第48話 「闇の王」ディッセンドルフ
串刺しになっているディッセンドルフに向かって歩くラスプーチンは、焦りが出始めていた。
ナターシャの身体が、今も少しずつ膨れているのだ。
一気にディッセンドルフとの距離を詰めることはおろか、早足することもできずに慎重に近づいている。
周りからは勝利を確信し、自信を持ってゆっくり歩いているように見えているはずだ。
だが、少しでも無理な動きをすると、すぐにでも体に溢れた自分の力がこの体を破壊して拡散しかねない状態にあった。
このナターシャという名の少女の体がどうなろうとも、知ったことではなかったが、破裂し拡散した精神が、どうなってしまうのかがラスプーチン自身全く分からなかった。
マルヌク村で、自分の身体の一部を黒い霧に変えて村人に影響を与えた時とは明らかに違っていた。
「神の子」の強大な力の一部を吸収したことにより、自分自身の力が比較にならないほど強いものにはなった。
その自覚はある。
だが、その強大な力を封じ込めているのは自分の精神体ではない。
このナターシャという少女の小さな体だった。
「神の子」の力を繋ぎとめられるほどの精神の強靭さがラスプーチンにはなかった。
ナターシャの身体も器としては小さすぎたのだ。
この状態を何とか保ったまま、ディッセンドルフに接近して、その身体を奪うしかない。
ラスプーチンはある意味、追い詰められていた。
だが幸運にも、ディッセンドルフの身体は、その力を奪われ、今この泥地に串刺しの状態で固定されて動けずにいる。
今であれば奴の身体を奪うのは造作もない、はずなのだ。
この機会を得るために、自分が持てるすべての駒と力を使ったのだ。
すでに駒として動かせるのは、サーマルを人質に取っている最低魔術師のハゼロウと、奴隷に近い扱いを受けていた少女、サーシャネルの二人だけだった。
そして今自らが支配し動かしているナターシャだけだ。
そしてナターシャの身体は壊れる一歩手前である。
ナターシャの心はしかし、この体を動かす者、ラスプーチンに対して、いまだ抵抗をし続けている。
そのために、この強大な力を固定できずにいた。
不安定な状態であることはラスプーチンもわかっていた。
わかっているからこそ、慎重に一歩一歩踏みしみて、ディッセンドルフの身体に近づいて行った。
ディッセンドルフは全く動くことが出来ずにいた。
だが、その視線は近づいてくるナターシャの身体からぶれなかった。
その一歩一歩を凝視している。
ラスプーチンにはそのディッセンドルフの様子が、何もできずにいる怒りを自分に向けているものと信じて疑わなかった。
ディッセンドルフの本心を知っていたら、もっと別の行動をとっていたかもしれない。
ナターシャの身体、右肩と左足のふくらはぎがひび割れ、黒い蒸気のような物がじわりじわりと空気中に拡散し始めていた。
ラスプーチンはまだそのことに気づいていなかったが、時間が限られているということは十分承知していた。
ディッセンドルフの前で歩を止める。
本当なら蹴り上げて、今までの積年の恨みを晴らしたいところではあったが、そういう真似をしていることも許されないほど切迫していた。
ラスプーチンの支配する巨大化したナターシャの身体が跪き、ゆっくりとディッセンドルフの唇にその唇を近づけていった。
ディッセンドルフに刺され、泥地に伏せるように倒れているインデルマンの指が、かすかに動いた。
サーマルの身体をもてあそぶハゼロウとサーシャネルの後ろで歯ぎしりをしているオオジコバとフォルテの後ろから気配を完全に消していたニシムロが現れ、オオジコバの肩をつかんだ。
「悔しいのはわかる。だが、今は耐えろ。時期を待て。」
そう言ってディッセンドルフに口づけをしようとするナターシャの姿を凝視していた。
魔獣をほぼ殲滅した学生たちもまた、騎士魔導士学校に堅牢な防御障壁を張り終えたアンドリューとエンヤと共に、決闘の場所が見渡せる場所にたどり着いていた。
なんとかディッセンドルフの援護に向かおうとする学生たちをアンドリューが制する。
「今は近づいてはいけません。」
「ですが聖女様。このままではディッセンドルフ会長が……。」
「「神の子」はこのくらいで負けることも他者に奪われることもありません。あのお方には、もっと崇高な使命がございますから。」
「ですが!」
「信じなさい!「神の子」ディッセンドルフ様を、そして聖女と呼ばれる私の言葉を!」
雨と風が暴れるこの瞬間、聖女アンドリュー・ビューテリウムを光が包んだ。
「お前の身体、もらい受けるぞ、「神の子」よ。」
ラスプーチンはそう言うと、唇と唇を合わせた。
ディッセンドルフは気色の悪い張り裂けんばかりの唇を受け止めた。
抵抗をほとんどせずにその唇を開かされ、おぞましく口の中を這い回る「何か」が侵入を開始した。
ナターシャの身体に巣食っていたモノが、急速にディッセンドルフの体内に入っていく。
それと同時に、巨大化していたナターシャの身体の大きさも徐々に小さくなり始めた。
ひび割れて、黒い蒸気を拡散させていた個所も、次々と閉塞し、その黒い蒸気も出てこなくなっていく。
次々と体内に送り込まれる無数の蟲のようなおぞましく動くモノ。
そいつらはディッセンドルフの口腔から送り込まれ、あるものは食道へ、あるものは気管へ、そしてあるものは舌の下を流れる血管へと侵入していく。
ディッセンドルフの内臓各所に侵入していくが、蟲のようにおぞましい動きをする反面、その内臓に対して破って侵入を果たしたわけではない。
おぞましい蟲のような動きは、ディッセンドルフの主観であり、実際には黒い蒸気がその「神の子」の身体、細胞の隅々まで浸透していっている。
肉体的に損傷を与えることはなかったが、ディッセンドルフの精神は、徐々に汚染されていく今の状況に対抗できずに、いや、諦めなのか、対抗しようとすらしていなかった。
ラスプーチンの精神体の本体は、例えようもない喜びに満ち溢れ、ディッセンドルフへの侵入を果たしていく。
ナターシャの身体を破壊寸前まで膨らんでいた自分の強大化する力を、「神の子」の身体はいともたやすく受け入れていっている。
さらに、その身体の力に触れる度に、ラスプーチンの気分が高揚していった。
「確かにこれぞ「神の子」。恐ろしいほどの力を内蔵しておる。」
口づけしたままで、そう呟いた。
串刺しになって泥地に固定され動けずにいるディッセンドルフは体を小刻みに痙攣させていた。
すでにディッセンドルフ自身の思考は完全に消えていた。
ネットワークに組み込まれていた学生会議役員の面々は、ディッセンドルフの沈黙により、そのネットワークは使えずにいた。
そのため、現在思考交流は、時間と魔導力を無意味に消費させてしまっている。
ディッセンドルフは誰の思念波にも答えなかった。
ナターシャが唇を離した。
そのまま仰向けに倒れた。
その大きさは本来の12歳の少女のままであった。
その口の中からか細い黒い蒸気が立ち上り、ディッセンドルフの口に消えていった。
雨の中、完全に気を失っているその少女の周りに一陣の風が吹き抜けた。
その後に、少女の姿は消えた。
「ニシムロ卿‼あいつは、あの黒い「闇の王」は、先輩に何をしたんだ?あれではまるで…。」
「奴が大将の、ディッセンドルフ殿の身体を奪おうとしている。」
オオジコバは愕然としてニシムロを睨みつけた。
「奴がディッセンドルフ先輩の身体を奪って、「神の子」の能力を手にしたら…、奴は…。」
「あの「闇の王」、ラスプーチンが一体何をしたいのかは、本当のところは解らん。だが、まずはこの国の支配、そして多分、ロメン法国への復讐。」
淡々と語るニシムロにオオジコバは大きな違和感があった。
よくよく考えてみれば、彼を保証するものは何もないことに気付いた。
ニシムロを信じたきっかけはレベッカ海峡事件での軍人として会ったことだ。
だが、ニシムロは傭兵だ。
信用に足る人物と言えるのか?
そう、信じた理由はディッセンドルフが信じたからだ。
まるで、昔からの知り合いのような雰囲気だった。
だが、あの時ニシムロは何と言っていたか?
「わたくしがこの国に帰ってきた理由だが、それはここにいる「神の子」の出現だ。」
それまでに知り合い、という線は消える。
だが、珍しいことにディッセンドルフはこの謎の人物に対して全幅の信頼を置いているように見えた。
何故?
今まさに、その信頼を裏切っているように見える。
「ニシムロ卿‼あなたはいったい何者なのですか?ただの傭兵には見えない。」
オオジコバがニシムロに詰め寄る姿を、フォルテは剣に手を置いた状態で聞いていた。
もし、ニシムロがオオジコバに対して敵対行動を取るようであれば、すぐにでも戦闘態勢に入れる状態だ。
「何をいまさら。大将に忠誠を誓った魔導士だよ。」
「先の計画では、確かにナターシャから奴を切り離して、消去するはずでは?」
「お前は何を見ていた?完全にナターシャから奴を切り離すことに成功しているじゃないか。」
さも不思議そうにオオジコバを見る。
オオジコバは察した。
このニシムロという傭兵は、裏切り者だと。
瞬時にニシムロに対し内部破壊と空間固定の魔法を仕掛け、同時に剣を振る。
それに呼応してフォルテも反対側から剣戟を走らせた。
だがそこにはすでにニシムロの姿はない。
直後、天空から雷が落ちた。
二人に直撃はしてない。
しかし泥地が電撃を通し、二人の動きを一時的に止めた。
二人ともその泥地に崩れ落ちる。
「命まで奪う気はさらさらないよ、オオジコバ君、フォルテ君。ここから、今から起こる事をしっかりとその瞳に焼き付けることだ。」
すぐそばにニシムロの声が聞こえた。
「この国を支配するかもしれない神の誕生の場面だ。」
アンドリューもまた二人に口づけを見ていた。
嫉妬心を燃やしながら。
「ディッセンドルフ様は、そんな女丈夫が好きなのですか‼」
その言葉に横で警護するエンヤは頭を抱えていた。
どうすればこの場面でそんな発想になるのか?
自分の守るべき聖女の思考に初めて疑いを抱いてしまっていた。
赤ん坊を抱き静かにその光景をアルテミスは見ていた。
横にはセノビックが激しい雨と風にも拘らず、揺らぐことなくディッセンドルフを、その「正義の目」で見ている。
これから起こることに備え、さらなる未来すらも見ていた。
「闇の王」ラスプーチンは今、歓喜の絶頂にいた。
完全にディッセンドルフの身体も、そしてその精神をも自分と同化させることに成功したのだ。
串刺しにされ、動けないはずのこの身体の隅々まで、その神経網を確認する。
問題はなかった。
ほんの少しだけ、この身体を貫いている氷柱に念を送る。
一瞬で蒸発した。さらに貫通してできた損傷も瞬きをする間もなく修復される。
爆発で抉られた脇腹も既に完全にその痕跡すらなくなっていた。
今まで乗っ取った身体とは全く別のものだった。
「これが「神の子」の器。」
同時に多少の疑問が頭に浮かぶ。
これだけ瞬時にその損傷を回復させるこの身体が、何故、ああも簡単にこの地面に倒れていたのか?
だがすぐにその疑問も霧散する。
要は、フローラに生体のエネルギーを吸い取られ、そこに様々な損傷を追って、回復に間に合わなかった。
そして自分が奪い取ったエネルギーごと、この身体を奪ったことにより、従来の「神の子」の力が蘇ったのだと、理解した。
今や「闇の王」となったディッセンドルフの身体がゆっくりと起き上がった。
まるで新しい「王」を祝福するかのように、雨を降らせていた雲が急速に消えていった。
そこから光が差し、立ち上がったディッセンドルフの身体を黄金に輝かせる。
泥だらけのはずのディッセンドルフの身体からは、綺麗に汚泥が拭い去られ、騎士魔導士学校の学生会議会長の装束を身に着けた威厳ある姿を見せていた。
だがその姿に称賛を送ったのはごく一部の物だけだった。
サーシャネル・ハーマスとコンシュ・ハゼロウ。
その足元には泥だらけのサーマルが転がされていた。
ディッセンドルフの身体は、しかしその眼が今までとは違い、白眼の部分が黒く変色しており、元の所有者でない事を示していた。
「非常に清々しい気分だ。こんなことはこの500年間、一度も感じたことがないぞ。何と言う力だ。この力があれば、この国、いや、この世界そのものを手中に収めるのも容易いぞ。逆にディッセンドルフがこの力を解放しなかったことが不思議だよ。ハハハハハ。」
雨と風が止み、陽の光が降り注ぐ中、その存在が高笑いをしていた。
「ディッセンドルフ会長‼」
アンドリュー・ビューテリウムの後ろでこの光景を、ただ見るしかできなかった学生会議広報担当リエランティ・ミナトハラが叫んだ。
その声が「闇の王」に届いた。
そのディッセンドルフに似た顔が一瞬歪む。
その黒い目がリエランティに向いた直後。
アンドリューとエンヤの左横から騎士魔導士学校の外、魔獣たちのいる森の一部までが地面が抉られるように消失した。
アンドリューもエンヤも、その力の強大さに顔を青ざめた。
そう、学生の殆どが消去されたのである。
「思った以上の力だな。もし、「神の子」がナターシャに慈悲をかけていなければ、私なども一瞬のうちに消し去られていたわけだ。まさに幸運と言っていいのだろうな。」
「闇の王」はディッセンドルフの右手を見ながらそう呟いた。
一瞬のうちに消え去った学生たちに、オオジコバは怒り、動かない身体を何とか首だけ動かして横に立つニシムロを懸命に睨みつけた。
が、睨まれたニシムロは不敵な笑みを浮かべ、オオジコバには目を合わさず、光の中央に視線を向けたままだった。
「これからが本当のショウタイムだ。」




