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母の恋人  作者: 大神みや


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10/11

知らない時間

真弓が最初に気になったのは、母の靴だった。


「それ、新しいの?」


玄関で靴をそろえていた真美が振り向いた。


「ええ。もう足もだいぶいいから」


柔らかい革のパンプスだった。秋田にいたころの母なら、まず選ばないようなものだ。


「似合ってる」


「そう? ちょっと若すぎるかしら」


「そんなことないよ」


真美は照れたように笑った。


その笑顔を見ると、真弓も嬉しくなる。父が亡くなってから、母はずっと村のことばかり考えてきた。火事は災難だったが、静岡へ来てからの母は、不思議なくらい生き生きしている。


ただ、最近は外出が増えた。


真弓が夜勤の日に限って。


「昨日も出かけてた?」


「少しね。知り合いとお茶を」


「こっちに知り合い、いたっけ」


「昔の友達の、そのまた知り合いよ」


真美は笑って話を切った。


真弓はそれ以上聞かなかった。


親にだって、言いたくないことはある。


自分にも、そういうことができたばかりだった。


*


翌日、悟と会った。


真弓は駅前で、彼の車に乗り込むなり言った。


「今日は遠くまで行かないでくださいね」


「わかりました」


「前もそう言って、ずいぶん走ったから」


「片道四十キロです」


「私には遠いの」


悟は真面目な顔でうなずいた。


そういうところが好きだった。


人の言葉を、軽く聞き流さない。冗談が通じないこともあるが、取り繕うために笑わない。車を運転しているときの彼は、いつも静かで、余計なことをしない。


「悟さん」


「はい」


「今日は、私から誘ったんですよね」


「そうですね」


「嬉しかった?」


「すごく」


真弓は窓の外を向いた。


顔が熱い。


悟は嘘が苦手そうだ。そんな彼からまっすぐ言われると、うまく返事ができない。


*


昼食を取ったあと、二人は小さな公園を歩いた。


ベンチに腰を下ろすと、悟のスマートフォンが鳴った。


画面には『真美さん』と表示されていた。


悟は気づかず、ペットボトルのふたを開けている。


真弓が言った。


「お母さんから」


「あ、ありがとうございます」


悟は電話には出ず、短い返信を打った。


「何かあったの?」


「いえ。足はもう大丈夫だそうです」


「よかった」


真弓は笑った。


母が恩人に近況を知らせることは、何もおかしくない。


それでも、ふと思った。


母は自分には、足のことをほとんど話さなくなっていた。


どうして悟さんには、わざわざ知らせるのだろう。


「悟さん、うちのお母さんとよく連絡してるんですね」


悟は少し考えた。


「そうですね」


「私より多かったりして」


冗談のつもりだった。


「前は、そうだったかもしれません」


悟は普通に答えた。


真弓は笑いかけたまま、言葉を失った。


前は。


いつの、どのくらいの前だろう。


*


夜、母と二人で夕食を食べた。


「悟くんと、どうだった?」


真美が聞いた。


「楽しかったよ」


「そう。よかった」


母は安堵したように箸を置いた。


「真弓は、あの人のこと、本当に好きなのね」


真弓は少し驚いた。


「うん。好きだと思う」


口に出すと、思った以上に本当だった。


真美は笑った。


そのあと、少し間を置いて言った。


「あの人、変わってるでしょう。夢中になると、ほかのことが見えなくなるの」


真弓は母を見た。


「よく知ってるね」


「車に乗せてもらってる間、ずいぶん話したから」


「そっか」


確かに、秋田から静岡までは長い道のりだった。


知っていて当然かもしれない。


けれど、何かが引っかかった。


母が悟を説明するときには、いつも『知っている人』の言い方になる。


『こんな人かもしれない』ではない。


「お母さん」


「何?」


「悟さんのこと、好き?」


真美の箸が止まった。


「何を言い出すの」


「人として。助けてもらったし」


真美は小さく息を吐いた。


「もちろん。大好きよ」


真弓はうなずいた。


それ以上は聞かなかった。


聞けなかったのかもしれない。


*


その夜、真弓は悟とのメッセージを読み返した。


彼女の誘いに、悟はいつも応じる。


遠くから来て、食事をして、少し歩いて、名古屋へ帰る。


自分のために、そこまでしてくれる。


そう信じたい。


でも悟は、いつも前の日から静岡にいる。


どこに泊まって、何をしているのか。


今まで、考えもしなかった。


真弓は新しいメッセージを書いた。


『次に来るときは、前の日も会えますか』


数分後、返事が来た。


『会いたいです』


嬉しいはずだった。


真弓は画面を見つめたまま、すぐには返せなかった。


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