知らない時間
真弓が最初に気になったのは、母の靴だった。
「それ、新しいの?」
玄関で靴をそろえていた真美が振り向いた。
「ええ。もう足もだいぶいいから」
柔らかい革のパンプスだった。秋田にいたころの母なら、まず選ばないようなものだ。
「似合ってる」
「そう? ちょっと若すぎるかしら」
「そんなことないよ」
真美は照れたように笑った。
その笑顔を見ると、真弓も嬉しくなる。父が亡くなってから、母はずっと村のことばかり考えてきた。火事は災難だったが、静岡へ来てからの母は、不思議なくらい生き生きしている。
ただ、最近は外出が増えた。
真弓が夜勤の日に限って。
「昨日も出かけてた?」
「少しね。知り合いとお茶を」
「こっちに知り合い、いたっけ」
「昔の友達の、そのまた知り合いよ」
真美は笑って話を切った。
真弓はそれ以上聞かなかった。
親にだって、言いたくないことはある。
自分にも、そういうことができたばかりだった。
*
翌日、悟と会った。
真弓は駅前で、彼の車に乗り込むなり言った。
「今日は遠くまで行かないでくださいね」
「わかりました」
「前もそう言って、ずいぶん走ったから」
「片道四十キロです」
「私には遠いの」
悟は真面目な顔でうなずいた。
そういうところが好きだった。
人の言葉を、軽く聞き流さない。冗談が通じないこともあるが、取り繕うために笑わない。車を運転しているときの彼は、いつも静かで、余計なことをしない。
「悟さん」
「はい」
「今日は、私から誘ったんですよね」
「そうですね」
「嬉しかった?」
「すごく」
真弓は窓の外を向いた。
顔が熱い。
悟は嘘が苦手そうだ。そんな彼からまっすぐ言われると、うまく返事ができない。
*
昼食を取ったあと、二人は小さな公園を歩いた。
ベンチに腰を下ろすと、悟のスマートフォンが鳴った。
画面には『真美さん』と表示されていた。
悟は気づかず、ペットボトルのふたを開けている。
真弓が言った。
「お母さんから」
「あ、ありがとうございます」
悟は電話には出ず、短い返信を打った。
「何かあったの?」
「いえ。足はもう大丈夫だそうです」
「よかった」
真弓は笑った。
母が恩人に近況を知らせることは、何もおかしくない。
それでも、ふと思った。
母は自分には、足のことをほとんど話さなくなっていた。
どうして悟さんには、わざわざ知らせるのだろう。
「悟さん、うちのお母さんとよく連絡してるんですね」
悟は少し考えた。
「そうですね」
「私より多かったりして」
冗談のつもりだった。
「前は、そうだったかもしれません」
悟は普通に答えた。
真弓は笑いかけたまま、言葉を失った。
前は。
いつの、どのくらいの前だろう。
*
夜、母と二人で夕食を食べた。
「悟くんと、どうだった?」
真美が聞いた。
「楽しかったよ」
「そう。よかった」
母は安堵したように箸を置いた。
「真弓は、あの人のこと、本当に好きなのね」
真弓は少し驚いた。
「うん。好きだと思う」
口に出すと、思った以上に本当だった。
真美は笑った。
そのあと、少し間を置いて言った。
「あの人、変わってるでしょう。夢中になると、ほかのことが見えなくなるの」
真弓は母を見た。
「よく知ってるね」
「車に乗せてもらってる間、ずいぶん話したから」
「そっか」
確かに、秋田から静岡までは長い道のりだった。
知っていて当然かもしれない。
けれど、何かが引っかかった。
母が悟を説明するときには、いつも『知っている人』の言い方になる。
『こんな人かもしれない』ではない。
「お母さん」
「何?」
「悟さんのこと、好き?」
真美の箸が止まった。
「何を言い出すの」
「人として。助けてもらったし」
真美は小さく息を吐いた。
「もちろん。大好きよ」
真弓はうなずいた。
それ以上は聞かなかった。
聞けなかったのかもしれない。
*
その夜、真弓は悟とのメッセージを読み返した。
彼女の誘いに、悟はいつも応じる。
遠くから来て、食事をして、少し歩いて、名古屋へ帰る。
自分のために、そこまでしてくれる。
そう信じたい。
でも悟は、いつも前の日から静岡にいる。
どこに泊まって、何をしているのか。
今まで、考えもしなかった。
真弓は新しいメッセージを書いた。
『次に来るときは、前の日も会えますか』
数分後、返事が来た。
『会いたいです』
嬉しいはずだった。
真弓は画面を見つめたまま、すぐには返せなかった。




