行き先
悟の車のナビには、走行履歴が残っていた。
三週間前までは、山道と海岸線ばかりだった。知らない峠、行き止まりの林道、早朝の港。
今は違う。
名古屋と静岡を結ぶ線が、何度も重なっていた。
同じ道を何度も走るのは、以前なら退屈だった。
なのに今は、その線を見るだけで少し気分が高揚する。
「最近、どこか決まったところに行ってる?」
同僚に聞かれた。
「静岡です」
「何があるの?」
悟は考えた。
山でも海でもない。
「会いたい人がいます」
同僚は目を丸くした。
「悟が?」
「はい」
「車より大事な人?」
その質問だけは、すぐに答えられなかった。
車より大事、という比較の仕方がわからなかった。
どちらも、手放す理由がない。
*
真弓の夜勤表は、悟のスマートフォンにも入っていた。
本人が送ってきた勤務予定を、彼が自分で書き写したのだ。
夜勤の日には真美と会う。翌日、真弓が休める時間には真弓と会う。
最初は偶然だった。
今は日程を見てから、仕事の予定を組んでいた。
リモートで済む仕事は、静岡のホテルでもできる。会議の時間だけ確保しておけば、移動は自由だった。
その便利さを、こんなふうに使うとは思わなかった。
真美は、それを喜んだ。
「わざわざ私に会いに?」
「はい」
「疲れない?」
「全然」
「ほんとに好きなのね」
「好きです」
悟はためらわずに答えた。
真美は笑って、すぐに視線をそらした。
自分が聞いたのに、いざ言われると怖くなる。
その夜、真美は悟の隣で、娘のことを話した。
「真弓ね、最近、鏡を見る時間が長いの」
「そうですか」
「服も買ったみたい」
「似合うと思います」
「見てもいないのに?」
「真弓さんは、何を着ても似合いそうなので」
真美は笑おうとして、失敗した。
「悟くん」
「はい」
「私、変なこと聞いていい?」
「どうぞ」
「あの子のこと、好き?」
悟は真美の顔を見た。
「好きになってきています」
真美は目を伏せた。
あの子と仲よくなってくれればいい。
そう考えたのは自分だった。
悟が静岡へ来る理由があれば、自分たちも会える。それでうまくいくはずだった。
「そう」
それだけ言うと、真美は悟に背を向けた。
悟は肩に手を置いた。
「真美さんのことも好きです」
「……同じ言葉で言わないで」
「同じじゃないです」
真美が振り向く。
「何が違うの?」
悟はすぐには答えられなかった。
まだ自分でも、名前をつけられない。
ただ、どちらか一人に会わなくなる未来が、うまく想像できなかった。
*
翌日、真弓は駅まで迎えに来た悟の車に乗り込んだ。
「今日は私の希望、聞いてくれます?」
「どこへ行きますか」
「海」
「海なら、どこでも?」
「近場でいいです。遠くまで走ったら、帰りが遅くなるし」
悟は意外だった。
自分なら、時間が許すかぎり先へ進む。
「距離、短いですよ」
「悟さんと話す時間が長ければ、それでいいんです」
真弓はそう言ってシートベルトを締めた。
悟は返事を忘れた。
*
海辺の駐車場で、二人は缶コーヒーを飲んだ。
車の窓を少し開ける。潮の匂いが入ってくる。
「悟さんって、仕事以外はずっと車だったんですよね」
「そうですね」
「一人が好き?」
「好きでした」
「過去形?」
悟は自分の手元を見た。
「今は、誰かと来るのも好きです」
真弓はコーヒーの缶を膝に置いた。
「誰かって、誰でも?」
悟は首を振った。
「真弓さんだから、です」
真弓は少し驚き、やがて窓の外へ顔を向けた。
「そういうこと、急に言うんですね」
「急でしたか」
「急です」
真弓は笑っていた。
しばらくして、そっと悟の手に自分の手を重ねた。
悟は動かなかった。
山道のカーブをきれいに曲がれたときとは、まるで違う感覚だった。
正解が何か、わからない。
ただ、手を離したくなかった。
*
帰り道、真弓は助手席でうとうとしていた。
悟は車の速度を少し落とした。
眠っている横顔を見る。
海に行きたいと言ったのは彼女だった。遠くへ行かなくていいとも言った。
自分の好きな道を走ることしか考えてこなかった悟には、その感覚が新しかった。
目的地ではなく、誰といるか。
その違いを、初めて理解しかけていた。
マンションの前で、真弓が目を覚ました。
「ごめんなさい、寝ちゃった」
「いいですよ」
「退屈でした?」
「いえ」
「また、一緒に来てくれますか」
「もちろん」
真弓は降りる前に、悟の顔を見た。
「今度は、お母さん抜きで誘ってもいい?」
悟は一瞬、言葉に詰まった。
今日だって、二人きりだった。
それでも真弓の言葉は、これまでの会い方とは違う約束を求めていた。
「はい」
真弓が微笑んだ。
悟は、その笑顔を見て嬉しくなった。
*
名古屋へ戻ってから、悟は次の週末の予定を開いた。
久しぶりに、一人で長野の山道を走るつもりだった。
お気に入りのルートだった。季節もいい。
しばらく画面を見て、予定を消した。
代わりに、真弓へメッセージを送る。
『次の休み、会えませんか』
返事を待つあいだに、真美にも送った。
『今週も静岡へ行きます』
二つの画面を交互に見ていた。
通知が鳴るたび、胸が高鳴る。
悟は、もう山道のことを考えていなかった。




