第51話 サーマル・テラノの苦悩
苦痛に蠢きながら、サーマルはこの時を待っていた。
ディッセンドルフの貸してくれた魔導力は自分の身を守るために使われていたが、ここからは自らの力で事に当たらなければならない。
守るべき少女、学生会議役員の後輩、サーシャネル・ハーマス。彼女の天真爛漫の笑顔を取り戻すために。
自分を拉致し、この体に何度となくいたぶってきた魔導士、ハゼロウが疲れ切った顔でサーマルのところまできた。
サーマルにもその目的はわかっていた。
ディッセンドルフの身体を奪おうとしたモノの意識が消失し、「神の子」ディッセンドルフが戻ってきた。
当然のように、今回の襲撃に関与した者の駆逐を開始する。
ディッセンドルフの帰還を見た人々にとって、それは自明の理であった。ディッセンドルフが本当は何を考えているかは別にして。
だからこそ、サーマルを人質にして自分の保身を謀ろうとする者がいてもおかしくはなかった。
今自分に近づいてくるハゼロウがその一人であった。
サーマルにとっては好都合であった。
ラスプーチンの力が消え、純粋に短剣の脇腹に刺さった痛みだけが、サーマルを苦しめにかかっていたが、ディッセンドルフの力がかろうじてその痛みをやわらげてはいた。
サーマルが倒れている横で蹲ってむせび泣いているものがいた。
サーシャネル・ハーマスはラスプーチンの消失に敏感に反応し、そのままこの雨に濡れた大地に倒れこむように跪き、そのまま体を小さくして泣き始めていた。
おそらく左内腿に浮きだしていたウロボロスの印は、すでに消えていると思われた。
先の闘いのときに激しい点滅を繰り返していたことをサーマルは知っていた。
あれはその印を付けた魔導士の危険を警告していたのであろう。
できれば慰めてあげたいところだが、自分を刺したのちの過去の独白からは、自分のそのような行為を否定するはずだ。
彼女はこの世のすべてを呪っていた。
その少女を救った者と深く結びついて生きてきた。
その者が消失したのだ。彼女にとってはこの世の終わりに感じているのだろう。
そんな少女、サーシャネル・ハーマスをどうすれば救えるのかは、今のサーマールには見当がつかなかった。
だが、ただ優しく接することではないことは解っている。
もっと根本的な解決を図るべきなのだろう。
彼女の心の中で冷たく固まっているであろう大切なものを溶かすような、方法を。
そのためには終始少女のそばにいた、この最低最悪の低級魔導士を、まず葬らねばならない。
「くそお!くそっ、くそっ、くそおおおおおおおおお!せっかく黙ってついてやったのに、「神の子」を乗っ取るどころか、取り込まれちまうとはよお!おい、サーシャネル!」
蹲り、全く動かない少女の傍らに来たハゼロウが呼び掛けた。
「こいつは俺がもらうぞ、いいな!」
だが、一切聞こえないかのように答えない。
どころか、全く身じろぎもしなかった。
本当に、聞こえていないのかもしれない。
心を完全に閉ざしている可能性が高い。
「ふん!この雌犬が!」
ラスプーチンの絶対的な崇拝者であったサーシャネル・ハーマスを、心の中でハゼロウはそう蔑んでいた。
ハゼロウが、倒れているサーマスの泥だらけのローブの首元をつかみ上げ、引きずるようにして自分の胸元まで持ち上げた。
今まで指一本動かさなかったサーマルが動いた。
自分の脇腹に刺さったままのサーシャネルの短剣を引き抜き、そのままハゼロウの首元に切りつけた。
ハゼロウの頸動脈があっさり切られ、一瞬後、血飛沫を上げる。
ハゼロウはサーマルの速さに、何が起こったか、全くわからなかった。
気づいた時には周りに血が飛び散り、自分が切られたことが理解できた。
「このや、ろ……。」
ハゼロウは懸命に自分で治癒魔術を使おうとして、それがラスプーチンの力を与えられていたために出来たことを思い出した。
急速に意識に靄がかかり、目の前が暗くなっていく。
そのまま、乾き始めている大地に倒れこんだ。
ドサッ。
ハゼロウと共にサーマルもまた、一緒に倒れこんでしまった。
まだ自分の足で立っていなかったことと、首元をハゼロウが離さなかったためである。
そのせいで、必要以上にハゼロウの血を浴びてしまった。
さらに腹部の傷からも、自らの血が滴り始めてきた。
「くっ、しまったな。」
サーマルはその傷口を左手で押さえながら、ゆっくりと起き上がる。
小さく治癒魔術の詠唱を呟く。
そして自分の傷ついている内臓をイメージし、その細胞の修復を促す。
その左手が淡い光を放ち、傷口がゆっくりと塞がっていく。
大体の傷を塞げた時点で、サーマルの視野が暗くなった。
やばい、魔導力が切れかかっている!
ディッセンドルフの力を貰っていたからこそ、ここまで耐えられたが、あの短剣をずっと刺された状態は、さすがにこの体には負担が大きいということか。
失神しそうになった瞬間、左腕を誰かに引っ張られた。
「大丈夫か、サーマル?」
そこにはディッセンドルフとニシムロの姿があった。
「まあ、なんとかな。」
自分の身体を重く感じていたサーマルは、急激にのその重さを感じなくなっていった。
つかまれた腕から難なく力を注入してくる、「神の子」ディッセンドルフ。
無詠唱で、陣を書くこととも手印を作ることもなく、何でもないことのように魔導を操る……化け物。
「君に化け物扱いされるのは、さすがの俺でもこたえるよ、サーマル。」
接触していてはこちらの表層意識はダダ洩れだ。
わかってはいたが。
だがたぶん、この化け物的な力の持ち主なら、今の自分の望みも変えられることだろう。
「低級魔導士がこちらに逃げてきて、サーマルを盾に俺と交渉に持ち込もうとしていたからな。さて、どうしたものかと思っていた。まさか、あのサーマルがあっさり命を絶つとは考えもしなかった。」
「ああ、自分でびっくりしている。でも、後のことを考えれば、今、殺すしかないと判断した。今なら、瀕死の重傷を負っているはずの俺が抵抗をするとは考えていない。まして殺そうとはね。でも、やらなければならなかった。」
サーマルはやっと、自分の足で立てるまでに回復していた。
脇腹にも痛みはない。
そして、いまだ、蹲っている少女に目を移す。
サーシャネルはあまりの絶望に、涙を流しながら全く動けずにいた。
すでに外界のことなどどうでもいいのであろう。
少しでも動く気力が戻れば自害するのは目に見えている。
それをどうやって阻止すればいい。
サーマルは思う。
サーシャには普通の人生を、生きる喜びを求めてほしい。
「なかばお前を殺そうと…、いや、なぶり殺しにしようとした女だぞ、そこに蹲っている奴は。」
ディッセンドルフの言葉は辛辣で、容赦なかった。
ディッセンドルフはすでにこのことが起こる前から、サーシャネル・ハーマスの事情を知っていたような気がする。
「ディッセンドルフ、どこまでこんなことが起きるということを知っていたんだ。」
「さすがにすべてを知っていたわけではない。トツネルド・メビウスという騎士崩れの傭兵の意識に同調し、マルヌク村の惨劇に介入した時に、ナターシャにその時の黒幕、「闇の王」を自称するラスプーチンというものの影を見た。」
「ああ、あのオオジコバが持ってきたノートの書き手のことだな。あの情報でマルヌク村の生き残りである彼女がお前に的外れの恨みを持っていたという。」
サーマルの言葉にディッセンドルフが頷く。
「あの時からさらに何が起こったかを俺は見ることになった。というか強制的に見させられたというところだ。首席のナターシャが俺に決闘を申し込み、その裏でこの騎士魔導士学校を襲撃するという計画だった。目的はわかってると思うが、この「神の子」ディッセンドルフだった。そのため多くの手下を国家騎士団や魔法師団、神聖騎士団などに潜り込ませたり、懐柔したりしていた。」
実際に国家騎士団の上級騎士1位のザスルバシ・アップ・カチリマストと我が国最強の魔女と言われたコンコルディア・フローラが配下にいた。
「その中でも、サーシャは俺にとっては入学当初からラスプーチンの色が見えていたんだ。だからサーマル、君に託したんだ。君にかけた俺の耐性魔法であれば、あの短剣、仮に魔術をかけられていたとしても、先ほどのようにのたうち回ることはなかったと思ったんだがな。」
「それはディッセンドルフに謝らなければならない。確かに刺されて、すぐに抜いて処置を施せば、こんな大事には至らなかったかもしれない。でもね、サーシャの笑顔の裏に、壮絶な生い立ちがあったことを聞いて、できれば助けたいと思ってしまったんだ。肉体的にも、精神的にも。」
「精神的にも?まさかサーマル、サーシャを縛り付けて、その魂そのものを塗り染めているラスプーチンの力、それを取り払う気なのか?」
「そうしたいと思っている。」
サーマルの言葉に、ディッセンドルフには珍しく、苦悩の瞳の光がサーマルの目に映った。
「馬鹿な!明らかにサーシャの魂はラスプーチンの精神に完全に染められてしまった。その色を抜くなど、できるわけが…。」
「君なら、それもできるだろう、ディッセンドルフ。」
ディッセンドルフの否定的な言葉に、しかしサーマルは確信をもって答えた。
「なぜなら、君は「神の子」なのだから。」
揺るぎようのない信頼感がサーマルの瞳に宿った。
サーマルは、ディッセンドルフが駆けつける前までは、そんな方法がある可能性はほとんど0に限りなく近いと感じていた。
だが、ディッセンドルフと相対した時に、そんな悩みは消えてしまった。
そう、「神の子」に不可能はない。
そう感じたのだ。
「繰り返すが、その方法はあるんだろう、ディッセンドルフ。」
「ああ、ある。」
嘘をついたところで、どうしようもないと思ってしまった。
サーマルの、あまりにも穏やかな感情と、その中に隠れている確固たる思い。
サーマルの瞳は、ディッセンドルフの心を貫いていた。
「だが、それには多大な犠牲が必要だ。私一人では難しい。」
「必要であれば俺を使ってくれ。」
ディッセンドルフは悲しみの色を湛えた瞳を毅然としたサーマルに向け、そして、大きくため息をついた。
「わかった。それでは、サーシャネル・ハーマスを救う方法を説明する。」




