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白い剣は折れない  作者: 蒼月よる


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6/12

第6話 虚偽の報告書

 夜が明けきらないうちに、おれは目を覚ました。


 ゲルダの家の奥の部屋。窓辺の遺物の灯りが淡い光を落としている。蜂蜜色の、揺らがない光。もう何日もこの光の中で眠り、この光の中で目を覚ましている。


 隣の寝台で、ハルスが静かに寝息を立てていた。仰向けで、毛布を胸まできちんと引き上げて、身じろぎもしない。


 ドルクの姿がなかった。


 毛布が畳まれていた。寝台の上に、角を揃えて。外套と靴がない。


 おれは音を立てないように起き上がり、靴を履いた。


 外に出ると、空がまだ暗かった。東の端だけがわずかに白み始めている。霜が降りていた。土の道が白く光っている。息が白い。この集落の冬は厳しいだろう。遺物の暖房がなければ——


 そこまで考えて、おれは思考を止めた。


「エルト」


 低い声。近い。


 振り向くと、ゲルダの家の壁に寄りかかるようにしてドルクが立っていた。外套の襟を立て、腕を組んでいる。闇の中に溶け込んでいたその体が、東の空の薄明を受けてようやく輪郭を持った。


「少し歩くぞ」


 ドルクはそれだけ言って、集落の外へ向かって歩き出した。


 おれは一瞬だけ家の中を振り返った。ハルスはまだ眠っている。


 追った。


 集落を出ると、道は畑の脇を通って丘のほうへ続いていた。初日におれたちが偵察のために降りてきた、あの丘だ。霜を踏む音が二人分、夜明け前の空気に乾いた響きを立てた。


 ドルクは振り返らなかった。おれは黙ってその背中を追った。質問は浮かんでいたが、口にしなかった。ドルクの背中が、今は黙っていろと言っていた。


 丘の頂に着いた。


 五日前、おれたちが初めてラステンを見下ろした場所だ。あのときはヨルンが「いい場所だな」と言い、ドルクが長い間、集落を見つめていた。偵察の目ではない目で。


 眼下に、ラステンがあった。薄明の中に、三十軒ほどの屋根が不揃いに並んでいる。煙突からの煙はまだない。灯りも、ほとんど消えている。集落は眠っていた。静かに、無防備に。


 ドルクは五日前と同じ姿勢で、集落を見下ろしていた。あのとき、おれにはその目の意味がわからなかった。今も——わからない。だが五日前より、少しだけ近い場所にいる気はした。


「座れ」


 ドルクが岩の一つを顎で示した。おれは腰を下ろした。ドルクは立ったままだった。


 東の空が白さを増していく。星が一つ、また一つと消えていく。


 ドルクがようやく口を開いた。


「おまえに、話しておくことがある」


 声は低かった。いつもの乾いた短文ではなかった。言葉の間に、重さがあった。一語ずつ、地面に置いていくような話し方だった。


 ドルクが集落から目を離さないまま言った。


「おれは七年間、報告書を偽造してきた」


 風が止んだ。


 そう聞こえたのは、おれの耳が言葉以外のすべてを遮断したからだろう。実際には風は吹いていたはずだ。だがおれの世界は一瞬、ドルクの声だけで満たされた。


「四つの集落。四百人」


 数字が胸に落ちた。石を飲み込んだような感覚があった。


 おれは口を開きかけて、閉じた。何を言えばいいのかわからなかった。


 ドルクが続けた。視線は集落の上にある。おれを見ていない。


「条件がある。おれが書かなかったのは、全部じゃない」


「違反が軽微であること。住民が無知であること。遺物が受動的であること」


 三つの条件を、ドルクは指を折ることもなく、ただ声に乗せた。


「灯り。暖房。水の浄化。生活の中に溶け込んでいて、住民がそれを遺物だと知らない。あるいは知っていても、禁忌だという認識がない。遺物のほうも人間に干渉しない。ただそこにあって、光を出し、熱を出し、水をきれいにする。それだけの——」


 ドルクの声が一瞬途切れた。


「——それだけのもの」


「そういう集落に行ったとき、おれは報告書に『証拠不十分』と書いた」


「七年間——」


「ああ」


 おれの声は掠《かす》れていた。ドルクの「ああ」はいつも通りだった。短く、乾いていて、肯定の意味しか持たない音。だがその音の向こうに、七年分の夜が積もっているのだと思うと、おれの喉は塞がった。


 ドルクが初めておれのほうを見た。


 暗い目だった。暗いというのは光がないという意味ではない。目そのものは朝の薄明を映している。だがその奥に、おれが覗き込めない深さがあった。井戸の底のような——底が見えない暗さ。


 おれは「なぜ」と聞きたかった。だがその問いは、七年と四百の命に対して軽すぎた。


 ドルクはおれの沈黙を待たなかった。視線を集落に戻し、四つの集落を語り始めた。


「一つ目は、北の山裾。おれが班長になって二年目の冬。人口六十。遺物は暖房が三つ。住民は誰一人、あれが遺物だと知らなかった。先祖が残した石の箱だと思っていた。石の箱が温かいから冬を越せる。それだけだった」


 ドルクの声には感情がなかった。報告書を読み上げるように、事実を並べていく。


「二つ目は翌年の春。東の沿岸。漁村。人口百十。遺物の灯りが灯台代わりに使われていた。あの光は風で消えない。嵐の夜でも船を導ける。漁師たちはそれを『海神《わだつみ》の灯《ひ》』と呼んでいた」


「三つ目は二年後。南の街道沿い。人口九十。遺物の浄水器を井戸に組み込んでいた。浄水器がなければ、子供が腹を壊して何人か死ぬ」


「四つ目は去年。西の丘陵地帯。人口四十。小さな集落だった。遺物は灯りが一つだけ。集会所の天井に吊ってあった。そこで年寄りが集まって話をする。灯りがなければ、冬の夜は暗くて集まれない。それだけの話だ」


 四つの集落。六十人、百十人、九十人、四十人。合わせて三百。残りの百人は、七年の間に生まれた子供たちか。どちらにしても、四百という数は報告書の上に存在しない人々の総数だった。


 沈黙が落ちた。草が揺れる音。遠くで鳥が一声鳴いた。朝が来ようとしている。


 おれは自分の中を探った。怒りがあるかと思った。裏切りへの怒り。信仰への冒涜に対する義憤。訓練で教わった反応ならそうなるはずだった。だが探しても、それは出てこなかった。代わりにあったのは、胸の底を冷たいものが這うような感覚だった。


 七年間。おれが訓練場で木剣を振り、祈りを捧げ、紋章を胸に留める練習をしていた七年間。この男は報告書に嘘を書き続けていた。おれが「正しい」と教わっていたものの裏側で、別の正しさを——正しさと呼んでいいのかすらわからないものを、一人で背負っていた。


「——だが今回はできない」


 ドルクが言った。声の温度が変わった。過去を並べていく声ではなかった。現在の声だった。


「ハルスがいる」


 その一言で、全てが繋がった。


 監察官の同行。ハルスの几帳面なメモ。独立した報告書。二つの報告書が食い違えば——。


「ハルスの報告書は、おれのとは別に本部へ行く。おれが『証拠不十分』と書いても、ハルスが遺物の使用を記録していれば意味がない。メモ帳にはもう全部書いてある。灯りの数。設置場所。教室での使用状況。——あの男は一つも見落とさない」


 おれは思い出していた。ハルスがゲルダの水汲みを手伝い、微笑みを返し、そしてメモを書いた姿を。穏やかで、悪意のかけらもない——だからこそ完璧な記録を残す男。


「今回は」


 ドルクが繰り返した。


「書けない」


 その二文字が、丘の上の冷えた空気に落ちた。いつもの寡黙は言葉を必要としない男の沈黙だ。今の沈黙は、言葉が足りない男の沈黙だった。


 おれはようやく口を開いた。


「なぜ、おれに話すんですか」


「ヨルンでもテッサでもなく——なぜおれに」


「ヨルンは任務に忠実だ。テッサもそうだ。あの二人は正しい騎士だ。正しい騎士に聞かせる話じゃない」


「おれだって——」


 言いかけて、止まった。おれだって正しい騎士だ。そう言おうとした。だが言葉が喉の奥で凍った。


 おれは正しい騎士だろうか。子供たちに剣の型を教えた。遺物の温もりを掌で感じた。レンネの問いに答えられなかった。灯りを美しいと思った。


 正しい騎士は、処理対象の集落の子供に型を教えたりしない。


「おまえは見ている」


 ドルクが言った。


「この集落を見ている。報告書に書くべきものだけじゃなく、書けないものも。おまえの目は——両方を見ている」


「だから話す」


 ドルクが体の向きを変えた。初めて正面からおれに向き合った。大柄な体が朝の光を背負っていて、顔は逆光で暗い。だが目だけは見えた。暗く、深く、底の見えない目。


「選択肢があると知っておけ」


 声は静かだった。静かになるほど本気だと、おれはこの数日で知っていた。


「この鎧の中にも、選択はある」


 白い上衣を着ていないときでも、おれたちは鎧の中にいるのだと——ドルクはそう言っている。聖騎士という鎧。信仰という鎧。教義という鎧。その中に閉じ込められているとおれたちは思っている。だがドルクは七年間、鎧の中で手を動かし続けていた。報告書という小さな隙間から、四百の命を外に逃がした。


 おれの頭の中で、いくつものものが同時に崩れ、同時に組み上がろうとしていた。


 ドルクが集落を見つめていた理由。丘の上で、偵察の目ではない目で見下ろしていた理由。——過去に「証拠不十分」と書いた集落たちの面影を、ここに重ねていたのだ。北の山裾の六十人。東の沿岸の百十人。南の街道の九十人。西の丘陵の四十人。ラステンの屋根の向こうに、それらの集落が見えていたのだろう。


 そしてゲルダの家の蝶番。頼まれてもいないのに直した、あの蝶番。あれはドルクという人間のかたちだった。鎧の中に隠した、素手の部分。報告書に嘘を書く男が、同じ手で老婆の家の戸を直す。その二つの行為は矛盾しない。どちらもドルクの手から出ている。


「班長」


「ん」


「おれは——おれはどうすればいいんですか」


 情けない声だった。二十歳の聖騎士が、三十八の男に縋《すが》るような声。だがそれ以外の言葉が出てこなかった。


 ドルクは答えなかった。


 長い沈黙があった。東の空が橙から金に変わっていく。集落の屋根に朝日が触れ始めた。最初に光を受けたのは集会所の屋根だった。レンネが子供たちに字を教える場所。


「それはもう、おれの問いじゃない」


 ドルクが言った。


「おれはおまえに答えを渡しに来たんじゃない。選択肢を渡しに来た。選ぶのはおまえだ」


 ドルクの声は、枯れた井戸に石が落ちるような響きだった。深くて、硬くて、反響しない。


「おれは七年間、おれの答えを出し続けた。四百人分の。だがそれはおれの答えだ。おまえに押しつけるものじゃない」


「おまえが何を選んでも——報告書の通りに任務を遂行しても、おれを告発しても、あるいは別の何かを考えても——おまえの選択だ。おれはそれを止めない」


 おれは唇を噛んだ。


 ドルクはおれに自由を渡そうとしている。だがそれは同時に、答えのない場所に一人で立てということでもあった。七年間、ドルクが一人で立っていた場所に。


「一つだけ。何も知らないまま選ぶのと、知った上で選ぶのは違う。おれはおまえに知らせた。それだけだ」


 東の空が明るくなり、集落に朝が降りてくる。家々の窓に朝日の光が差し始める。やがて人々が起きて、竈に火を入れ、畑に出て、子供たちがレンネの教室に走っていく。


 だがおれにとって、もういつもと同じ朝は来ない。


「降りるぞ」


 おれは立ち上がった。足が少し痺れていた。


「班長」


 ドルクが足を止めた。振り返らなかった。


「四つの集落は——今も」


「知らん」


 短い答え。だがその後に、わずかな間があった。


「だが、処理されたとは聞いていない」


 それだけ言って、ドルクは歩き出した。


 おれはその背中を見た。大柄な体。年季の入った肩幅。あの背中に七年分の嘘が積もっている。四つの集落と四百の命を背負って、それでもまっすぐに歩いている。


 丘を降りるあいだ、おれの頭の中では二つのものがぶつかり合っていた。


 一つは訓練の声だ。反逆だ。報告書の偽造は神への反逆だ。もし閾値を超えていたら。もし神罰が降っていたら。四百人ではなく、数千人が死んでいた。


 もう一つは——ドルクの声だった。石の箱が温かいから冬を越せる、と信じていた六十人。嵐の夜に船を導く灯りを「海神の灯」と呼んでいた百十人。浄水器がなければ死ぬ子供たち。灯りがなければ集まれない老人たち。


 それらの人々が今も生きているのは、ドルクが嘘を書いたからだ。


 おれの信仰は、その事実をどう飲み込めばいい。


 ——飲み込めなかった。まだ。


 集落の入口に差しかかった。犬が一匹、道に寝そべっている。


「エルト」


 ドルクが立ち止まった。


「ここから先は旅人だ。ハルスには言うな。ヨルンにもテッサにも」


「……了解しました」


 ドルクが歩き出した。集落に入る。その瞬間、ドルクの背中が変わった——おれにはそう見えた。七年間の嘘を背負っていた男の背中が、一歩で消えた。代わりに現れたのは、旅の途中の商人の、何でもない背中だった。


 ドルクにとっては、これも本当の姿なのだ。嘘を書く班長も、蝶番を直す旅人も、うまい飯を作る男も——全部がドルクだ。鎧の中で、ドルクはずっとそうやって生きてきた。


 ゲルダの家に入ると、ハルスがすでに起きていた。


「おはようございます。早いですね」


「朝の空気が良かったものでな。少し歩いてきた」


 ドルクが答えた。声はいつもの乾いた短文に戻っていた。七年間この顔で通してきたのだ。


「そうですか」


 ハルスは微笑んだまま、荷物の中からメモ帳を取り出した。何かを書き加える。おれは水筒を取った。水を口に含む。手が震えていた。握りしめて止めた。


「そろそろ調査結果を整理する段階かと思います。班長の所見を伺えますか」


 ハルスがドルクに向き直った。


「遺物の使用は集落全体にわたる。灯りと暖房。設置は各世帯。教育施設でも使用。住民の大半は遺物という認識を持っていない」


 ドルクの報告は正確だった。嘘はない。


「教師のレンネは、灯りが都の人間の関心を引くものだと認識している。だが禁忌という認識までは至っていない」


 おれは顔を上げた。


 ——嘘だ。


 レンネは知っている。「知っていますよ、都の人が気にするものだって」。あの目は、知らない人間の目ではなかった。


 だがドルクはレンネの認識を一段階低く報告している。「禁忌という認識までは至っていない」。完全な嘘ではない。レンネが「禁忌」という言葉を使ったわけではないのだから。だが事実の色を、ほんのわずかに薄めている。


 これが報告書の技術だ。七年間で磨いた技術。完全な嘘は書かない。事実を述べる。だが事実の選び方で、結論を微妙にずらしていく。——今回は通用しない方法だった。


「概ね私の調査とも一致しています。ただ一点——教師のレンネについてですが」


 ドルクの指が、卓の上でわずかに動いた。おれはそれを見逃さなかった。


「私の観察では、レンネは灯りの性質についてもう少し深い認識を持っているように思います。禁忌という語を知らなくても、問題になりうるものだという認識はあるのではないかと」


 ハルスの分析は正確だった。レンネと直接あの会話をしていないのに、観察だけで読み取っている。


「班長はどうお考えですか」


「……否定はしない」


 ハルスが小さく頷き、メモ帳に書き加えた。几帳面な文字が頁を埋めていく。ドルクの「色を薄めた」報告を、ハルスが元の色に塗り直していく。


 この二人の間で、静かな攻防が行われている。だがハルスには攻撃の意思がない。ただ事実を正確に記録しているだけだ。事実を記録することが、ドルクの七年間の技術を無効化する。


 ゲルダが竈に火を入れた。粥の匂いが漂ってくる。


 ゲルダが粥をよそってくれた。歯が欠けた、温かい笑顔。この人は知らない。おれたちが何者で、何をしに来たのかを。


 粥は温かかった。だがおれの舌は味を感じなかった。


 ハルスが穏やかに頷いて、集落の中へ消えていった。メモ帳を懐に。今日もまた、一つ残らず記録するのだろう。


 ドルクは壁に背を預けて、目を閉じていた。


「班長」


「ん」


「——午後の報告、おれは何を言えばいいんですか」


 ドルクが目を開けた。


「見たものを言え」


「見たものを」


「おまえの目で見たものを、おまえの言葉で。それだけだ」


 嘘を書けとは言わない。真実を曲げろとも言わない。ドルクは自分の技術をおれに教えようとしていない。ただ——見たものを言え。


 それは自由であり、同時に孤独だった。


「了解しました」


 ドルクは目を閉じた。


 窓の外から、子供の声が聞こえた。


「レンネ先生ー!」


「おはよう。早いね、今日は」


「算術やるんでしょ!」


「やりますよ。でもその前に、昨日の字の復習」


「えー」


 子供の声と、レンネの笑い声。ラステンのいつもの朝だ。


 おれは目を閉じた。


 神よ——とおれは祈ろうとした。だが言葉が続かなかった。正しき道を照らしたまえ。だが正しき道は一本ではなかった。教義が教える道と、ドルクが歩いた道と、レンネが選んだ道と。それらは全て別の方角を向いている。


 祈りは途中で止まった。


 代わりに、ドルクの言葉がもう一度、胸の中に浮かんだ。


 選択肢があると知っておけ。この鎧の中にも、選択はある。


 おれはまだ選んでいない。何も選んでいない。だが知ってしまった。鎧の中に手を動かす余地があることを。報告書の一行で命を救えることを。そして——その余地が、今回は閉じられていることを。


 窓辺の遺物の灯りが、朝日に紛れてほとんど見えなくなっていた。だがおれには、それがまだ光っているとわかった。消えることなく、揺らぐことなく、ただ在り続ける光。


 あの灯りのように在ることが、果たしておれにできるのだろうか。


 ——答えは、まだなかった。


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