答えのない夜
悟が真弓の異変に気づいたのは、次に会った日のことだった。
いつものように車に乗り、近くの店で昼食を取った。
真弓は笑う。話もする。
けれど、少し間が空くと黙り込んだ。
「疲れてますか」
悟が尋ねた。
「少しね」
「帰ります?」
「帰りたくない」
即答だった。
悟は真弓を見た。
真弓は窓の外へ目を向けたまま言った。
「今日は、もう少し一緒にいたい」
*
真美も、最近の娘の変化に気づいていた。
悟と会った日の話を、以前ほどしなくなった。
それでいて、スマートフォンを見る時間は増えている。
「うまくいってるの?」
その日の朝、真美は何気ないふりをして尋ねた。
「何が?」
「悟くんと」
「うん」
「それだけ?」
真弓は味噌汁を飲んだ。
「お母さんは、どうしてそんなに気にするの?」
真美は笑った。
「娘のことだもの」
「そっか」
真弓は箸を置いた。
「じゃあ、私が悟さんと結婚するって言ったら、嬉しい?」
真美は思わず顔を上げた。
「え?」
「例えばの話」
「もちろん、嬉しいわよ」
返事はすぐに出た。
娘には幸せになってほしい。
それは本心だった。
ただ、結婚という言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
結婚すれば、悟は娘の夫になる。
自分と二人きりで会う理由は、なくなってしまうかもしれない。
「まだ、そんな話には早いでしょう」
声が少し強くなった。
真弓は母を見ていた。
「そうだね」
それ以上は言わなかった。
*
夕方、悟と真弓は海の見える場所に車を停めた。
前に来た場所とは違う、静かな駐車場だった。
「悟さん」
「はい」
「私、嘘が嫌いなんです」
悟は真弓を見た。
「そうですか」
「でも、知りたくないこともあるんだって、最近思いました」
悟は返事をしなかった。
真弓は苦笑した。
「変な話ですよね」
「いえ」
「悟さんは、私に隠してること、ありますか」
車内が静かになった。
遠くで、波が砕ける音がした。
悟はハンドルから手を離し、膝の上で指を組んだ。
「……あります」
真弓は目を閉じた。
否定してほしかった。
けれど、即座に嘘をつかれなくてよかったとも思った。
「今、聞いたほうがいい?」
悟は答えられなかった。
その沈黙が、答えの一部だった。
「私、怖いです」
真弓が小さく言った。
「あなたを好きになったから」
悟は真弓へ向き直った。
「僕も、真弓さんが好きです」
「それは信じていい?」
「はい」
真弓は長く息を吐いた。
信じていいかどうかは、自分で決めることなのだろう。
「今日は、まだ聞きません」
悟の顔に安堵が浮かんだ。
それを見て、真弓の胸が少し痛んだ。
「でも、聞かなくて済んだと思わないでね」
「……はい」
「次は、ちゃんと話してください」
悟はうなずいた。
その返事だけは、真弓にとって必要だった。
*
帰ろうとしたとき、真弓が悟の袖をつかんだ。
「もう少しだけ」
悟はエンジンをかける手を止めた。
真弓はゆっくり顔を上げた。
「キス、してもいいですか」
悟は彼女の頬に手を添えた。
「僕から、してもいいですか」
真弓はうなずいた。
唇が触れた。
ほんの短い時間だった。
離れようとした悟の服を、真弓がつかんだ。
「もう一度」
今度は、長かった。
真弓は悟の胸に顔をうずめた。
好きだと思った。
腹が立つほど、好きだった。
知っていることも、知らないことも、今は全部そこにあった。
*
夜になっても、真弓は帰りたがらなかった。
悟は彼女を急かさなかった。
二人は夕食を取り、静かなホテルに部屋を取った。
部屋へ入ると、真弓は窓のそばに立った。
「私、こういうこと、軽く考えてるわけじゃないです」
「わかっています」
「わかってないかもしれない」
悟は黙った。
真弓は振り返った。
「それでも、今日は一緒にいたいの」
悟は近づき、彼女を抱きしめた。
真弓はしばらく動かなかったが、やがてその背中に腕を回した。
二人はもう一度キスをした。
悟が少し離れると、真弓は首を振った。
「大丈夫。私が決めたことだから」
その夜、二人は初めて結ばれた。
ただ、真弓の胸にある問いが消えたわけではなかった。
*
翌朝、悟はカーテンの隙間から差す光で目を覚ました。
隣に真弓がいた。
彼女はもう起きていて、天井を見ていた。
「おはようございます」
「おはよう」
悟は笑った。
真弓も笑った。
それから、彼女は静かに言った。
「昨日の約束、忘れないでくださいね」
「はい」
「私、聞きますから」
悟はうなずいた。
真弓はその顔を見て、ようやく少し安心した。
好きだから許せる、とは思わない。
好きだから、知っておきたい。
何を選ぶにしても、それからだ。
*
真美に届いたのは、悟からの短いメッセージだった。
『今日は真弓さんと一緒にいました。とても幸せでした』
真美は画面を見つめた。
幸せ。
そうあってほしかった。
娘にも、悟にも。
自分が二人を近づけたのだから。
けれど、胸の奥が疼いた。
誰にも知られずに会った夜を思い出す。短い時間のために、遠くから会いに来てくれた。
あの頃は、自分だけを見てくれていた。
今は、娘にも会いに行く。
わかっていた。
最初にそう仕向けたのは、自分だった。
それでも、失うのは嫌だった。
真美は返信を打った。
『よかったわね』
送信したあと、もう一通書いた。
『今度は、私にも会ってね』
しばらく待って、返事が来た。
『もちろんです。会いたいです』
真美はスマートフォンを胸に押し当てた。
安心したはずなのに、涙が一粒落ちた。
このままでいい。
そう思いたかった。
けれど、自分が何を怖がっているのか、もうごまかせなかった。




