娘の視線
静岡に入るころには、空が澄んでいた。
真美は娘に到着予定を知らせた。
『夕方には着くわ』
すぐに返事が来た。
『夜勤明けだけど起きて待ってる。気をつけてね』
「真弓さん、今日はお休みですか」
悟が聞いた。
「夜勤明けですって。疲れてるでしょうに」
「そうですね」
「お礼、ちゃんと言ってもらわなくちゃね」
「そんな、大したことしてませんよ」
「悟くんって、いつもそうなの?」
「どうでしょう」
真美は笑った。
この二日ほど、悟の返事の調子まで覚えてしまった。
*
真弓が暮らしているのは、駅から少し離れたマンションだった。
悟が車を停めると、玄関から一人の女性が出てきた。
すらりと背が高く、肩のあたりまでの髪。薄い色のシャツに細身のパンツ。急いで出てきたのか、片方の髪が少し跳ねている。
「お母さん!」
真弓は助手席へ駆け寄った。
「足、大丈夫?」
「大丈夫よ。そんなに慌てないで」
真弓は真美の足を確かめ、それから運転席の悟に気づいた。
「あ……」
悟は車を降りた。
「初めまして。悟です」
「真弓です。このたびは本当にお世話になりました」
真弓は深く頭を下げた。
「いえ。ちょうど帰る途中でしたから」
真弓が顔を上げた。
目の前に立った悟は、思ったよりずっと背が高かった。
写真も見ていない。母からは、変わった人だけどいい人、としか聞いていなかった。
「名古屋まで帰られるんですよね」
「はい」
「こんな遠くまで、本当にありがとうございます」
「運転が好きなので」
真弓は笑った。
「お母さんから聞きました。それ」
悟も少し笑った。
そのとき真美は、娘の表情を見ていた。
真弓が初対面の男性をこんなふうに見上げるのは、珍しい。
「真弓、荷物お願いできる?」
「あ、うん」
娘は慌てて小さなバッグを受け取った。
真美は、その慌て方が少し気になった。
*
部屋は片づいていた。
小さなダイニングテーブル。二人掛けのソファ。窓辺の観葉植物。
「よかったら、お茶だけでも」
真弓が悟に言った。
「お疲れでしょう?」
「ありがとうございます。でも、お母さんを送り届けたら帰ろうと思っていました」
「そんな。ここまで来てもらって、お茶も飲まずに帰すなんて」
真美も口を添えた。
「少し休んでいきなさいよ」
「じゃあ、少しだけ」
悟が靴を脱ぐと、真弓は嬉しそうにキッチンへ向かった。
真美はその背中を見ながら、妙な気分になった。
自分の娘だ。
機嫌のいいときも悪いときも、わかるつもりでいた。
今の真弓は、明らかに機嫌がいい。
*
「悟さんは、普段どんなお仕事を?」
真弓はコーヒーを出しながら尋ねた。
「IT関係です。名古屋の会社で働いています」
「忙しいんですか?」
「時期によります。リモートが多いので」
「だから遠くまでドライブできるんですね」
「そうですね。休みも取りやすい方です」
真弓は、悟の話をよく聞いた。
車の種類はわからない。それでも、なぜ一人で遠くまで走りたいのかを尋ねた。
「景色を見るのが好きなんですか?」
「景色も好きですけど、走ること自体が好きなんです」
「目的地がなくても?」
「はい」
「面白いですね」
悟は少し意外そうにした。
変わっているとは言われ慣れている。
面白いとまっすぐ言われることは、あまりなかった。
「真弓さんは、仕事のない日は何を?」
「寝てます」
即答だった。
悟が笑った。
「看護師さんは大変ですね」
「大変ですよ。だから、お休みは大事に使いたいんです」
真弓も笑った。
二人の会話が自然に続いていく。
真美はカップを持ったまま、黙って聞いていた。
悟が車以外の話を、こんなに楽しそうにするのを初めて見た気がした。
*
夕方になり、悟が立ち上がった。
「そろそろ行きます」
「今日は名古屋まで?」
真弓が尋ねた。
「はい」
「お気をつけて」
玄関で、真弓はもう一度頭を下げた。
真美は悟の腕に軽く触れた。
「本当にありがとう。着いたら連絡してね」
「はい」
その短いやり取りを、真弓は見ていた。
母の表情が、昔と違う。
火事で家を失った人の顔には見えなかった。
疲れているはずなのに、どこか明るい。
真弓は不思議に思った。
けれど、今は何も聞かなかった。
*
悟の車が見えなくなるまで、真弓は玄関の前に立っていた。
「お母さん」
「何?」
「悟さん、素敵な人だね」
真美は娘を見た。
「そう?」
「うん。ちょっと変わってるけど」
「でしょう」
二人で笑った。
「彼女、いるのかな」
真弓は何気ない調子で言ったつもりだった。
真美の笑顔が、一瞬だけ止まった。
「……いないって言ってたわよ」
「そうなんだ」
真弓はそれだけ言い、先に部屋へ戻った。
真美は玄関で少し立ち尽くした。
娘の背中を見る。
あの子、もしかして。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。
けれど次の瞬間、別の考えが浮かんだ。
真弓が悟と親しくなれば、自分も自然に悟と会える。
母親として、娘の恋を応援する。
誰からも不思議に思われない。
真美はゆっくり部屋へ戻った。
悪い考えではない。
そう自分に言い聞かせた。




