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母の恋人  作者: 大神みや


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9/11

行き先

悟の車のナビには、走行履歴が残っていた。


三週間前までは、山道と海岸線ばかりだった。知らない峠、行き止まりの林道、早朝の港。


今は違う。


名古屋と静岡を結ぶ線が、何度も重なっていた。


同じ道を何度も走るのは、以前なら退屈だった。


なのに今は、その線を見るだけで少し気分が高揚する。


「最近、どこか決まったところに行ってる?」


同僚に聞かれた。


「静岡です」


「何があるの?」


悟は考えた。


山でも海でもない。


「会いたい人がいます」


同僚は目を丸くした。


「悟が?」


「はい」


「車より大事な人?」


その質問だけは、すぐに答えられなかった。


車より大事、という比較の仕方がわからなかった。


どちらも、手放す理由がない。


*


真弓の夜勤表は、悟のスマートフォンにも入っていた。


本人が送ってきた勤務予定を、彼が自分で書き写したのだ。


夜勤の日には真美と会う。翌日、真弓が休める時間には真弓と会う。


最初は偶然だった。


今は日程を見てから、仕事の予定を組んでいた。


リモートで済む仕事は、静岡のホテルでもできる。会議の時間だけ確保しておけば、移動は自由だった。


その便利さを、こんなふうに使うとは思わなかった。


真美は、それを喜んだ。


「わざわざ私に会いに?」


「はい」


「疲れない?」


「全然」


「ほんとに好きなのね」


「好きです」


悟はためらわずに答えた。


真美は笑って、すぐに視線をそらした。


自分が聞いたのに、いざ言われると怖くなる。


その夜、真美は悟の隣で、娘のことを話した。


「真弓ね、最近、鏡を見る時間が長いの」


「そうですか」


「服も買ったみたい」


「似合うと思います」


「見てもいないのに?」


「真弓さんは、何を着ても似合いそうなので」


真美は笑おうとして、失敗した。


「悟くん」


「はい」


「私、変なこと聞いていい?」


「どうぞ」


「あの子のこと、好き?」


悟は真美の顔を見た。


「好きになってきています」


真美は目を伏せた。


あの子と仲よくなってくれればいい。


そう考えたのは自分だった。


悟が静岡へ来る理由があれば、自分たちも会える。それでうまくいくはずだった。


「そう」


それだけ言うと、真美は悟に背を向けた。


悟は肩に手を置いた。


「真美さんのことも好きです」


「……同じ言葉で言わないで」


「同じじゃないです」


真美が振り向く。


「何が違うの?」


悟はすぐには答えられなかった。


まだ自分でも、名前をつけられない。


ただ、どちらか一人に会わなくなる未来が、うまく想像できなかった。


*


翌日、真弓は駅まで迎えに来た悟の車に乗り込んだ。


「今日は私の希望、聞いてくれます?」


「どこへ行きますか」


「海」


「海なら、どこでも?」


「近場でいいです。遠くまで走ったら、帰りが遅くなるし」


悟は意外だった。


自分なら、時間が許すかぎり先へ進む。


「距離、短いですよ」


「悟さんと話す時間が長ければ、それでいいんです」


真弓はそう言ってシートベルトを締めた。


悟は返事を忘れた。


*


海辺の駐車場で、二人は缶コーヒーを飲んだ。


車の窓を少し開ける。潮の匂いが入ってくる。


「悟さんって、仕事以外はずっと車だったんですよね」


「そうですね」


「一人が好き?」


「好きでした」


「過去形?」


悟は自分の手元を見た。


「今は、誰かと来るのも好きです」


真弓はコーヒーの缶を膝に置いた。


「誰かって、誰でも?」


悟は首を振った。


「真弓さんだから、です」


真弓は少し驚き、やがて窓の外へ顔を向けた。


「そういうこと、急に言うんですね」


「急でしたか」


「急です」


真弓は笑っていた。


しばらくして、そっと悟の手に自分の手を重ねた。


悟は動かなかった。


山道のカーブをきれいに曲がれたときとは、まるで違う感覚だった。


正解が何か、わからない。


ただ、手を離したくなかった。


*


帰り道、真弓は助手席でうとうとしていた。


悟は車の速度を少し落とした。


眠っている横顔を見る。


海に行きたいと言ったのは彼女だった。遠くへ行かなくていいとも言った。


自分の好きな道を走ることしか考えてこなかった悟には、その感覚が新しかった。


目的地ではなく、誰といるか。


その違いを、初めて理解しかけていた。


マンションの前で、真弓が目を覚ました。


「ごめんなさい、寝ちゃった」


「いいですよ」


「退屈でした?」


「いえ」


「また、一緒に来てくれますか」


「もちろん」


真弓は降りる前に、悟の顔を見た。


「今度は、お母さん抜きで誘ってもいい?」


悟は一瞬、言葉に詰まった。


今日だって、二人きりだった。


それでも真弓の言葉は、これまでの会い方とは違う約束を求めていた。


「はい」


真弓が微笑んだ。


悟は、その笑顔を見て嬉しくなった。


*


名古屋へ戻ってから、悟は次の週末の予定を開いた。


久しぶりに、一人で長野の山道を走るつもりだった。


お気に入りのルートだった。季節もいい。


しばらく画面を見て、予定を消した。


代わりに、真弓へメッセージを送る。


『次の休み、会えませんか』


返事を待つあいだに、真美にも送った。


『今週も静岡へ行きます』


二つの画面を交互に見ていた。


通知が鳴るたび、胸が高鳴る。


悟は、もう山道のことを考えていなかった。


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