母のすすめ
悟から連絡が来たのは、その日の夜だった。
『名古屋に着きました』
真美はソファに座り、画面を見つめた。
『お疲れさま。ありがとう。ゆっくり休んでね』
少し迷って、もう一行付け足した。
『会えて嬉しかったわ』
送信してから、胸が落ち着かなくなった。
隣では真弓が洗濯物をたたんでいる。
「あの人、着いた?」
「ええ」
「よかった」
真弓は顔を上げた。
「お母さん、悟さんと仲よくなったんだね」
真美はスマートフォンを伏せた。
「長い時間一緒にいたからね」
「そっか」
真弓はまた洗濯物に目を落とした。
「いい人だったね」
「そうね」
その「そうね」が、少し大きな声になった。
*
翌朝、真弓は遅い朝食を作った。
焼いたパン、卵、コーヒー。
真美は食卓につき、窓の外を眺めていた。
「お母さん、今日も病院へ行く?」
「足を診てもらおうかしら」
「午後なら一緒に行けるよ」
「ありがとう」
真弓は向かいに座った。
しばらくしてから、さりげない口調で聞いた。
「悟さんって、何歳だっけ」
「三十四」
「へえ。思ったより近い」
「真弓は二十八でしょう。六つ違いね」
「そうだね」
真美は娘を見た。
「どうしたの?」
「別に」
真弓はパンをちぎった。
「なんとなく、話しやすい人だったなって」
「そう?」
「うん。無理に話を合わせない感じがする」
真美はカップを置いた。
そうだった。
悟は誰にでも愛想よく振る舞う男ではない。
興味のあることを話すときだけ、目が変わる。
それが昨日、真弓と話しているときにも少し見えた。
「真弓」
「何?」
「悟くん、彼女いないんですって」
真弓が顔を上げた。
「……聞いたの?」
「ええ。道中で」
「そうなんだ」
声は平静だった。
けれど真美には、娘が少し嬉しそうにしたのがわかった。
*
その日の午後、真弓は悟へお礼のメッセージを送った。
連絡先は、母を送り届けた際に交換していた。
『母を送っていただき、ありがとうございました。おかげさまで無事にこちらで落ち着けそうです』
返事は簡潔だった。
『こちらこそ。足を大事にしてくださいとお伝えください』
真弓は画面を見て笑った。
『今度、静岡に来ることはありますか?』
送信しようとして、一度指を止めた。
少し積極的すぎるだろうか。
けれど、送った。
しばらくして返事が来た。
『あります。車でよく行きますので』
『そのときは、ぜひお礼にご飯をご馳走させてください』
『ありがとうございます。予定が合えば』
真弓はスマートフォンを胸元に置いた。
久しぶりだった。
次の休みが少し楽しみになるなんて。
*
真美にも、悟から連絡が来ていた。
『足の具合はいかがですか』
『だいぶ楽になったわ。悟くんのおかげ』
『よかったです』
真美は続けて打った。
『また会いたいわ』
今度は送信する前に迷わなかった。
返事を待つ間、娘の笑い声が聞こえた。
真弓は誰かとメッセージを交わしているらしい。
真美はその笑い方を知っていた。
昔、初めて恋をしたころにも、あの子はあんな顔をした。
真美はスマートフォンを握り直した。
ほどなく悟から返事が来た。
『僕もです』
真美は息をついた。
大丈夫。
悟は自分を好きでいてくれる。
そう思えた。
*
数日後、真美は真弓に言った。
「悟くん、今度こっちへ来るんですって」
「本当?」
真弓の声が弾んだ。
真美は、その反応を見逃さなかった。
「真弓も一緒にご飯でもどう?」
「いいの?」
「もちろん。助けてもらったんだもの」
真弓は嬉しそうにうなずいた。
真美も笑った。
娘が悟を好きになれば、悟はもっと静岡へ来るようになるかもしれない。
自分も会える。
母親と娘、それぞれの立場で悟と親しくしていれば、誰も不思議には思わない。
それは、悪いことではないはずだ。
真美はそう考えた。
ただ、胸の奥には小さな不安もあった。
真弓は若い。
優しくて、きれいで、自分の考えを持っている。
悟があの子を好きになったら。
そこまで考えて、真美は思考を止めた。
今はまだ、考えなくていい。
*
その晩、真弓は母が眠ったあと、ひとりでスマートフォンを開いた。
悟との短いやり取りを読み返す。
『予定が合えば』
いかにもあの人らしい返事だと思った。
真弓は笑った。
そのうち、ただお礼を言うだけでは足りなくなるかもしれない。
そう思ってから、少し驚いた。
まだ一度しか会っていない人なのに。
窓の外では、車が静かに走っていた。
真弓は画面を閉じた。
母があの人を信頼する理由が、少しわかった気がした。
けれど母が悟をどんな目で見ていたのかまでは、まだ気づいていなかった。




