夜勤の夜
「来週の水曜日、空いてます?」
真弓から届いたメッセージを、悟は会社の駐車場で読んだ。
仕事を終え、車に乗り込んだところだった。エンジンをかけるのを忘れて、画面を見つめる。
『夕方からなら』
『その日、夜勤なんです』
会えないという連絡なのかと思った。
次の文が届く。
『でも翌日は明けなので、夕方には少し元気になっているはずです。お食事でもどうですか』
悟はカレンダーを開いた。木曜日の午後には、名古屋にいなければならない用事が一つある。
それを金曜に動かせばいい。
用事の相手には、まだ何も聞いていない。それなのにもう、動かせるものだと決めていた。
『行きます。木曜の夕方で』
送信すると、すぐに笑った顔の絵文字が返ってきた。
悟はようやくエンジンをかけた。
いつもなら、ここで週末の走行ルートを考える。山道にするか、海沿いにするか。渋滞を避けられる道を頭の中でつないでいく時間が好きだった。
ところが今日は、静岡でどこに食べに行くかを調べていた。
自分でも少し不思議だった。
*
真美に連絡したのは、その夜だった。
『木曜、真弓さんと食事をすることになりました』
返事が来るまで少し間があった。
『あの子、積極的でしょう?』
『嬉しいです』
自分で打ったその言葉を見て、悟は指を止めた。
真美から電話がかかってきた。
「悟くん、いま大丈夫?」
「はい」
「木曜日ってことは、前の日は?」
「水曜の夜に静岡へ入ろうかと」
「あら、そうなの」
真美の声が柔らかくなった。
「真弓、夜勤だから、私は一人なのよ」
悟は黙った。
真美の家ではない。娘の部屋だ。そこへ自分が訪ねていく光景を考えると、いくらか居心地が悪かった。
「困る?」
「……少し」
「そうよね。じゃあ、外で会いましょうか」
その答えを聞いて、ほっとした自分と、残念に思った自分がいた。
「会いたいです」
言葉が先に出た。
受話器の向こうで、真美が息をのむ気配がした。
「私もよ」
その声だけで、車内の空気が変わった。
*
水曜日。悟は午後の仕事を早めに切り上げ、静岡へ向かった。
以前なら、高速道路を使うのはもったいないと感じたはずだった。山越えの下道を選び、遠回りを楽しむ。
今日は違う。
早く着きたかった。
待ち合わせたのは駅から少し離れた小さなレストランだった。真美は足をかばいながら、ゆっくり歩いてきた。まだ完全には治っていないらしい。
「無理してないですか」
「少しだけ。悟くんがいるから平気」
悟はその言い方に弱かった。
真美は食事中、秋田の家のことをぽつぽつ話した。焼け残ったものの処分や役所への届け出、村の人が代わりにしてくれていること。
「まだ戻るつもりですか」
「戻るというか、片づけには行かなきゃ。でも、住むところは考え直してもいいかなって」
「静岡で?」
「さあ。まだ何も決めていないわ」
真美はグラスの水に指を添えた。
「こんなふうに誰かとご飯を食べるなんて、向こうじゃ何年もなかったの」
悟は返事ができなかった。
自分にとっての水曜日は、休日の前夜にすぎなかった。でも真美にとっては、何かが変わり始めている時間なのだとわかった。
*
食事を終えて、二人は駅前のホテルへ向かった。
部屋に入ると、真美は窓のカーテンを開けた。車のライトが、濡れた道路をゆっくり流れていく。
「明日は、あの子と会うのね」
「はい」
「楽しみ?」
「楽しみです」
真美は振り返った。
一瞬、笑みが消えた。
「正直なのね」
「嘘をつく理由がないので」
「……そうね」
真美は近づき、悟の胸に額を寄せた。
「今夜は私のことだけ考えて」
悟はその背中に腕を回した。
「考えてます」
真美は顔を上げない。
「今夜だけじゃなくて」
その続きは、言わなかった。
*
翌朝、悟は先に目を覚ました。
真美の寝息が聞こえる。枕元には、真弓からのメッセージが届いていた。
『夜勤、無事に終わりました。今日は約束どおりで大丈夫です』
悟は返事を打った。
『お疲れさまです。無理しないでください』
送り終えると、真美が目を開けた。
「真弓?」
「はい」
「寝てると思ったのに、もう連絡?」
悟は画面を伏せた。
「夜勤が終わったそうです」
「よかったわね」
真美はそう言って笑った。
その笑顔に、悟は妙な引っかかりを覚えた。
だが真美が手を伸ばしてくると、もう考えなかった。
午後、彼は娘の待つ街へ向かう。
その前に、もう少しだけここにいたかった。




