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母の恋人  作者: 大神みや


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5/12

娘の視線

静岡に入るころには、空が澄んでいた。


真美は娘に到着予定を知らせた。


『夕方には着くわ』


すぐに返事が来た。


『夜勤明けだけど起きて待ってる。気をつけてね』


「真弓さん、今日はお休みですか」


悟が聞いた。


「夜勤明けですって。疲れてるでしょうに」


「そうですね」


「お礼、ちゃんと言ってもらわなくちゃね」


「そんな、大したことしてませんよ」


「悟くんって、いつもそうなの?」


「どうでしょう」


真美は笑った。


この二日ほど、悟の返事の調子まで覚えてしまった。


*


真弓が暮らしているのは、駅から少し離れたマンションだった。


悟が車を停めると、玄関から一人の女性が出てきた。


すらりと背が高く、肩のあたりまでの髪。薄い色のシャツに細身のパンツ。急いで出てきたのか、片方の髪が少し跳ねている。


「お母さん!」


真弓は助手席へ駆け寄った。


「足、大丈夫?」


「大丈夫よ。そんなに慌てないで」


真弓は真美の足を確かめ、それから運転席の悟に気づいた。


「あ……」


悟は車を降りた。


「初めまして。悟です」


「真弓です。このたびは本当にお世話になりました」


真弓は深く頭を下げた。


「いえ。ちょうど帰る途中でしたから」


真弓が顔を上げた。


目の前に立った悟は、思ったよりずっと背が高かった。


写真も見ていない。母からは、変わった人だけどいい人、としか聞いていなかった。


「名古屋まで帰られるんですよね」


「はい」


「こんな遠くまで、本当にありがとうございます」


「運転が好きなので」


真弓は笑った。


「お母さんから聞きました。それ」


悟も少し笑った。


そのとき真美は、娘の表情を見ていた。


真弓が初対面の男性をこんなふうに見上げるのは、珍しい。


「真弓、荷物お願いできる?」


「あ、うん」


娘は慌てて小さなバッグを受け取った。


真美は、その慌て方が少し気になった。


*


部屋は片づいていた。


小さなダイニングテーブル。二人掛けのソファ。窓辺の観葉植物。


「よかったら、お茶だけでも」


真弓が悟に言った。


「お疲れでしょう?」


「ありがとうございます。でも、お母さんを送り届けたら帰ろうと思っていました」


「そんな。ここまで来てもらって、お茶も飲まずに帰すなんて」


真美も口を添えた。


「少し休んでいきなさいよ」


「じゃあ、少しだけ」


悟が靴を脱ぐと、真弓は嬉しそうにキッチンへ向かった。


真美はその背中を見ながら、妙な気分になった。


自分の娘だ。


機嫌のいいときも悪いときも、わかるつもりでいた。


今の真弓は、明らかに機嫌がいい。


*


「悟さんは、普段どんなお仕事を?」


真弓はコーヒーを出しながら尋ねた。


「IT関係です。名古屋の会社で働いています」


「忙しいんですか?」


「時期によります。リモートが多いので」


「だから遠くまでドライブできるんですね」


「そうですね。休みも取りやすい方です」


真弓は、悟の話をよく聞いた。


車の種類はわからない。それでも、なぜ一人で遠くまで走りたいのかを尋ねた。


「景色を見るのが好きなんですか?」


「景色も好きですけど、走ること自体が好きなんです」


「目的地がなくても?」


「はい」


「面白いですね」


悟は少し意外そうにした。


変わっているとは言われ慣れている。


面白いとまっすぐ言われることは、あまりなかった。


「真弓さんは、仕事のない日は何を?」


「寝てます」


即答だった。


悟が笑った。


「看護師さんは大変ですね」


「大変ですよ。だから、お休みは大事に使いたいんです」


真弓も笑った。


二人の会話が自然に続いていく。


真美はカップを持ったまま、黙って聞いていた。


悟が車以外の話を、こんなに楽しそうにするのを初めて見た気がした。


*


夕方になり、悟が立ち上がった。


「そろそろ行きます」


「今日は名古屋まで?」


真弓が尋ねた。


「はい」


「お気をつけて」


玄関で、真弓はもう一度頭を下げた。


真美は悟の腕に軽く触れた。


「本当にありがとう。着いたら連絡してね」


「はい」


その短いやり取りを、真弓は見ていた。


母の表情が、昔と違う。


火事で家を失った人の顔には見えなかった。


疲れているはずなのに、どこか明るい。


真弓は不思議に思った。


けれど、今は何も聞かなかった。


*


悟の車が見えなくなるまで、真弓は玄関の前に立っていた。


「お母さん」


「何?」


「悟さん、素敵な人だね」


真美は娘を見た。


「そう?」


「うん。ちょっと変わってるけど」


「でしょう」


二人で笑った。


「彼女、いるのかな」


真弓は何気ない調子で言ったつもりだった。


真美の笑顔が、一瞬だけ止まった。


「……いないって言ってたわよ」


「そうなんだ」


真弓はそれだけ言い、先に部屋へ戻った。


真美は玄関で少し立ち尽くした。


娘の背中を見る。


あの子、もしかして。


そう思った瞬間、胸の奥に小さな棘が刺さった。


けれど次の瞬間、別の考えが浮かんだ。


真弓が悟と親しくなれば、自分も自然に悟と会える。


母親として、娘の恋を応援する。


誰からも不思議に思われない。


真美はゆっくり部屋へ戻った。


悪い考えではない。


そう自分に言い聞かせた。

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