
法廷に視線を巡らせる。
「一例だけで、人類史全体を断定することはできない」
そして、一枚の絵画を掲げた。
「ここに、教皇アレクサンデル六世の若き日の肖像があります」
人類も悪魔も、その絵に目を向けた。
若きアレクサンデル六世。
その隣には、一人の男がいた。
痩せた顔。
細い指。
異様に静かな微笑み。
「アウグスト・フロリネッティ」
アダムは言った。
「ボローニャ大学における、アレクサンデル六世の師の一人です」
リリスが鼻で笑う。
「ダーリン、それが証拠? 絵なんて誰にでも描けるわ」
アダムは頷いた。
「その通りです。だからこそ――」
彼はトム・ピプキンへ視線を送った。
全知の神は、音もなく一枚の円盤を差し出した。
DVD。
「観測記録です」
ゼンタイが頷く。
「上映を許可する」
法廷の灯りが落ちた。
映像が始まる。
若きアレクサンデル六世が映る。
まだ青年だ。
まだ完全には堕ちていない。
その身体には、はっきりと緑の光が宿っていた。
人間の色。
人類側の席から、かすかな息が漏れる。
そして――
アウグストが現れた。
その瞬間、法廷の空気が変わる。
彼の全身は、完全な赤に包まれていた。
濁りも、混じりもない。
純粋な赤。
悪魔の色。
映像の中で、アウグストは若きアレクサンデル六世の肩に手を置く。
すると。
赤が、流れ込んだ。
ゆっくりと。
確実に。
アレクサンデル六世を包んでいた緑の光の中へ、赤い筋が入り込んでいく。
最初は一本。
次に二本。
やがて細かな亀裂のように広がっていった。
そして。
青年の目つきが変わる。
表情が変わる。
言葉が変わる。
思考が変わる。
映像は、その変化を容赦なく映し続けた。
法廷の誰もが、言葉を失った。
アダムは静かに言った。
「これが――悪魔の介入です」
沈黙。
今度は、人類ではない。
悪魔たちだった。
最初に動いたのは、若い悪魔だった。
彼は突然、懐から小袋を取り出した。
中には、小さく砕かれた魂が入っていた。
乾いた音を立てながら、それを口へ放り込む。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
止まらない。
別の悪魔も同じように食べ始める。
また一人。
また一人。
やがて悪魔たちは、法廷のあちこちで魂のスナックをむさぼり始めた。
ぱり。
ぱり。
ぱり。
その音だけが、異様にはっきりと響く。
しかし、それでも落ち着かない。
一人の悪魔が、突然床に座り込んだ。
そして羊皮紙を広げ、狂ったように何かを書き始める。
「責任とは何か」
「悪とは本質か、作用か」
「自由意志は存在するのか」
別の悪魔も書き始める。
また別の悪魔も。
やがて法廷の床は、無数の哲学的断章で埋め尽くされていった。
食べる。
書く。
食べる。
書く。
それでも、不安は消えない。
アダムはそれを見ていた。
ほんの少しだけ、天秤が動いたのを感じた。
リリスは立ったまま、何も言わなかった。
その瞳だけが、冷たくアダムを射抜いていた。
法廷の空気は、再び壊れ始めていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
この章では、ほんの少しだけ天秤が揺れました。
人間が恐怖で狂ったように、
今度は悪魔たちもまた、平静ではいられません。
次回はさらに、法廷の奥に沈んでいたものが姿を現していきます。
もし「この先が気になる」と思っていただけたなら、とても嬉しいです。




