見てしまったもの
その週の金曜日、真美は美容室へ行った。
久しぶりに髪を短くし、白髪も丁寧に染めてもらった。鏡の中には、秋田にいた自分とは少し違う女が座っていた。
似合うだろうか。
考えた相手は、娘ではなかった。
悟に写真を送る。
『どう?』
返事はすぐだった。
『似合っています。早く会いたいです』
真美は鏡の前で笑った。
美容師に「何かいいことありました?」と聞かれ、「何でもないの」と答えた。
何でもないわけがない。
三十四歳の男が、自分に会いたがっている。
それだけで、五十三歳の身体がまだ熱を持つのだと知った。
そんな自分を、少し恥ずかしく思う。
けれど、やめたいとは思わなかった。
*
悟はいつものように、真弓が夜勤に入る日に静岡へ来た。
真美とは夕方に待ち合わせた。
「髪、どう?」
「写真よりいいです」
「ほんと?」
「はい」
悟は、彼女の髪に指先で触れた。
人通りのある道だった。
真美は慌てて周囲を見た。
「だめよ、こんなところで」
「すみません」
悟は手を引いた。
真美はその手を、今度は自分からつかんだ。
「こっちへ行きましょう」
駅から一本入った通りに、小さなホテルがある。
いつもの場所だった。
*
真弓の勤務が変わったのは、その日の昼だった。
同僚の家庭の事情で夜勤の担当が入れ替わり、急に夕方からの時間が空いた。
帰宅して母に知らせようとしたが、部屋は留守だった。
『今日は予定が変わって、お休みになったよ』
送っても返事がない。
母はたぶん外出中だろう。
真弓は少し買い物をしようと思い、駅へ向かった。
そこで悟の車を見つけた。
見間違えるはずがなかった。見慣れた色、ナンバー、ホイール。自分で興味を持ったわけでもないのに、いつの間にか覚えていた。
駐車場に停まっている。
悟さん、今日も来てるんだ。
嬉しくなって、連絡しようとした。
そのとき、車の向こうに二人の姿が見えた。
悟と母だった。
二人は建物の陰から出てきたところだった。
真美は何か言って笑い、悟の腕に触れた。
親しい知り合いなら、ありそうな仕草だ。
真弓はそう思おうとした。
けれど悟が立ち止まり、母の乱れた髪を直した。
母はその手を取り、しばらく離さなかった。
それから、二人は短く口づけた。
真弓は動けなかった。
周囲の音が遠のいた。
目の前の二人が、自分の知っている母と悟には見えなかった。
自分の知らない顔をしていた。
*
真弓は二人に声をかけなかった。
何を言えばいいのか、わからなかった。
人目につかないように踵を返し、駅の反対側へ歩いた。
足が震えている。
怒りだろうか。悲しみだろうか。
それより先に、恥ずかしさが来た。
母は知っていたのだ。
自分が悟を好きになったことを。デートのたびに嬉しそうに帰ってきたことを。次にいつ会えるか、指折り数えていたことを。
知っていて、あんなふうに笑っていた。
悟も同じだ。
彼は自分の手を握った。自分にだけ向けた言葉だと思っていたものがある。
あれは何だったのだろう。
真弓はスマートフォンを開いた。
悟に電話をかけようとして、やめた。
画面に映った自分の顔は、ひどく情けなかった。
*
その夜、真美は上機嫌で帰ってきた。
「真弓、起きてたの?」
「うん。今日は勤務が変わったから」
真美が立ち止まった。
「そうなの?」
「連絡したよ」
「ごめんね、気づかなかった」
母はバッグからスマートフォンを出した。
「友達と会ってたの」
真弓は母の顔を見た。
化粧が少し崩れている。髪はきれいに整えてある。それでも、昼間と同じではない。
「楽しかった?」
「ええ。久しぶりにね」
「よかったね」
真弓はそれだけ言った。
真美は安心したように笑い、洗面所へ向かった。
その背中を見送りながら、真弓は思った。
この人は、私が何も知らないと思っている。
そして、自分でも驚くほど冷静に、もう一つのことを考えた。
悟さんは、私を好きだと言った。
あの言葉まで、嘘だったのだろうか。
*
寝室で、真弓は悟からのメッセージを開いた。
『次はいつ会えますか』
それだけだった。
いつもなら、すぐに返した。
今日は何度も文字を打ち、消した。
『お母さんとはどういう関係ですか』
送信の直前で、指が止まった。
返事を知るのが怖かった。
もし、ただの遊びだったと言われたら。
もし、母のほうが好きなのだと言われたら。
真弓は画面を閉じた。
涙は出なかった。
まだ、何かを決めるには早すぎた。




