第52話 サーマル・テラノの決意
「このように他者の精神の浸食を完全に受け切ってしまった者の、その浸食を完全に除去するのは非常に難しい。多少の浸食の場合は、その被害者の心に直接精神を合わせて、絡みついている他者の精神の襞のようなものを丁寧に解きほぐす方法をとるんだが。この手法は取り除く術者の精神も大いに疲弊させてしまうんだ。だが、ある程度以上まで精神を侵されているような場合、術者の補助者がその身体ごと被害者の心にダイブすることになる。」
「体ごと?」
「そう。精神だけでは体力と精神力の消耗が激しすぎて、被害者も術者も死を迎えてしまうことが多い。そのため、術者が魔法をかけた補助者がその身体ごと被害者の心に入って、その浸食している襞を丁寧に取り除く。こうすることによって、精神力も体力もある程度温存することが出来る。ただし、この場合補助者は、その被害者の心、正確にはその身体という器から帰ってきた例はないんだ。」
「つまりその術者は死ぬということか?」
「いや、生きている。その被害者の中で…。」
ディッセンドルフの言葉に、サーマルの身体は緊張した。
口の中が異常に乾いている。
「そんな術の解放は聞いたことがないんだけど。例が存在するということだね。」
「それについてはニシムロ卿が詳しいよ。」
ディッセンドルフの言葉に呼応するように、後ろの控えていたニシムロがその偉業ともいえる顔を出した。
ほほの傷がさらに酷くなったかのように見える。
これは聖痕というものだろうか?
「400年以上前の話だ。世にいう「悪魔狩り」のとき、ある夫婦がランス帝国のはずれ、ミラクルという貧しい村で生活していた。一応「神の言葉」教の教会を管理する立場だった。司祭だったと思うが、二人とも「言葉」持ちだった。
そのため、ランス帝国軍の兵士が二人のうち男のほうを「悪魔」と言い出した。
そう、不思議だよな、サーマル。二人とも「言葉」持ちにも関わらず、夫のほうだけを「悪魔」と決めつけたんだから。夫は帝国軍につかまり、まずは牢屋に押し込められた。強力な対魔法具を身につけさせられてな。
で、何故夫だけ連行され妻は連行されなかったのか?
簡単な話すなんだよ。その妻は、この世のヒトとは思えないほどの美貌を有していた。
帝国軍兵士たちはその妻にこう囁いたのさ。自分たちに特別なことを提供すれば夫を返すと。
ああ、本当に下らんな。下らなすぎる。だが、妻はそれに応じた。何人もの兵士に抱かれ、とてもじゃないが口にできないことまで強要されたらしい。そしてそのことが、牢屋の番人たちの下卑た冗談で夫の知ることになる。その夫はやせ細り、いつ死んでもおかしくない状態で、神に強烈な願いを送った。もっともその願いを受けたのは神ではなく、悪魔のような魔導士だったってことだ。
そう、その魔導士が夫の強烈な心の闇に侵入したのさ。
そこからは想像通り。その牢屋を持つ帝国軍の駐屯所は破壊され、そこにいた兵士すべてが残虐に殺された。その駐屯所から妻が犯され続けている教会の道すがら、出会う人は帝国兵のみならず、全く関係ない人々も惨殺された。
当然、妻を犯し、自分の一物を咥えさせていた兵士たちも、殺された。ただし楽には殺されなかったという話だ。魔術で生きながら、臓腑を切り裂かれ、魔獣たちを使い、生きながら食わされたと伝承には残っている。
だが、そのあと、完全に常軌を逸していた化け物となった夫は、自分の妻さえも殺そうとしたんだ。もう、心は完全に無くなっていたんだろうな。
そこにロメン法国から、異常な魔導力を察知した法王の命を受けた神聖騎士が到着し、すんでのところで妻を助け出した。だが、その化け物を殺そうとしたときに妻から哀願されたらしい。悪いのは帝国軍の兵士であって自分の夫ではない。助けてほしいとのことだった。
だがその神聖騎士には、魔導士のかけた強力な魔術は簡単に解くことが出来ない問いことが分かっていた。そう妻に言うと、こう答えたそうだ。
私は治癒の力を持つ「言葉」持ちです。私をこの体ごと夫の精神に送り込んでくれれば、必ずや夫を正気にさせます、と。
神聖騎士は妻の望みを聞いて、この化け物となった夫を動けないようにするため、魔法陣と、刻印、さらに物理的な対魔法用の術式を織り込んだ鎖で固定した。そして神聖騎士は、「言葉」持ちの妻に術をかけ、その夫の中、精神正解に送り込んだんだ。
結果だけ言えば、その浸食された心、支配をされた精神を操っていた他者の想念を取り除くことに成功した。実に10日以上の時間を費やした。当然のことながら何が起こるかわからない状態であったから、その神聖騎士もまた一切眠らず、食も取らずにその化け物の横で監視を続けていた。
ただ、送り込んだ神聖騎士にも、その精神に入り込んだ妻をとうとう救出させることはできなかった。だが、妻はその夫と同化したり、完全に消失せず、夫が亡くなるまでの間共にその夫と主に生きていたという。」
「その方たちは、どこで暮らしていたんですか?そのまま教会ですか?」
ニシムロの長い話の後、サーマルが尋ねた。
「いや、二人分の「言葉」を持つ人だ。魔導も強力になり、すぐにでもまたランス帝国軍が殺しに来る可能性があったのでね、ロメン法国で保護され、法国内のかなり上位の職責を任されていたはずだよ。二人は幸せだったが、そういう状態のため子を授かれぬことを一番悔やんでいた。」
その答えにサーマルは満足したようだ。そして笑顔でニシムロに向く。
「その神聖騎士とはニシムロ卿ですね。」
「まさか。400年前だぜ。生きているわけがない。」
「ニシムロ卿ですね。」
もう一度、強い語調でニシムロに聞く。
ニシムロは少し軽いため息をついた。
そしてそっぽ向いたまま、「そうだ」とぼそりと呟いた。
ディッセンドルフはサーマルの言葉に、強い意志を感じていた。
彼が何をするつもりかも十分理解していた。
少しの寂しさが込み上げてくる。
「それではニシムロ卿。お願いしたい。僕は【言霊】持ちではないですが、治癒についてもある程度の魔術は使えます。どのくらいかかるかわかりませんが、サーシャにかかっている魔術を解きます。」
「さっきの話を聞いていたのか、坊主。帰ってこられないんだぞ。さっきは夫婦の話だから、まだ俺も納得できたが、お前たちは付き合ってもいない。っていうか、お前を散々いたぶった女だろうが!」
興奮して、大きな声を出すニシムロに対して、サーマルは涼しい顔でその言葉を聞き流した。
「そうですね。ただの後輩ですよ、彼女は。でも、僕は彼女を救いたいと思った。それだけです。」
ニシムロは困惑の表情を浮かべてディッセンドルフにその視線を向けた。
だが、ディッセンドルフは微かに首を横に振るだけだった。
それが、サーマルの好きなようにさせてやれ、という意味であることは理解できるのだが…。
「本当にいいのかよ、大将。お前さんの親友がいなくなっちまうんだぜ!」
「いなくはならない。サーシャネル・ハーマスの中で、共に生きるんだろう、ニシムロ卿。」
「いや、確かに、そうなんだが……。」
躊躇するニシムロに、ディッセンドルフが入れ替わるようにサーマルの前に立つ。
「ニシムロ卿が出来ないというのであれば、俺がやる。たぶんできると思う。」
「大将はそんな術を行ったことがあるのか?」
「いや、ない。」
きっぱりとした否定の言葉が返ったきた。
ニシムロは天を仰ぎ、目をつぶった。
そして、その顔を、強力な決意をした瞳をサーマルに向けた。
「わかった。俺がやるよ。大将には任せられん。こういうことは経験者のほうが間違いない。」
ニシムロの言葉に、ディッセンドルフとサーマルが微笑んだ。
「今回は、前のときと違ってバケモンになってるわけじゃない。固定するための用具なんかはいらんだろう。サーマル、お前さんがどこまで出来るか解らんが、この女を助けたいという気持ちが本当なら、必ずやり方はわかるはずだ。健闘を祈るぞ。ただし、失敗したとこちらが判断したら、サーマル、お前さんごとこの少女を消し去る。そのつもりで。」
「了解した、ニシムロ卿。お願いする。」
そういった後、サーマルがディッセンドルフに顔を向けた。
「ディッセンドルフ、悪いんだが、俺の出身地であるクラチモ村を救うことが出来なくなりそうだ。後を頼めるだろうか?」
「ああ。大丈夫だ。今、ちょっとした考えがある。この件が片付いたら動く気でいるから、心配するな。」
「さすがは「神の子」だな。よろしくお願いするよ。」
そういうと、ニシムロに顔を向けた。
「では、その蹲っている少女の背中あたりにでも手を添えてくれ。そして、「絶対に救う」という思いを強く持て。」
ニシムロがそう言うと、サーマルはサーシャの後ろに移動して、そっと右手をサーシャの背中に置いた。
微かにサーシャの体が震えたのが分かる。
ニシムロはまた大きくため息をつくと、手で印を作り、小さく呟いた。
すると一気にサーマルの身体が小さくなり、そのまま見えなくなった。
「あとは、あの坊主の頑張り次第だ。」
ニシムロはディッセンドルフに振り向くと、そう言葉を投げかけた。
「大丈夫さ。サーマルなら絶対やり切れる。」
そこは全く問題にしていなかった。
急に視界が暗くなった。
前も後ろも、右も左も、上も下も、全くわからない闇が広がっている。
サーマルは自分の魔導力を最大で動かし、何かがないか探し始めた。
それを捕まえない限り、何もできない。
微かに泣き声が聞こえる。サーマルはその方向に意識を集中する。
いきなり光の筋が見えた。
それは非常にか細く感じられた。
その近くまで行ってみる。
そこには非常に小さな穴があった。
そこから光が漏れているらしい。
泣き声も、そして悲しい孤独感もまた、サーマルに伝わってきた。
唐突にここがサーシャネル・ハーマスの心の中であることに気づいた。
もともとそこを目指してニシムロガ送り込んでくれたのだが、あまりの闇の大きさに、自分すらも見失いそうになっていたのだ。
自分の身体も認識できなかったが、そのかすかな光に意識を向けた。
しばらく自分の身体をその光に触れさせようとしたが、うまくいかなかった。
自分の手が、足がどこにあるかわからないのだから、当然ではあった。
サーマルは自分の力を右手人差し指に集中させ、光をともすイメージを組み立てる。
それはうまくいった。
自分の右手、指が分かる。
その人差し指に光が灯る。
この闇は、すべての光を吸いこもうとしている意思をこの時感じた。
これほどまでの悪意がサーシャを蝕んでいることに戦慄した。
学生会議役員室でのサーシャネルの独白は、サーマルにとって衝撃的ではあったが、この闇に覆われた世界がサーシャのものであるならば、それも納得できてしまうほどだ。
だが、サーマルがやるべきことは、この闇をサーシャの心から全て剝がし取ることにある。
微かに光る人差し指を、その非常に小さい穴に向け伸ばす。
そしてその穴に人差し指の先の爪をひっかけた。
あまり抵抗なく、その穴から一直線にひっかく。
あっさりとその闇の部分が薄いフィルムのように切れ、捲り上がり、先ほどよりも多い光が広がった。
「これならいける。」
サーマルは一人納得し、胸を押しつぶしそうになっていたプレッシャーが少し緩んだと感じていた。




