第5話 夕灯
教室の窓は開いていた。
正確には、窓と呼べるほどのものではない。壁に穿たれた四角い開口部に、木の板を蝶番で吊ったものだ。ドルクが直したのと同じ型の、素朴な造り。その板が跳ね上げられていて、午後の光が斜めに差し込んでいた。
おれは集会所の外壁に背を預けて立っていた。
中からレンネの声が聞こえる。柔らかく、よく通る声だ。子供に話しかけるときの声は少し高くなる。
「はい、そこ。この字は何ですか」
「あ!」
「そう。では次」
子供たちの声が重なる。五つか六つか。一人が答えると別の一人がかぶせるように口を開く。レンネがそれを遮らない。むしろ弾ませるように相槌を打ち、時折笑い声を混ぜる。
おれはここで何をしているのだろう。
任務は潜入調査だ。旅人を装い、遺物の使用状況を確認する。それがおれの役目だ。だが壁に背を預けて教室の声を聞いている今のおれは、調査官の顔をしていない。自分でもわかっていた。ただ——聞いていたかった。あの声を。
足音がした。軽い。子供の足音だ。集会所の角を曲がって、小さな影が飛び出してきた。
女の子だった。八つか九つか。黒い髪を短く切りそろえていて、膝が泥で汚れている。走ってきた勢いのまま、おれの前で急に止まった。
「あなた、騎士でしょ」
心臓が一つ跳ねた。
おれは顔を動かさなかった。訓練で学んだことだ。不意を突かれたとき、最初の反応が全てを決める。表情を変えるな。視線を逸らすな。声を安定させろ。
「いや、おれは旅の者だ」
「うそ。おじさんみたいに立ってる」
おれの立ち方が何かを語っていたらしい。背筋を伸ばし、壁に寄りかかっていても重心が両足に均等にかかっている。十二年の訓練が身体に刻んだ姿勢は、意識して崩すことが難しい。
「騎士じゃない。ただの旅人だ」
「ふうん」
子供は納得していなかった。目がそう言っていた。だがそれ以上は追及してこなかった。代わりに、別のことを言った。
「ねえ、なにか教えて」
「何を」
「なんでもいい。レンネ先生は字と算術でしょ。旅の人は旅のこと知ってるでしょ。なにか」
おれは口を開きかけて、閉じた。旅の話。おれには旅の話がない。おれが知っているのは、白い石の回廊と、訓練場の石畳と、四日間の行軍と、この集落のことだけだ。語れる旅路などない。
「おれは——」
言葉を探した。だが嘘が出てこなかった。代わりに、身体が動いた。
集会所の脇に、子供たちが遊びに使ったらしい木の棒が何本か転がっていた。腕の長さほどの、節のある枝。おれはそのうちの一本を拾い上げた。
なぜそうしたのかは、おれにもわからない。頭で考えたのではなかった。十二年間、毎朝握ってきたものの代わりを、手が勝手に求めた。
「棒を持て」
「え?」
「一本、選べ。手に合う太さのやつだ」
子供が目を丸くした。それから一本を拾った。短い方を。両手で握る。
「違う。片手だ。ここを持て」
おれは棒の握り方を直してやった。正しい位置を正しい力で握れば、棒は手の延長になる。訓練の初日に教官が言ったことだ。
「足を開け。肩幅だ。それより少し広い。そう」
「こう?」
「膝を少し曲げろ。背筋は伸ばしたまま。重心を落とせ」
集会所の中から、別の子供が顔を出した。窓から身を乗り出して、こちらを覗いている。
「なにやってるの!」
「旅の人が教えてくれるんだって!」
「おれも!」
一人が駆け出してきた。もう一人が続いた。気がつくと、四人の子供がおれの前に並んでいた。四人とも棒を持っている。おれはそれを——止めなかった。
「こうだ。足を肩幅に。背筋を伸ばせ」
おれは棒を構えた。基本の構え。聖騎士団の型の、最初の最初。右足を半歩引き、棒を握った腕をまっすぐ前へ伸ばし、先端を正面に向ける。
子供たちがそれを真似た。
形は崩れていた。当然だ。足の位置が違う。肘が開きすぎている。背中が丸い。だがおれは一人ずつ回って、足の位置を直し、肘を押さえ、背筋に手を当てた。
「もっと引け。そう。いい」
「重い」
「腕で持つな。体で持て。足から力を伝えるんだ。地面を踏め。しっかり。その力が腰を通って腕に来る。棒は最後だ」
自分が何を言っているのか、おれにはわかっていた。これは聖騎士の訓練の言葉だ。教官がおれに言ったのと同じ言葉を、おれはラステンの子供に向けている。
だが身体は止まらなかった。
次の型に移った。一歩踏み込んで、突く。子供たちが真似る。一人が足をもつれさせて転んだ。笑い声が上がった。転んだ子供も笑っていた。おれは手を貸して起こしてやった。
「もう一回」
「うん!」
「足だぞ。足が先だ」
四人目の子供の背筋に手を当てたとき、ふいに理解した。おれはここに踏み込んでいる。調査官として観察するのではなく、旅人として通り過ぎるのでもなく、この場所の中に、自分の足で入っている。子供たちの名前を知らない。だが棒の握り方を教えた。足の置き方を正した。声をかけた。
それは——おれがこの集落に来て以来、初めて自分から手を伸ばした行為だった。
「上手になったじゃないか」
最初の女の子が、おれを見上げて笑った。前歯が一本欠けていた。
「ね、やっぱり騎士でしょ」
「……旅人だ」
「旅人は剣を教えないよ」
答えられなかった。
「おーい、レンネ先生に言いつけるよー」
窓から残りの子供が叫んだ。戸口にレンネが姿を現した。
「何をしてるんですか、こんなところで」
柔らかい声だった。叱っているのではない。だがおれに向けられると、その柔らかさの奥に静かな視線があることに気づく。
「子供たちに頼まれて。少し、身体の動かし方を」
レンネは子供たちを見た。四人が棒を構えたまま、汗をかいて、泥だらけで、目を輝かせている。
「あら。いい構えじゃない」
レンネが微笑んだ。子供が何かを覚えたことを、ただ喜んでいる。教師の顔だ。
「さ、今日はここまで。手を洗っておいで」
子供たちが棒を放り出して走っていく。おれは手の中の棒を見下ろした。何の変哲もない枝。これを剣に見立てて、聖騎士の型を、処理対象の子供たちに教えた。
棒を地面に戻した。
「見せたいものがあるんです」
レンネが言った。彼女はもう集会所の中に向かって歩き出していた。おれは一瞬迷い、それから後を追った。
集会所の中は思ったより広かった。石積みの壁に木の梁が渡してあり、天井が高い。長い木の机が三列。その上に石板と粉筆が並んでいる。文字が書かれた石板がいくつか、まだ消されずに残っていた。丸い、たどたどしい字。
レンネは奥の棚から、布に包まれた何かを取り出した。丁寧に、何重にも。解いていくと、中から滑らかな金属の筒が現れた。
掌に乗る大きさ。表面に継ぎ目がない。旧文明の加工技術——人の手では再現できない精度。色は淡い銀色で、何世代もの手が触れてきた金属特有の、角が丸くなった光沢がある。
レンネが筒の端に触れた。
光が灯った。
均一で、温かく、揺らがない光。おれが初日の偵察で窓越しに見たあの光だ。蜂蜜を陽にかざしたような色。近くで見ると、蝋燭の炎のように揺れることもなく、魔石灯のように脈打つこともない。ただ在る。静かに、確かに、在る。
手をかざすと、温かかった。光だけではない。微かな熱が、掌に届いていた。
「温もりが禁忌だなんて、おかしくないですか?」
レンネの声は、子供たちに向けるときとは違っていた。静かだった。高さが落ち、速さが落ち、言葉の一つ一つが重くなっている。
「あなたは旅の方だから、珍しいかもしれませんね。でもここでは、ずっとあるものなんです。おばあちゃんのおばあちゃんの頃から。夜になったら灯す。冬になったら温まる。それだけ」
レンネは灯りを机の上に置いた。光が石板の文字を照らす。子供のたどたどしい字が、温かい色に染まった。
「前に、都の人が来たことがあるんです」
おれの背筋が微かに強張った。昨日レンネが口にした言葉。あのときは何気ない世間話のように聞こえた。だが今、レンネの目を見て——おれは理解した。何気なくなどなかった。
「灯りのことを色々聞かれました。いつからあるのか、いくつあるのか。丁寧な方でしたよ。にこにこして、メモを取って」
ハルスの姿が脳裏をよぎった。にこにこして、メモを取る。
「あの人が帰ってから、少し調べたんです。行商人が持ってくる話と、祖母から聞いた話くらいしかありませんけど」
レンネは灯りを見つめていた。光が彼女の横顔を照らしている。
「知っていますよ。都の人が気にするものだって」
静かな声だった。告白でも、訴えでもない。ただ事実を——自分が知っていることを、認めている。
「でもこの灯りがなければ、夜学はできない。この子たちは字を覚えられない」
レンネがおれを見た。まっすぐに。子供に向ける柔らかさはそこにはなかった。代わりにあったのは、覚悟を決めた人間の目が持つ、水面のような静けさだった。
「昼は畑を手伝わなきゃいけないでしょう。日が暮れたら蝋燭じゃ暗すぎて字が読めない。この灯りがあるから、夜でも教えられるんです。この灯りがあるから、あの子たちは自分の名前が書ける」
おれは黙っていた。
訓練で教わった言葉なら、いくらでもあった。遺物の使用は禁忌である。旧文明の技術は神罰の因子を含む。個人の便益は全体の安全に優先しない。おれはそれを十二年間学んできた。
だがレンネの目を見ながら、それらの言葉のどれも口にできなかった。
レンネは無知な善人ではなかった。灯りが「都の人が気にするもの」であることを知っていた。完全には理解していないかもしれないが、危ういものであることは察していた。知った上で、灯りを消さなかった。知った上で、夜学を続けた。子供たちが名前を書けるようになるために。
それは選択だった。無知からの行為ではなく、選択だった。
「温もりが禁忌だなんて、おかしくないですか?」
レンネがもう一度言った。同じ言葉。だが今度はおれの目を見て、答えを求めていた。
おれに答えはなかった。
おかしい、とは言えない。聖騎士の訓練を受けた身だ。だが——おかしくない、とも言えなかった。この光の温かさを掌で感じながら、「おかしくない」とは言えなかった。
訓練で教わったどの想定にも、この問いはなかった。禁忌遺物の使用者が恐れたり、怒ったり、嘆いたりする想定はあった。だが——穏やかに笑って、「おかしくないですか」と問いかける想定は、なかった。
「……わかりません」
おれが言えたのは、それだけだった。
レンネは少し笑った。困ったような、諦めたような、それでいてどこか優しい笑みだった。
「そうですよね。旅の方に聞くことじゃないですね」
彼女は灯りを布で包み直した。丁寧に、何重にも。まるで子供をくるむように。
「でも、ありがとうございます。子供たち、楽しそうだった。棒の振り方なんて、ここじゃ誰も教えてくれませんから」
おれは集会所を出た。
西の空が赤く染まり始めていた。
宿に戻る道すがら、集落の外れに目をやった。井戸の近くの石塀に、ドルクが腰を下ろしている。その向かいに、ハルスが立っていた。
二人の声は遠くて聞こえなかった。だが空気でわかった。ドルクの背中が強張っていた。普段の、感情を消した姿勢とは違う。何かを主張しているときの身体だ。
おれは歩調を緩めず、二人の脇を通り過ぎた。旅人として。
だが通り過ぎる瞬間、ドルクの声が断片的に届いた。
「——違反は軽微だ」
低い声。抑えているが、強い。
ハルスの返答は穏やかだった。いつもと同じ温度の、いつもと同じ丁寧さの声。
「規定は明確です。組織的な遺物使用は閾値を超えています」
おれは歩き続けた。振り返らなかった。ドルクの声の強張りと、ハルスの声の穏やかさ。その対比が全てを語っていた。
宿の老婆の家に着いた。扉を開けると、遺物の暖房がオレンジ色に光っていた。
「お帰り。夕餉ができてるよ」
木の椀に、粟と根菜の粥。老婆は向かいに座り、自分の椀を両手で包むように持った。関節の腫れた指。遺物の暖房の光が、その手を横から照らしていた。
おれは粥を食べた。温かかった。
食べ終えた椀を置いて、戸口に出た。
ラステンの夕暮れは、騎士団の本拠のそれとは違った。空全体が紅から紫へ、紫から藍へと移っていく。雲の端が燃えるように光り、それが消えると、空に最初の星が現れた。
そして——灯りが点った。
一つ。集落の東端の家。窓に均一な光が浮かぶ。
もう一つ。その隣。間を置いて、北側にも。
一つずつ、一つずつ。ラステンの家々に灯りが点っていく。蝋燭の揺れる光ではない。魔石灯の脈打つ光でもない。旧文明の遺物が放つ、均一で温かな光。蜂蜜の色。それぞれの窓が、夕闇の中に浮かび上がっていく。
集会所にも点った。レンネが夜学の準備をしているのだろう。あの灯りの下で、子供たちがまた石板に向かう。
灯りの数を数えた。十。十二。十五。まだ増えていく。
それは——地上に落ちた星座のようだった。
空に星が散らばるように、谷間の闇に温かい光が散らばっている。秩序はない。ただそれぞれの家に、それぞれの暮らしがあり、夜が来たから灯りを点す。それだけのことだった。それだけのことが、おれの目にはひどく美しく映った。
この光の一つ一つが、禁忌だった。おれたちが処理の根拠とするもの。——だが今、おれの頭に浮かぶ言葉は「禁忌」ではなかった。
温もりだった。
レンネの声が耳の奥に残っていた。温もりが禁忌だなんて、おかしくないですか。おれは答えられなかった。今もまだ、答えを持っていない。だが教義の論理の隙間から、この光が差し込んでくる。均一で、揺らがず、温かい。
掌に残る感触があった。あの筒を持ったときの温かさ。子供の背筋に手を当てたときの、薄い布越しの体温。前歯が一本欠けた笑顔。
おれは今日、子供たちに聖騎士の型を教えた。なぜそうしたのか。頼まれたからか。身体が動いたからか。それとも——教えたかったからか。
答えは三つ目に近い気がした。それを教えている間、おれは聖騎士でも旅人でもなかった。ただ、知っていることを、知らない者に渡す人間だった。
——レンネと同じだ。
その気づきが、喉の奥に詰まった。
レンネは灯りが危ういものだと知った上で、子供たちに字を教え続けている。おれは聖騎士の身体を隠しながら、子供たちに型を教えた。動機は違う。立場は正反対だ。だが——知っていることを渡そうとする衝動は、同じ場所から来ている気がした。
星が増えていた。空にも、地上にも。
答えは、まだない。
だがレンネの問いが、訓練で教わったどの想定にもない場所に、おれを連れて行こうとしていた。温もりが禁忌だなんて、おかしくないですか。その問いは教義の論理では処理できない。なぜなら、それは論理の根の部分に触れているからだ。
おれはまだ、その根に触れることを恐れていた。だが今夜は——恐れていることを認めることができた。
部屋に戻ると、遺物の暖房がまだオレンジ色に光っていた。老婆はもう眠っている。
おれは寝台に腰を下ろし、手を見た。棒を握った手。子供の背筋に当てた手。遺物の温かさを感じた手。
この手で、やがて剣を握る。処理のために。
——いや。
その先の考えを、おれは止めた。止めなければ、今夜は眠れない。
目を閉じた。暗闇の中に、灯りの残像が浮かんでいた。均一で、温かく、揺らがない光。地上に落ちた星座。
おれは、あの光を美しいと思った。
それだけは——嘘ではなかった。




