↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
白い剣は折れない  作者: 蒼月よる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/12

第4話 旅人

 朝靄《あさもや》の中を、おれたちは丘を降りた。


 白い上衣を脱ぎ、無地の外套《がいとう》と使い込まれた革の鞄を身につける。胸の紋章は荷袋の底に包んである。たったそれだけのことで、おれの輪郭が変わった。剣を握るために鍛えた手が何も持っていない。旅人の手だ、とおれは自分に言い聞かせた。


 ドルクは商人のような格好をしていた。大柄な体躯《たいく》に、くたびれた旅装が意外なほど似合う。ヨルンとテッサは丘に残った。ハルスは別の道から、半刻《はんとき》遅れて集落に入る。


 集落への道は、畑の脇を通っていた。秋の終わりの畑は土が露出して、冬作の青い葉が疎《まば》らに揺れている。朝日が低い角度で土の表面を照らし、霜が銀色に光っていた。


 畑に人影があった。


 腰を屈めて何かをしている男——中年か、もう少し上か。日に焼けた肌と、節くれだった手。振り向いた顔に警戒の色はなかった。


「旅の方かい」


 ドルクが答えた。


「北の街道から来た。水をもらえるか」


「そりゃあ難儀だったろう。このあたりは宿場なんかないからな」


 男は畑の脇の水壺《みずつぼ》を持ってきて、杯に注いでくれた。


 ドルクが受け取り、一口飲んで、おれに渡した。冷たくて、澄んでいた。騎士団の本拠の水とは違う。土と草の匂いがする水だった。


「この先に集落がある。今夜の宿は見つかるかい」


「あてはないが」


「なら、ゲルダばあさんのとこに聞いてみな。広場の東、井戸のそばの家だ。息子が都に出て、部屋が空いてる。旅の者を泊めてくれることもある」


 男は畑に目を戻しながら教えてくれた。おれたちが何者かも聞かず、どこへ行くのかも尋ねず、水を注いで、宿を教えて、仕事に戻った。


 おれは聖騎士だ。処理班の騎士だ。この集落を調査し——。


 そこで思考を止めた。今は旅人だ。


 集落に入った。


 丘の上から見た景色が、目線の高さにあった。石積みと木の壁。乾いた土の道。犬が一匹、日なたに寝そべっていて、おれたちを見ても起き上がらなかった。


 集落の中央に小さな広場があった。井戸が一つ。その傍の長椅子に老人が二人座っている。


「旅の者です。畑のほうでゲルダさんという方の家を教えていただいて」


 老人は頷いた。


「ゲルダなら、そこだよ。戸口に干し草をかけてある家」


 ドルクが戸を叩いた。


 出てきたのは腰の曲がった老婆だった。白髪を後ろに束ね、顔には深い皺が刻まれている。だが目は濁っていなかった。


「旅の者だが。一晩、部屋を借りられないだろうか」


 ドルクの声は、任務のときよりもやわらかかった。


「息子の部屋なら空いてるよ。若い人には狭いかもしれないね」


「十分だ。ありがたい」


「食事は自分で用意するかい。うちの分なら少しは出せるけど」


「飯は持っている。場所だけで助かる」


 老婆——ゲルダは頷いて、戸口を開けた。


 中に入ると、土間の先に二部屋ほどの空間があった。小さな竈《かまど》に鍋がかかっている。壁に乾燥させた草束。生活の匂いがした。人が長い時間をかけて、同じ場所で暮らし続けた匂い。


 そして——奥の部屋に、あの光があった。


 窓辺に置かれた金属の筒。滑らかな表面に傷一つなく、周囲の木や石や土とはまるで質の違うものだった。その筒から、均一な温かい光が溢れていた。蜂蜜の色。脈動がない。昨夜、外から見たあの光。


 おれの視線に気づいて、ゲルダが振り返った。


「ああ、灯りかい。夜になるともう少し明るくなるよ。目が悪くなってきたもんで、これがないと針仕事もできなくてね」


 何でもないことのように言った。遺物だという意識がない。いや、遺物という概念自体が、この老婆にはないのだろう。これはただの灯りだ。針仕事を助けるもの。それだけだ。


 ドルクが奥の部屋を覗いた。寝台が一つ。毛布が畳んで置いてある。息子が出ていった後も、ゲルダが手入れをしているのだろう。埃はなかった。


「もう一人来る。連れだ。半刻もすれば着く」


「三人かい。狭いけど、まあなんとかなるだろう」


 ゲルダが笑った。歯が何本か欠けていたが、笑い方はあたたかかった。


 荷を置いて、おれは集落を歩いた。ドルクに「見てこい」とだけ言われた。


 どの家にも、暮らしがあった。報告書の中の「人口約百二十」という数字と、今おれの目の前にある景色は、同じものを指しているはずなのに、同じ重さを持っていなかった。


 家の裏手に回ると、老人が一人、壁に背をもたせて日なたに座っていた。その足元に——。


 小さな箱のような装置があった。金属製で、角が丸い。表面にオレンジ色の光が灯り、かすかな熱を出している。遺物の暖房だ。


 老人はその装置に両手をかざしていた。関節が腫れた、骨ばった手。開いたままの掌《てのひら》を、オレンジの光にゆっくりとかざしている。


 おれに気づいて、老人が顔を上げた。


「あんた、旅の人かい」


「はい」


「寒いだろう。こっちにおいで。これ、温かいよ」


 老人がおれに手招きをした。遺物の暖房の前に。


 おれは——一瞬、足が止まった。


 禁忌遺物だ。教義によれば、処理の対象。おれは聖騎士だ。


 だが今は旅人だ。旅人が、老人の好意を断る理由はない。


「ありがとうございます」


 おれは老人の隣に腰を下ろした。装置からの熱はやわらかく、じわりと手のひらに染み込んだ。


「冬がつらくてね。この年になると、手が動かん。でもこいつがあるとなんとかなる。婆さんの代からずっとあるんだ」


 老人は目を細めていた。温もりの中にいる人間の顔だった。


 集会所のそばを通ったとき、中から声が聞こえた。昨夜、茂みから聞いた子供たちの声。昼間は窓が開いていて、はっきりと聞き取れた。


「はい、じゃあ次。この字は何て読むかな」


 女の声。明るくて柔らかい。一緒に考えようとする声。


「えっと……『み』?」


「おしい!よく見て。ここの線がちょっと違うでしょ。これは『ま』。『み』と似てるけどね」


「あー、そっかー」


「じゃあ『ま』を使った言葉、何かある?」


「まめ!」


「そう!豆。いいね。他には?」


「まくら!」


「まど!」


 声が次々に重なった。子供たちが競うように言葉を出していく。その声は弾んでいて、夢中になっている人間の声だった。


 おれは窓の外に立って、中を見た。


 十人ほどの子供が木の椅子に座っていた。前に立っているのが、あの声の主だった。


 レンネ。報告書で読んだ名前。教師。二十代前半。


 質素な身なりだった。だが粉筆《ふんぴつ》を石板に走らせる動きには迷いがなく、子供たちの顔を一人ずつ見る目は穏やかでまっすぐだった。


 教室の天井近くに、金属の筒が二本、横木に括りつけてあった。遺物の灯り。昼間だから光は薄いが、均一な温かい色が教室を満たしている。窓のない壁側の席にも光が届いていた。


「先生、この灯りってなんで揺れないの?」


 子供の一人が天井を見上げて言った。


 レンネが顔を上げ、灯りを見た。それからその子に向かって、少し首を傾げるようにして答えた。


「この灯りはね、おばあちゃんのおばあちゃんの頃からあるの。昔の人が作ったものなんだって。すごいよね、ずーっと光ってるんだよ」


「すごーい」


「おれんちにもあるよ!」


「あるある。うちにもある」


 子供たちが口々に言った。遺物の灯りは、この集落では特別なものではないのだ。禁忌でもなく、恐るべき遺産でもなく、ただ、ずっとそこにあるもの。


 レンネの目が、窓の外のおれを捉えた。やわらかく笑った。


「旅のかた? よかったらどうぞ、覗いていってください」


 子供たちが一斉にこちらを向いた。


「ねえ旅の人、どこから来たのー?」


「剣持ってる?」


 子供というのは容赦がない。おれは曖昧に笑って、「北のほうからだ」とだけ答えた。


 レンネが子供たちを宥《なだ》めて授業に戻した。文字を覚えること。数を数えること。それを照らす灯りがあること。一つ一つは小さな事実だ。だがそれらが積み重なって、教義にも報告書にも載っていない風景を作っている。


 広場に戻ると、ハルスが井戸のそばにいた。監察官の徽章を外し、地味な外套を身にまとっている。おれが見たとき、ハルスは井戸の縁に立つゲルダの隣にいた。


 ゲルダが縄を引いていた。桶を引き上げる重さに、老婆の腕が震えている。


「お手伝いしましょう」


 ハルスが穏やかに言って、縄を受け取った。桶を引き上げ、ゲルダの水甕《みずがめ》に注いでやる。


「ああ、すまないね。助かるよ」


「いえ、こちらこそ。宿を貸していただくのですから」


 ハルスは微笑んでいた。穏やかで、善意に満ちた顔。ゲルダがそれを疑う理由はどこにもない。


 ゲルダが水甕を抱えて家に戻っていった。


 ハルスはその背中を見送り——それから、外套の内側からメモ帳を取り出した。


 筆を走らせる。短い文。さきほどまでの柔和な微笑みはどこにもなかった。いや——消えたのではない。微笑みかける相手がいなくなっただけだ。


 メモ帳を閉じ、外套の内に戻す。顔を上げたとき、おれと目が合った。


「ああ、エルト。集落の様子はいかがですか」


「……平穏です。特に変わったことは」


「そうですか。住民は友好的ですね。旅人に慣れている印象です」


 ハルスの声は穏やかだった。——だがおれには、あのメモ帳に何が書かれたのかが想像できた。灯りの数。住民の態度。水汲みの合間に観察した全てが、あの几帳面な字で記録されている。


 老婆の水汲みを手伝い、感謝され、微笑みを返し——そしてメモを書く。


 悪意はない。悪意がないことが、おれには恐ろしかった。親切であることと職務を遂行することが、この男の中ではまったく矛盾していない。


 おれはゲルダの家に戻った。


 ドルクが戸口にいた。


 正確に言えば、戸口のそばに屈んでいた。手に何かを持っている。おれが近づくと、ドルクの大きな手が、戸の蝶番《ちょうつがい》に触れているのが見えた。


 蝶番の片方が錆びて、軸がずれていた。冬になれば隙間から冷気が這い込む。


 ドルクは荷物の中から小さな工具を出していた。錆びた軸を抜き、代わりの金具をあてがい、木槌《きづち》で静かに叩いている。手つきは手慣れていた。何度もやったことがあるような動きだった。


「班長」


「ん」


「それ……頼まれたんですか」


 ドルクは答えなかった。蝶番の軸を調整し、戸を開閉して動きを確かめている。二度、三度。滑らかに動くのを確認して、工具を仕舞った。


 頼まれていないのだ、とおれは理解した。


 ドルクは立ち上がり、手の錆を外套の裾で拭いた。何事もなかったかのように家の中に入っていく。


 処理班の班長が、処理対象の集落で、老婆の家の蝶番を直している。頼まれてもいないのに。


 その意味を、おれはまだ掴めなかった。だが昨夜、丘の南端で集落を見つめていたドルクの背中と、今の背中が、同じものであるような気はした。


 夕方になった。


 集落に灯りが点《とも》っていく。一つ、また一つ。魔石灯の脈動ではない、均一な温かい光が、窓という窓に灯る。丘の上から見た地上の星座が、今度はおれの目線の高さにあった。


 ゲルダの家でも、窓辺の金属筒が光を増した。蜂蜜色の光が部屋を満たす。ゲルダは灯りの下で針仕事を始めた。ゆっくりと布を繕っている。


 ドルクは隅で黙って干し肉を齧っていた。ハルスは壁際に座り、外套の内からメモ帳を取り出して何かを書いていた。おれはその両方を見ていた。


 外から子供の声が聞こえた。夜学が始まるのだろう。集会所の方向から、走る足音と笑い声。


「あの子たちはね、毎晩来るんだよ」


 ゲルダが言った。針から目を上げず、穏やかな声で。


「レンネ先生のとこに。字を覚えるのが楽しいんだってさ。うちの孫もね、前は通ってたんだけど。今は都に行っちまった。字が読めるようになったから、都で仕事が見つかったんだよ」


 レンネが教えた字。遺物の灯りの下で覚えた字。それがゲルダの孫を都へ送り出した。おれはその事実を、報告書のどの欄に書けばいいのかわからなかった。


「いい先生なんだ、あの子は。この集落の宝だよ」


 ゲルダの声に、誇りがあった。小さな、静かな誇り。


 おれは外に出た。


 夜気が冷たかった。丘の上から見た星と、集落の中から見上げる星は、違う空のように感じられた。


 集会所に近づいた。窓から光が漏れている。子供たちの影が壁に映っていた。


 しばらく壁に背をもたせて聞いていた。やがて子供たちが出てきた。小さな影が走り、笑い、夜の集落に散っていく。「またあしたねー」という声。


 最後にレンネが出てきた。石板を胸に抱えている。おれの姿を見て、少し驚き、それから笑った。


「ああ、昼間の旅のかた。まだいらしたんですね」


「ゲルダさんのところに泊めてもらっています」


「ゲルダおばあちゃんのとこ。よかった、いい人でしょう」


 レンネは石板を持ち替えて、少し首を傾げた。


「旅のかた、北から来られたんですよね。都のほうですか」


「……いえ、都ではないですが。北の街道沿いの町からです」


「そうですか」


 レンネの声がわずかに静かになった。昼間の、子供に話しかける明るさとは少し違う。何かを測っている声だった。


「前にね、都のかたが来たことがあるんです。この灯りのことを、いろいろ聞いていかれて」


 おれの胸の奥で、何かが冷たく動いた。


「どんな質問を」


「灯りがいつからあるかとか、いくつあるかとか。丁寧な人でしたよ。でも……なんだろう、聞きかたが少し変わっていて。お医者さんが病気のことを聞くみたいな感じ、っていうのかな」


 事前の監視員。処理班が派遣される前に、密偵が事前調査を行う。訓練で学んだ手順だ。


 レンネの前に来たのは、その密偵だったのだろう。


「あまり気にしないでくださいね」


 レンネは笑って話を変えようとした。だがおれは、その笑顔の奥に——ほんの一瞬だけ——別のものを見た気がした。不安ではない。もっと静かなもの。灯りのことを聞きに来る都の人間が何を意味するのか、薄々感じ取っている人間の顔。


 それでもレンネは灯りを使い続けている。それがどういう覚悟なのか——おれには、まだわからなかった。


「おやすみなさい。明日もいらっしゃるなら、子供たち喜びますよ。旅のお話、聞かせてもらえると」


「……おやすみなさい」


 レンネの背中が、集落の暗がりに消えていった。石板を抱え、遺物の灯りが点々と浮かぶ道を歩いていく。ただの教師だった。


 ゲルダの家に戻ると、ドルクが戸口に立っていた。直した蝶番に手をかけている。おれと目が合ったが、何も言わなかった。おれも何も言わなかった。


 部屋に入ると、ハルスはすでに毛布にくるまっていた。メモ帳は革の覆いに包まれ、荷袋の中に仕舞われている。あの中に、今日一日の全てが正確に記録されているのだろう。


 おれは毛布にくるまり、天井を見た。窓辺の遺物の灯りが、まだ光っていた。ゲルダの針仕事の音が、夜の静けさに溶けていく。


 温かい光だった。


 おれは目を閉じた。


 報告書に書くべきことは明確だ。遺物の組織的使用。住居、教育施設、公共の場での恒常的な利用。処理の根拠として十分。


 だが報告書に書けないものがある。老人の掌の温もり。子供の声。「おばあちゃんのおばあちゃんの頃からある」という言葉の重さ。ゲルダの針仕事を照らす光。レンネの石板。


 その二つの間に、おれは立っている。


 聖騎士として来た。旅人のふりをしている。どちらがおれの本当の顔なのかと問われたら——今日この一日に限って言えば、旅人の顔のほうが、よほど自然だった。


 それがどれほど危うい感覚であるかは、わかっていた。わかっていて、振り払えなかった。


 おれは浅い眠りの縁で、あの老人の手を思い出していた。関節が腫れた、骨ばった手。オレンジの光にかざされた掌。


 あの手が冷えるとき、おれは何を思うのだろう。


 ——答えは出なかった。まだ出なくていい。おれは今日、旅人だった。明日もたぶん、旅人だ。だがいつか旅人でなくなる日が来る。紋章を胸に戻し、剣を手に取り、聖騎士としてこの集落の前に立つ日が。


 そのとき、おれは何を選ぶのか。


 遺物の灯りが、おれの閉じた瞼《まぶた》の裏を、やわらかく照らしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。