第7話 紋章の重さ
朝、ドルクに呼ばれた。
集落の外れ、畑と樹海の境にある石塀のところだ。昨日と同じ場所。朝靄が谷の底に溜まっていて、ラステンの家々が白い霞の中に沈んでいた。
ドルクは石塀に腰を下ろしていた。表情はいつもと変わらない。変わらないことが——昨日の告白の後では、むしろ異様だった。七年間、四百人の命を秘密の中に隠してきた男の顔が、朝の粥を食い終えた男の顔と何も変わらないのだ。
「ハルスが査定を出した」
短かった。ドルクの言葉はいつも短いが、今朝の短さには刃があった。
「正式な査定報告。結論は——処理を推奨」
おれは黙って立っていた。朝靄が顔に触れる。冷たくて、かすかに土の匂いがした。
「おれが連署した」
その一言が、地面に落ちた。
「……拒否は」
「できない。拒否すれば七年間の全てが露見する。ハルスが調べる。そうなれば四つの集落、四百人が遡って洗い直される」
ドルクの声に感情はなかった。事実を並べているだけだった。だがその事実の一つ一つが、昨夜おれに打ち明けた秘密の重みを背負っている。連署しなければ、過去に救った四百人が危うくなる。連署すれば、目の前の百二十人を差し出すことになる。
「執行期限は」
「四十八時間。今朝の時点で有効だ」
四十八時間。二日。明後日の朝には、ラステンは——。
ドルクが立ち上がった。石塀の埃を外套の裾で払う。
「昨日言ったことは変わらない。選択肢がある。だが今回は、おれにはできない」
おれを見た。目の奥に何かがあった。だが表情は動かなかった。
「おまえは——おまえで考えろ」
それだけ言って、ドルクは集落のほうへ歩いていった。大きな背中が朝靄の中に溶けていく。
おれは石塀に残された。
四十八時間。その数字が頭の中で反響していた。この集落の百二十人の命が、書類の上で確定された。ハルスの査定とドルクの連署で。あとは執行を待つだけだ。
胸に手を当てた。旅装の下に、紋章が硬い感触を返してきた。荷袋の底に包んであるはずなのに——いつからだろう、朝起きると無意識に胸の位置を探る癖がついていた。そこに紋章があることを確かめるように。あるいは、ないことを確かめるように。
おれは集落に戻った。
朝靄が薄れ始めていた。煙突から朝餉の煙が細く上がっている。犬が道端で伸びをしていた。何も変わっていない。昨日と同じ朝だった。ラステンの人間は誰も知らない。四十八時間という期限を。
集落の東端に、薪小屋があった。その前で老人がひとり、斧を振っていた。昨日、遺物の暖房で手を温めていたあの老人だ。関節の腫れた手で斧の柄を握り、頭の上まで持ち上げて、振り下ろす。丸太に刃が食い込む。だが割れない。老人の腕では、斧の重みを十分に乗せられていない。
もう一度振り上げる。額に汗が浮いている。三度目。丸太が少し割れた。だがまだ繋がっている。
おれは——立ち止まっていた。
任務とは関係がない。調査すべきことは何もない。ただ、老人の手が震えているのが見えた。あの手だ。オレンジ色の光にかざされていた、腫れた指の手。
「手伝います」
口が先に動いた。
老人が顔を上げた。おれを見て、少し目を丸くして、それから笑った。
「おお、あんたか。昨日の。いいのかい、旅の途中だろう」
「身体を動かしたかっただけです」
嘘だ。おれは手伝いたくて手伝った。四十八時間後に処理される集落の老人の、薪割りを。
斧を受け取った。柄は使い込まれて滑らかだった。足を開き、腰を落とし、斧を頭上に持ち上げる。重さを殺さずに、そのまま振り下ろす。
丸太が真ん中から割れた。
次の丸太を台に乗せた。振り下ろす。割れる。次。また割れる。薪割りの音が朝の集落に響いた。乾いた、小気味いい音だ。一つ割るたびに、頭の中の四十八時間が遠くなる。いや——手を動かしている間は、考えなくて済むだけだ。
「ありがたいねぇ。冬の備えがなかなか進まなくてな。この手じゃ、一日に十本がやっとだ」
老人は割れた薪を拾い集めて、小屋の軒下に積んでいた。丁寧に、一本ずつ。何十年も繰り返してきた手つきだった。
——この薪は、誰が使うのだろう。
四十八時間後にこの集落が処理されたら、この薪を焚く人間はいなくなる。おれが今割っている木は、誰の暖を取ることもなく積まれたままになる。
斧を振った。考えるな。振った。割れた。
三十本を超えたあたりで、老人が「もういい、もういい」と手を振った。
「こんなに割ってもらって。昼に粥を炊くから食べていきなさい」
断ろうとした。だが老人の笑顔を見て、おれは頷いていた。
薪小屋を後にして、広場に向かった。井戸のそばにゲルダがいた。縄に手をかけているが、桶を引き上げる力が足りないらしく、腕を何度か引いては休んでいる。
「おれがやります」
また口が先に動いた。
縄を掴んだ。桶を引き上げ、ゲルダの水甕に注いだ。もう一度桶を降ろし、引き上げ、注いだ。
「助かるよ。昔はね、息子がやってくれたんだけど」
ゲルダは水甕を抱えて、ゆっくりと家のほうへ歩き出した。腰の曲がった、小さな背中。
——四十八時間後に、この背中はどうなる。
おれは井戸の縁に手をついたまま、しばらく動けなかった。
自分が何をしているのか、頭ではわかっていた。処理対象の集落で、処理対象の人間の手伝いをしている。薪を割り、水を汲んでいる。調査でも偵察でもない。ただ——手伝っている。
身体が勝手に動いたのだと言いたかった。だがそれは嘘だ。おれは手伝いたくて手伝った。斧を受け取り、縄を掴んだ。自分から。目の前にいる人間が困っていたから、手を伸ばした。
そのことの意味に、身体のほうが先に気づいている。頭がまだ追いついていないだけだ。処理対象を「手伝う」ということは、処理対象を「人間として扱う」ということだ。人間として扱えば、殺せなくなる。
——おれはもう、この集落を処理できない。
その認識が、胸の底に落ちた。重く、冷たく、動かしがたい塊として。だが認識と選択は違う。できないと知ることと、しないと決めることは違う。おれはまだ何も決めていない。
集会所の前を通りかかると、中から物音が聞こえた。椅子を動かす音と、石板を重ねる音。覗くと、レンネがいた。
教室の準備をしていた。椅子を一つずつ並べ直している。子供の体格に合わせて、高さの違う椅子を席ごとに配る。石板を拭き、粉筆を揃える。教室の壁に立てかけられた新しい石板に、おれの目が吸い寄せられた。
算術の問題だ。リンゴが三つと二つで、いくつ。羊が五匹いて、二匹が帰ると、何匹。
「今日は算術なんです」
レンネが言った。声が少し弾んでいた。
「子供たち、算術のほうが好きなんですよ。昨日の帰り際に『明日は算術だよ』って言ったら、みんな『やったー』って。ミーネなんか、家で問題を考えてくるって言ってたんですよ」
ミーネ。あの女の子だろうか。棒を持って、「やっぱり騎士でしょ」と言った子。
レンネは石板に向かって、もう一問書き加えた。粉筆の音が教室に響く。丁寧な字。子供が読みやすいように、大きく、はっきりと。
「算術は、答えが出るとすぐにわかるでしょう。『できた!』って顔をするんですよ、みんな」
この人は、明日の授業の準備をしている。四十八時間後のことを、知らない。子供たちが算術を楽しみにしていること。ミーネが家で問題を考えてくること。その全てが、四十八時間の先にある世界を前提にしている。明日がある。明後日がある。来週も。レンネはそう信じて、石板に数字を書いている。
「すみません、つい長話しちゃって」
「いえ——いい先生ですね」
その言葉だけは、嘘ではなかった。
レンネが少し照れたように笑った。
「ありがとうございます。でも、私がいなくてもこの子たちは学びますよ。灯りがあるかぎり」
灯りがあるかぎり。
おれは教室を出た。
畑の脇を歩いた。井戸のそばを通り、石塀まで行って、引き返した。集落の中をぐるりと一周して、立ち止まった。
胸に手を当てた。
紋章。剣と盾が交差した白い紋様。荷袋の底から取り出して、旅装の裏側に縫い込んであった。布越しに、金属の輪郭を指先でなぞる。
この紋章を胸に留めたとき、おれは誇らしかった。正騎士に昇格した日。白い上衣に紋章を留め、鏡の前に立った。十二年間の訓練が報われた瞬間だった。
——紋章の重さは、あの日とは変わっていた。
同じ金属だ。同じ大きさ、同じ形。だが今おれの指が感じる重さは、あの日の誇らしさとは違う何かを含んでいた。
聖騎士団にはいくつかの道があった。
去った者がいた。名前は知らない。だが噂は聞いた。聖騎士団を離れた薬師がいると。制度の中に居場所を見出せず、外に出て、辺境で人を癒す道を選んだ者がいると。去ることで、自分の手を守った人間。
耐えた者がいた。こちらも名前は知らない。だが処理班に配属された日、教官が言った。「制度の中に留まり、従い続ける者がいる。疑うことなく。それもまた騎士の形だ」と。耐えることで、制度を支え続けた人間。
嘘をついた者がいた。ドルクだ。この名前は知っている。七年間。四つの集落。四百人。制度の中に留まりながら、制度を裏切り続けた。嘘をつくことで、手の届く範囲の命を拾い上げた人間。
三つの道が見えた。去ること。耐えること。嘘をつくこと。どれも——人間の選択だった。どれにも理由があり、代償があり、その人間にしか背負えない重さがあった。
だが——どれもおれのものではなかった。
去った薬師の覚悟は、おれにはない。あの人は自分の手で道を切り開いた。おれにはまだ、門の外に何があるのかさえ見えていない。耐えた騎士の強さも、おれにはない。おれはもう疑ってしまった。疑った人間が元に戻ることはできない。嘘をつく器用さも、おれにはない。ドルクは七年間、四百人分の嘘を完璧に積み上げた。おれの顔は嘘に向いていない。
ならば——おれの道は何だ。
答えはなかった。紋章から指を離した。金属の冷たさが、指先にしばらく残っていた。
日が傾き、夕餉を終え、ゲルダが針仕事を始めた頃、おれは外に出た。
夜のラステンは静かだった。遺物の灯りが窓に点っていた。蜂蜜色。揺れない光。集会所のほうから、子供たちが散っていくのが見えた。夜学が終わったのだ。「またあしたねー」という声。笑い声。暗い道を走っていく小さな影。
丘のほうへ歩いた。
ヨルンとテッサが野営している場所だ。二人は潜入には加わらず、丘の上で待機を続けている。焚き火が小さく燃えていた。ヨルンが火の前に座り、剣の手入れをしていた。布で刃を拭いている。規則正しい動き。テッサは少し離れた岩に腰を下ろして、毛布を肩にかけていた。
「エルト」
ヨルンが顔を上げた。焚き火の光が陰影をつけている。おれより二つ年上。寡黙だが任務に対する姿勢は揺るぎない。
「査定のことは聞いたか」
「……ああ」
「四十八時間だ」
ヨルンの声は平坦だった。報告する声。感情を挟まない、訓練で身につけた話し方。おれもかつてはそうだった。ラステンに来るまでは。
「処理の段取りは班長が決める。おれたちは指示に従うだけだ」
テッサが小さく頷いた。だが今夜の沈黙には、いつもとは少し違う重さがある気がした。
「ヨルン」
「ん」
「おまえは——迷わないのか」
言ってから、おれは自分の言葉に驚いた。聞くつもりはなかった。だが口が先に動いた。今日はそればかりだ。
ヨルンが剣を拭く手を止めた。
「何に迷う?」
「この集落は……子供もいる。老人もいる。遺物を使っているが、誰も害を成していない」
「害を成しているかどうかは、おれたちが決めることじゃない」
ヨルンの声は静かだったが、確かだった。
「閾値を超えている。ハルスの査定がそう結論した。おれたちの任務は、査定に基づいて処理を遂行すること。それだけだ」
「それだけ、か」
「百二十人と——」
ヨルンが焚き火を見つめた。炎が小さく揺れている。
「——神罰で死ぬ数千人。どちらが多い?」
正しい。
おれの中の、訓練を受けた部分がそう言った。百二十人の犠牲で、数千の命が守られる。禁忌を放置すれば、神の怒りが降る。それは教義だ。歴史が証明している。
正しかった。正しくて——おぞましかった。
正しさとおぞましさが同時に存在することを、訓練は教えてくれなかった。教義の中では正しさはつねに清潔で、迷いがなく、白い光のように明瞭だった。だが今おれの目の前にある正しさは、老人の薪と、子供の算術と、ゲルダの水甕を踏み潰すものだった。
「おれたちは聖騎士だ、エルト。迷うなとは言わない。だが迷った先で、答えは一つしかない」
ヨルンが剣を鞘に戻した。刃が金属の音を立てた。
「大神官様の命令は絶対だ」
その名が出た瞬間、ヨルンの声の質が変わった。信仰の声だ。おれもかつて——いや、今も持っているはずの、あの声。
「あの方はおれたちより遠くを見ておられる。おれたちには見えないものが、あの方には見えている。だから命令に従う。それが聖騎士だ」
——ヨルンは、おれの数日前の姿だった。
ラステンに来る前のおれは、ヨルンと同じことを言っただろう。同じ確信を持って、同じ声で。百二十人と数千人。どちらが多い。答えは明白だ。迷う必要がない。
だが今のおれは、その答えを口にできない。
「……そうだな」
おれが言ったのは、それだけだった。肯定でも否定でもない。ただ——ヨルンの言葉を、受け取ったという合図。
テッサがこちらを見ていた。焚き火の向こう側で、毛布に包まれた肩から上だけがぼんやり見えていた。その目は、ヨルンのように確信に満ちてはいなかった。
「明後日だ」
ヨルンが言った。
「それまでに、頭を整理しておけ。おまえは真面目だからな。考えすぎると動けなくなる」
「ああ」
おれは焚き火の傍を離れた。
丘を降りながら、ヨルンの言葉が頭の中で反芻されていた。百二十人と、神罰で死ぬ数千人。どちらが多い。大神官様の命令は絶対だ。あの方はおれたちより遠くを見ておられる。
正しい。正しい。——だが。
おれの足は、集落に向かって降りていた。灯りが見える。蜂蜜色の光が、いくつも。窓という窓に、遺物の灯りが灯っている。地上の星座。
その一つ一つに人間がいる。名前がある。顔がある。腫れた関節でオレンジの光に手をかざす老人がいる。粟の粥を作る老婆がいる。明日の算術を楽しみにしている子供がいる。石板に数字を書く教師がいる。
百二十人。その数字の中身を、おれは知ってしまった。
宿に戻ると、ゲルダはもう眠っていた。遺物の暖房がオレンジ色に光っている。その光の中で、おれは寝台に座った。
旅装の裏側に手を入れ、紋章を取り出した。
掌の上に乗せる。金属の冷たさ。剣と盾の紋様が、暖房の光を受けてオレンジに染まっている。白い紋章が、蜂蜜色に染まっている。
去った薬師。耐えた騎士。嘘をついた男。
三つの道。どれもおれのものではない。だが四つ目の道が何なのか、おれにはまだ見えない。見えないまま、四十八時間が減っていく。
紋章を握りしめた。金属の角が掌に食い込んだ。痛かった。その痛みだけが、今のおれに確かなものだった。
窓の外で、灯りが一つ消えた。誰かが眠りについたのだ。また一つ。また一つ。
ラステンの夜が、静かに沈んでいく。
おれは紋章を握ったまま、目を閉じた。




