波の音に耳を澄ませて
その日の夜は、いつにも増して寝付けなかった。
クラウディアの足は、自然とあの大きな岩場へと向いていた。
この前の新月と違い、空には三日月が昇っている。それでも月明かりはわずかで、まだまだ心もとない。
港に着いてぐるりと周りこむと、大岩のあたりに小さな明かりが見えた気がした。
(まさか――ね。人がいるはずがないわ。見間違いよ)
そう言い聞かせて歩き、岩場に足をかけた時だった。
「誰だ!」
「きゃっ!」
急に声をかけられたクラウディアは驚きのあまり手燭を落とし、体勢を崩してしまった。
海に落ちる――。
クラウディアは頭が真っ白になった。
その刹那、誰かが彼女の腕を掴んで、そのまま体を引き寄せた。
(誰?)
クラウディアの体はたくましい腕に抱きしめられ、その人の胸にすっぽり収まっていた。
「大丈夫か? 驚かせてしまったな。まさか、こんな時間にここにやってくる人間がいるとは思わなくてな」
クラウディアの頭に降り注いだのは優しい声だった。
(ああ、ユリウス様だったのね)
ユリウスの胸の鼓動が耳に響いて、クラウディアの心臓まで共鳴し始めた。
「すまない」
そう言って、ユリウスはクラウディアを体から離した。
「灯りがなくなってしまったな。不審者かと思い、私の灯りも消したんだ」
「そうでしたか……」
薄い月明かりの中、かろうじて見える岩に二人は並んで腰を掛けた。
「まさか、そなたがな。ここが一番波音が大きいのだ。だから誘い込まれたのかもしれないな」
「誘い込まれた……」
(私はそうかもしれないけれど。ユリウス様のような方が波音に誘われるなんてこと、あるのかしら?)
「ここは子どもの頃に見つけたのだ。幼い頃の私は癇癪持ちで、毎日、不満ばかりを口にしていた。どうにもできない悔しい思いも、ここに来ると波と一緒に打ち砕かれていく気がしてな……」
ユリウスの横顔がどこか悲しげだったせいか、クラウディアは何も言えなかった。
「――あれだ。昼間の件は――その。私の癇癪だと思ってくれたらいい。そなたには悪いことをした」
「そ、そんな」
「いいんだ」
ユリウスはそれっきり何も喋らなかった。そうして、二人して黙ったまま暗い海を見ていた。
月が雲に隠れると、あたり一面、漆黒の闇に包まれた。
突然、暗闇の中からゾフィーとメラニーの顔が浮かび上がってきて、「お前は幸せになんかなれないんだ!」と嘲笑った。
「……そなた。大丈夫か?」
クラウディアの顔色など、よく見えないはずなのに、ユリウスがいたわるように声をかけた。
急に隣に座っているユリウスの体温を感じて、クラウディアは焦った。
ゾフィーとメラニーの声が聞こえた時、もういっそ、このまま波に飲み込まれたら楽になるのかもしれないなどと、罰当たりな考えが頭をよぎったのだ。
そのことが恥ずかしくて、申し訳なくて、涙が溢れた。
「おい。本当に大丈夫か? まさか、そなた――ここから身を投じようなどと考えていたわけではあるまいな?」
「……!」
「……よい。答えずともよい。それよりも、耳を澄ませてみろ」
ザッパーン。……。ザッパーン。……。
クラウディアが言われた通りにすると、一定のリズムで激しく岩にぶつかり砕かれていく波の音が聞こえた。
昼間と同じ音のはずなのに、なぜか今は厳しさを感じる。
波は絶え間なく打ち寄せては砕け散っていく。
ユリウスも、クラウディアの隣で波音に耳を傾けていた。
「……あの。落ち着きました。もう大丈夫です」
「そうか」
ユリウスはクラウディアを見ずに、海の方を向いたまま言った。
「こうして波音を聞くだけで不思議と癒されるのだ。ここで考え事を――というか、自分に尋ねると、波と一緒に答えがかえってくる……」
「何となくわかる気がします」
クラウディアはそう応えて、改めて自分に問うた。
私は――私はどうしたいの?
何を悩んでいるの?
スザンナさんやニクラスさん。ネリーさんにアントン様。そして、このユリウス様。
他の皆さんも、みんなが励まし慰めてくれているのに。こんなにも優しい人たちに囲まれているのに。
何をうじうじと過去の嫌な出来事ばかり思い出しているのだろう。
そう自分を叱ると、亡き父の言葉が頭の中に蘇ってきた。
――よいかクラウディア。インスブルック家は、王族を、ひいてはこの国を支えるために存在しているのだ。こうして領地を与えられ交易事業を任されているのは、国王の信頼あってこそだ。決して忘れるでないぞ。領民はもとより国王の信頼を裏切るような真似は、絶対にしてはならない。
(……そうだった。なんで今まで忘れていたのかしら。お父様はあんなに口を酸っぱくしておっしゃっていたのに)
クラウディアが突然ものすごい勢いで首を回してユリウスを見たので、彼はビクッと体を震わせた。
「私、大切なことを思い出しました。決めました。ユリウス様のおっしゃった通りです。真実を暴き、汚名をそそぎます。私は罪を犯してなどおりません。無実の証を立てて国王の信頼を取り戻したいと思います。……その。どこまでやれるかわかりませんが、やれるだけやってみようと思います。出来ないと――思いますか?」
ユリウスは、「フッ」と小さく笑うと、クラウディアを見据えた。
「いや。出来るとも。私は間違ったことは正したい性分なのだ。グラーツ領こそ、その役目を担っていると言わせてもらおうか。ここグラーツ領は、不正を許さず正義の鉄槌を下すことを信条としているのだ。是非、協力させてほしい」
「きょ、協力なんて。そんな。もったいないです。何だか申し訳――」
「その先をいうことは許さんぞ。ふっ。決まりだな。もう泣くな」
「はい」
クラウディアよりも高いユリウスの体温が、心なしか心地よく感じられた。彼の温もりが徐々に浸透してきて、じわじわと心が温まっていく。
そう感じた瞬間、クラウディアは自分の体が燃え始めた気がした。
(な、何かしら。この気持ち。恥ずかしいような、嬉しいような……)
ユリウスは真っ暗な海を見て、波の音を黙って聞いている。
クラウディアは自分の体が火照ったことが恥ずかしくて、横を向けない。
口を開けば吐息が漏れそうで、何も言えず波音に集中するしかなかった。
ユリウスは、長い間思い出すことがなかった幼き日の亡き父との会話を思い出していた。
――どうしてですか父上? なぜ私たちが南の果ての地へ行くのです?
――よいか。グラーツ領は国防の要の地だ。だから行くのだ。インスブルック公爵が交易で国の財政を担うのと同じなのだ。我らが両輪となってこの国を支えるのだ。
――どうして父上なのです? ハイマン叔父上が行けばよいではないですか。私はどうなるのです? これまでの努力が全部、無駄になるではありませんか。
――努力が無駄になることなどない。泣くでない。
――父上なんか嫌いです!
「ふっ」
今度はクラウディアがビクリと反応した。
「いや。私も色々と思い出しただけだ。さあ戻るぞ。そなたは歩いてきたのだろう? 近くに馬を隠してある。一緒に帰ろう」
クラウディアは、これは反抗とは違うはずだと、正直な気持ちを打ち明けた。
「あの。私は、もう少しだけここにいたいです」
「そうか」
「はい」
「……足元は見えるとは思うが、気をつけて帰れよ」
「はい」
「……明日も早いんだろ。遅くならないようにな」
「はい」
「……では、先に帰る」
「はい」
ユリウスは、ほとんど飛び降りるように岩から降りると、振り返らずに走っていった。
少しして、遠くの方から馬のいななきが聞こえたが、じきに聞こえなくなった。
この世に、クラウディアと砕け散る波の音だけが残されたような気がした。




