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母の恋人  作者: 大神みや


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4/13

言い訳のいらない夜

仙台を出たのは、午前十時を過ぎてからだった。


真美は助手席に収まり、シートベルトを締めた。昨日まで何度も気になった借り物のスカートは、今日はさほど気にならない。


悟はいつもどおり、ナビを確かめている。


「今日はどこまで?」


「東京あたりまで走ろうかと思っています」


「東京?」


「静岡まではまだ距離がありますから。無理せず行きましょう」


真美は窓の外へ顔を向けた。


東京。生まれ育った街だった。秋田に嫁いでから、帰る機会は年々減っていた。


「懐かしいわね。少し寄り道してもいい?」


「いいですよ」


悟は即答した。


「どこへ?」


「葛飾の方。昔、よく通った場所があるの」


「東京ですね」


「知ってる?」


「実家は東京です。仕事で名古屋に住んでいるだけなので」


「まあ、悟くんも東京生まれなのね。私、若いころはあの辺りによく行ったのよ」


真美は笑った。


ここまで知らない土地を走ってきたのに、今日は少し違う。誰かと故郷の近くを訪ねるというだけで、帰省とも旅行とも違う気分になった。


*


夕方、車は東京の東側へ向かった。


高架道路、駅前の商店街、見慣れたはずの交差点。真美の記憶にある街並みと、実際の景色は少しずつ違っていた。


「変わったわねえ」


「どの辺ですか?」


「この先に、昔よく来た喫茶店があったの」


悟は速度を落とした。


「探します?」


「いいの。たぶん、もうないわ」


そう言ってから、真美は笑った。


「私、さっきから昔話ばっかりね」


「面白いですよ」


「本当に?」


「はい。僕の知らない真美さんの話なので」


何でもない言い方だった。


けれど真美は、少し黙ってしまった。


*


夕飯を済ませたあと、真美が思い出したように言った。


「そういえば、昔この辺りに小さなホテルがあったの。知ってる?」


「ホテルですか?」


「ずいぶん昔のことだから、今もあるかどうかわからないけど」


悟は地図を確かめた。


「この辺りに、小さなホテルがあるみたいです」


「そうなの? ちょっと見てみたいわ」


「行ってみますか」


「そうね。懐かしいし」


しばらくして、車は小さなホテルの前に着いた。


真美は窓越しに建物を見上げた。


「……ああ、ここ」


「来たことあるんですか?」


「若いころにね」


真美は少し笑った。


「ここで大人の階段のぼったわ」


悟は真美を見た。


「どういう意味ですか」


「そこまで説明させる?」


悟は一拍置いて、ようやく意味に気づいたようだった。


「ああ」


「その反応、遅くない?」


二人で笑った。


真美は建物をもう一度見た。


あのころの自分は、ここから何十年も秋田で暮らし、家を失って、こんな青年と戻ってくるなど想像もしなかった。


「入ってみる?」


口にしてから、悟の顔をうかがった。


「いいですよ」


いつもの返事だった。


真美は思わず笑った。


「あなたって、本当に変わらないのね」


「嫌でした?」


「まさか」


今夜は、昨日のような言い訳を探さなくてよかった。


*


部屋へ入ると、真美はゆっくり見回した。


昔の記憶にある部屋とは違う。それでも、どこか似た匂いがする気がした。


「懐かしい?」


悟が尋ねた。


「ええ。でも、思い出していたのとは少し違うわ」


真美はベッドの端に腰を下ろした。


「昔ね、ここへ来たとき、ものすごく緊張したの」


「そうなんですか」


「大人になったつもりでいたけど、何にも知らなかった」


真美は悟を見上げた。


「それなのに今は、五十三にもなって、また緊張してる」


悟が隣に座った。


「僕もですよ」


「何が?」


「真美さんといると、次に何を話せばいいのかわからなくなることがあります」


真美は驚いた。


「悟くんにも、そんなことあるの?」


「あります」


車の話なら何時間でもできる青年が、自分の前では言葉を探している。


真美はそれが嬉しかった。


そっと悟の手を取った。


「じゃあ、無理して話さなくていいわ」


窓の外を車が走っていった。


その夜、真美は昔の自分を懐かしむだけではなく、今の自分の時間を過ごした。


*


翌朝、悟はホテルの近くでコーヒーを買ってきた。


「今日は静岡まで行けそうです」


「そうね」


真美は紙カップを受け取った。


娘に会うのは嬉しい。


けれど、二人だけの旅が終わることは、寂しかった。


「悟くん」


「はい」


「静岡に着いても、また会える?」


悟はすぐにうなずいた。


「もちろん」


「名古屋から?」


「車なら近いですから」


真美は笑った。


この人にとって、距離はいつだって大した問題ではない。


問題になるのは、これからなのかもしれない。


娘が待っている。


真美はまだ、そのことの意味を深く考えていなかった。

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