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白い剣は折れない  作者: 蒼月よる


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3/12

第3話 ラステン

 四日目の昼過ぎ、おれたちは丘の上に立った。


 街道はとうに途切れていた。最後の宿場を過ぎてからは獣道と言っていい細い踏み跡が続いていて、それすらも草に呑まれかけている。石畳の街道を行軍の列で進んでいた一日目が遠い昔のように思えた。辺境という言葉の意味を、おれは足の裏で理解した。靴底に乾いた土の感触。風に混じる草と土の匂い。騎士団の本拠にいた頃には嗅いだことのない、人の手が届いていない土地の匂いだ。


 丘の頂から見下ろすと、浅い谷間にその集落はあった。


 ラステン。


 三十軒ほどの家屋が、傾斜に沿って不揃いに並んでいる。壁は石積みと木の組み合わせで、屋根は棘鱗《とげうろこ》か薄い石板を葺《ふ》いたものが多い。中央に少し大きな建物があり、その隣に井戸が見える。畑は集落の東と南に広がっていて、秋の収穫を終えた後らしく、土が黒く剥き出しになっている区画と、冬作の青い葉がまばらに覗く区画が交互に並んでいた。


 煙が三筋、四筋。夕餉《ゆうげ》にはまだ早い時間だったが、竈《かまど》の火を落としていない家があるのだろう。薄い灰色の煙が風に流されて、谷の空気に溶けていく。畑の脇には痩せた牛が二頭、柵の中で草を食んでいた。角が長い。遺伝子操作の名残だと教本で読んだことがある——もっとも、この集落の住人にとっては、牛とはそういうものなのだろう。


 どこかで子供の声がした。


 甲高い笑い声が二つ、三つ。追いかけっこでもしているのか、声が左から右へ動いていく。その声は風に乗って丘の上まで届き、おれの耳のどこか深いところに触れた。


「いい場所だな」


 ヨルンが言った。何気ない口調だった。荒野を四日歩いてきた者が、人の営みを見て漏らす素朴な感想。おれも同じことを思っていた。


 ドルクは何も言わなかった。


 班長は丘の頂に立ったまま、集落を見下ろしていた。腕を組むでもなく、手を庇《かざ》すでもなく、ただ立っている。表情はいつもと変わらない。岩を削り出したような顔に、感情の色はない。


 だがおれは気づいていた。ドルクの視線が動かないことに。


 偵察であれば、目は動く。出入口の位置、高台の有無、退路の確保——処理班の班長であれば、最初に確認すべきことがいくつもある。訓練で叩き込まれた手順だ。だがドルクの目はそのどれも追っていなかった。集落の全体を、ただ見つめていた。煙と屋根と畑と、子供の声が響く谷間の空気を、まるごと視界に収めるように。


 おれにはその目の意味がわからなかった。


「班長」


 ハルスが静かに声をかけた。


「日没まで二刻《ふたとき》ほどあります。このまま偵察に移りましょう」


 ドルクが頷いた。短く、一度。視線が動き、いつもの班長の目に戻った。


「ヨルン、テッサ。荷を降ろせ。野営はここでいい」


「了解」


 ヨルンとテッサが手際よく装備を降ろし始める。おれも外套《がいとう》の留め具を外しながら、丘の斜面に目をやった。ここからなら集落の動きが一望できる。同時に、谷間からはこの丘の茂みは見えにくい。偵察の拠点としては申し分なかった。


「エルト」


 ドルクの声。振り向くと、班長はすでに丘の南斜面に向かって歩き出していた。


「来い」


 おれは外套を置いて、その背中を追った。


 丘を降りると、空気が変わった。谷の底に近づくにつれて、風が弱まり、代わりに土と草の湿った匂いが濃くなる。どこかで山羊が鳴いた。人の暮らしの匂いだ、とおれは思った。煙と家畜と、耕された土。騎士団の本拠にはない匂い。あそこにあるのは石と金属と魔石灯の無機質な清潔さだけだ。


 集落の南東へ回り込む。低い灌木《かんぼく》の間を縫うように進み、畑の端から百歩ほど離れた茂みに身を潜めた。ここからは集落の南側の家屋が正面に見える。


 夕方の光が傾いて、窓という窓が黄金色に染まっていた。


 だが——おれはすぐに気づいた。


 その光が、おかしい。


 魔石灯《ましゃくとう》の光は知っている。騎士団の施設で毎日見てきた。魔石灯の光には脈がある。ナノマシンの反応が安定しないせいだと教わった。わずかに明滅し、息をするように揺れる。炎とは違う揺れ方——生き物の呼吸に近い、あの独特の脈動。


 窓から漏れる光には、その脈がなかった。


 均一だった。揺らがず、途切れず、まるで液体を流し込んだようにひとつの窓を同じ濃さで満たしている。色も違う。魔石灯の青白さではなく、もっと温かい、蜂蜜を陽にかざしたような色。


 遺物の灯り。


 報告書に書かれていたものだ。旧文明の金属筒が発する光。おれは実物を見たことがなかった。教本の記述は淡々としていて——「旧文明期の照明器具。均一な光を発する。禁忌遺物の一種」。それだけだった。


 だが実物は、教本に書かれていたものとは違った。


 違う、と言うのは正確ではない。記述は正しい。均一な光を発している。ただ、教本には書かれていなかったことがある。その光が温かく見えるということ。窓の向こうに暮らしがあると、見た瞬間にわかるということ。


 隣の家にも、その隣にも、同じ光が点《とも》っていた。集落の南側だけで、五つ、六つ。おそらく北側にも。


 組織的な遺物使用。報告書の文言が頭をよぎった。


「班長」


「ああ。見えている」


 ドルクの声には感情がなかった。事実の確認。おれたちは偵察に来ている。偵察とは、事実を集める行為だ。


 おれたちは集落の外周を半周した。北側に回ると、中央の大きな建物——集会所らしい——の中から声が漏れていた。


 子供たちの声だった。


 丘の上で聞いた追いかけっこの声とは違う。もっと穏やかで、何かに集中している声。時折、一つの声が高く上がる。質問だ。それに答える落ち着いた声——大人の、女の声。


 笑い声が弾けた。


 何人かの子供が一斉に笑い、それにつられるように別の子供も笑い、やがて大人の声も笑っていた。集会所の窓にも、あの均一な温かい光が見えた。遺物の灯りの中で、子供たちが学んでいる。読み書きか、算術か。


 レンネ。


 報告書にあった名前を、おれは思い出していた。教師。子供たちに読み書きと算術を教えている、二十代前半の女。ラステンには正式な教育者はこの一人しかいない。そしてこの女が、遺物の灯りを使って夜学を開いている。昼は畑仕事を手伝い、日が暮れてから子供たちを集めて教える。報告書にはそう記されていた。事実の羅列。それだけのはずだった。


 笑い声がまた上がった。今度は大人の声が先だった。何かおかしなことを言ったのだろう。子供たちが口々に声を上げ、集会所の空気が弾んでいるのが壁越しに伝わってきた。


 おれは——。


 おれは、その笑い声を聞きながら、自分の中に奇妙な感覚が生まれるのを感じていた。それが何であるかは、そのときのおれにはわからなかった。訓練で教わった感情の分類には当てはまらない。敵意でも、警戒でも、憐憫《れんびん》でもない。ただ胸の奥に、小さな棘《とげ》のようなものが刺さった感覚があった。


 痛みではない。だが、抜けない。


 処理班の騎士として、おれはここに来た。禁忌に触れた集落を調査し、必要であれば排除する。それが聖騎士の務めだ。神罰を防ぐために。数千人が死ぬのを防ぐために、百二十人を——。訓練で何度も聞いた論理だ。数の問題だ。正しい計算だ。


 だが計算の中に、あの笑い声は入っていなかった。


「戻るぞ」


 ドルクの声で我に返った。班長はすでに踵《きびす》を返していた。おれは最後にもう一度だけ集会所の窓を見て、それから班長の背中を追った。


 丘の野営地に戻ると、ヨルンが火を熾《おこ》していた。炎は小さく、煙が上がらないよう湿った枝を避けている。テッサが干し肉を薄く切り分けていた。


 ハルスは少し離れた場所に座り、メモ帳に何かを書いていた。おれたちの姿を認めると、筆を止めて立ち上がった。


「お帰りなさい。偵察の結果を伺えますか」


 ドルクが腰を下ろし、水筒の蓋を開けた。一口飲んで、蓋を閉める。


「南側の家屋。窓に遺物の灯りを確認。六軒。北側は集会所を含めて四軒以上」


「集会所では」


「子供が集まっていた。夜学だろう。灯りは遺物」


 ハルスが頷き、メモ帳に書き加えた。丁寧な所作だった。筆の運びに迷いがない。


「住居への遺物の設置。教育施設での組織的な使用。灯りの数と分布から見て、集落全体で遺物の存在を認知し、共有していると判断できます」


 淡々とした声。穏やかで、柔和で、事実だけを述べている。ハルスの声にはいつも感情の波がない。それは冷たいのではなく、そもそも波を立てる必要がないのだ。規定があり、事実がある。二つを照らし合わせれば、結論は自ずと出る。ハルスにとってはそれだけのことなのだろう。


「処理に十分な違反です」


 ハルスはそう言った。


 火の傍で干し肉を噛んでいたヨルンの手が、一瞬止まった。テッサは顔を上げなかった。


「明日から潜入調査に移ります。旅人としての装いは整えてありますね」


「ああ」


 ドルクの返答。短い。いつも通りだ。


「では、具体的な段取りは明朝に。今夜はお休みください」


 ハルスは小さく頭を下げ、自分の荷物のところへ戻った。メモ帳を革の覆いに包み、荷袋に仕舞う。几帳面な手つきだった。あのメモ帳には、おれたちの報告した事実が正確に記録されている。ドルクの報告書とは別に、監察官の記録として本部に提出される。


 それが何を意味するのか、おれにはまだ実感がなかった。ただ、ハルスがメモ帳を仕舞う手つきが、妙に記憶に残った。


 火が小さくなっていた。ヨルンが枝を一本くべる。乾いた音がして、炎が揺れた。


「処理か」


 ヨルンが呟いた。誰に言ったわけでもない。火を見つめたまま、干し肉の残りを口に入れる。


 テッサが立ち上がり、毛布を取りに行った。何も言わなかった。


 ドルクは水筒を地面に置き、外套を肩に掛けた。


「交代で見張る。おれが先だ。エルト、二番。ヨルン、三番」


「了解です」


「了解」


 それだけだった。


 おれは毛布にくるまり、目を閉じた。体は疲れていた。四日間の行軍で足は重く、背中の筋が張っている。眠れるはずだった。体が求めている。


 眠れなかった。


 目を閉じると、あの光が見えた。窓に灯る、揺らがない、温かい光。蜂蜜の色。魔石灯とは違う光。教本に載っていたはずの——ただの禁忌遺物の光。


 それから、笑い声が聞こえた。


 実際に聞こえているのではない。丘の野営地と集落の間には距離がある。集会所の声がここまで届くはずがなかった。だが耳の奥で、子供たちの笑い声が繰り返されていた。何度も、何度も。質問の声。答える声。それからあの、弾けるような笑い。


 おれは目を開けた。


 星が出ていた。秋の空は高く澄んでいて、星の数が騎士団の本拠で見るよりもずっと多い。辺境の空とはこういうものなのかと、場違いなことを思った。


 体を起こすと、火は燃え尽きかけていた。赤い熾《おき》が地面に淡く映っている。ヨルンとテッサは毛布の中で動かない。ハルスも静かに寝息を立てている。


 ドルクの姿が見えなかった。


 見張りの位置——丘の頂に近い岩の陰——にもいない。おれは立ち上がり、足音を殺して丘の稜線を辿った。


 班長は、丘の南端にいた。


 集落が見える位置。昼間、おれたちが最初に立った場所だ。ドルクは立ったまま、眼下のラステンを見つめていた。腕を組むでもなく、ただ立って、見ている。


 集落の窓に、まだ灯りが残っていた。夜更けだというのに、いくつかの家では遺物の光が消えていない。均一で温かい光が、闇の中に小さな星のように浮かんでいる。地上に落ちた星座のように——そんな言葉が頭をよぎって、おれは自分に驚いた。処理班の騎士が、処理対象の集落を見てそんなことを思うべきではない。


 ドルクの横顔は暗くて読めなかった。だがその姿勢が、昼間と同じだということには気づいた。偵察の目ではない。戦術の確認でもない。ただ、見ている。


 おれは声をかけなかった。


 なぜかけなかったのかは、自分でもわからない。班長に報告すべきことがあったわけでもない。ただ、あの背中に声をかけてはいけない気がした。今このとき、ドルクが見ているものは、おれには見えないものだと——そんな直感があった。


 ドルクは処理班の班長を十五年以上務めている。何度の処理を見てきたのだろう。何度、こうして集落を見下ろしたのだろう。その目に映っているのは、今のラステンだけなのか。それとも——。


 おれにはわからなかった。おれはまだ、処理を一度も経験していない。


 おれは音を立てずに元の場所へ戻り、毛布にくるまった。


 笑い声が、まだ耳の奥にあった。


 おれは神に祈ろうとした。いつものように。訓練生の頃から、眠れぬ夜には祈った。神よ、お導きを。正しき道を照らしたまえ。言葉は口の中で形を結び——だが今夜は、その言葉が胸の奥まで届かなかった。


 祈りの言葉と、子供たちの笑い声が、同じ場所で重なっている。どちらも消えない。どちらも、おれの内側に、等しい重さで座っている。


 おれは祈りの言葉を途中でやめた。


 代わりに、目を閉じたまま、集会所の窓に灯っていた光のことを思い出した。均一で、揺らがず、温かい光。あの光の下で子供たちが文字を学んでいた。あの光は旧文明の遺物で、禁忌で、処理の根拠で——。


 そこまで考えて、思考が止まった。


 止まったのではない。正確には、次の言葉が出てこなかった。「処理の根拠で」の先に続くべき言葉——「だから正しい」とか「だから排除すべきだ」とか、訓練で教わった結論が、今夜は喉のどこかで詰まっていた。


 飲み込むこともできず、吐き出すこともできず。


 ただ、あの光のことだけを考えながら、おれはいつの間にか浅い眠りに落ちていった。明日からおれたちは旅人になる。この集落に足を踏み入れ、人々の顔を見、声を聞き、暮らしに触れる。そしてその全てを、処理の判断材料として報告する。


 それが任務だ。おれは聖騎士だ。


 ——だが今夜は、あの笑い声が、耳の底から離れなかった。


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