言い訳のいらない夜
仙台を出たのは、午前十時を過ぎてからだった。
真美は助手席に収まり、シートベルトを締めた。昨日まで何度も気になった借り物のスカートは、今日はさほど気にならない。
悟はいつもどおり、ナビを確かめている。
「今日はどこまで?」
「東京あたりまで走ろうかと思っています」
「東京?」
「静岡まではまだ距離がありますから。無理せず行きましょう」
真美は窓の外へ顔を向けた。
東京。生まれ育った街だった。秋田に嫁いでから、帰る機会は年々減っていた。
「懐かしいわね。少し寄り道してもいい?」
「いいですよ」
悟は即答した。
「どこへ?」
「葛飾の方。昔、よく通った場所があるの」
「東京ですね」
「知ってる?」
「実家は東京です。仕事で名古屋に住んでいるだけなので」
「まあ、悟くんも東京生まれなのね。私、若いころはあの辺りによく行ったのよ」
真美は笑った。
ここまで知らない土地を走ってきたのに、今日は少し違う。誰かと故郷の近くを訪ねるというだけで、帰省とも旅行とも違う気分になった。
*
夕方、車は東京の東側へ向かった。
高架道路、駅前の商店街、見慣れたはずの交差点。真美の記憶にある街並みと、実際の景色は少しずつ違っていた。
「変わったわねえ」
「どの辺ですか?」
「この先に、昔よく来た喫茶店があったの」
悟は速度を落とした。
「探します?」
「いいの。たぶん、もうないわ」
そう言ってから、真美は笑った。
「私、さっきから昔話ばっかりね」
「面白いですよ」
「本当に?」
「はい。僕の知らない真美さんの話なので」
何でもない言い方だった。
けれど真美は、少し黙ってしまった。
*
夕飯を済ませたあと、真美が思い出したように言った。
「そういえば、昔この辺りに小さなホテルがあったの。知ってる?」
「ホテルですか?」
「ずいぶん昔のことだから、今もあるかどうかわからないけど」
悟は地図を確かめた。
「この辺りに、小さなホテルがあるみたいです」
「そうなの? ちょっと見てみたいわ」
「行ってみますか」
「そうね。懐かしいし」
しばらくして、車は小さなホテルの前に着いた。
真美は窓越しに建物を見上げた。
「……ああ、ここ」
「来たことあるんですか?」
「若いころにね」
真美は少し笑った。
「ここで大人の階段のぼったわ」
悟は真美を見た。
「どういう意味ですか」
「そこまで説明させる?」
悟は一拍置いて、ようやく意味に気づいたようだった。
「ああ」
「その反応、遅くない?」
二人で笑った。
真美は建物をもう一度見た。
あのころの自分は、ここから何十年も秋田で暮らし、家を失って、こんな青年と戻ってくるなど想像もしなかった。
「入ってみる?」
口にしてから、悟の顔をうかがった。
「いいですよ」
いつもの返事だった。
真美は思わず笑った。
「あなたって、本当に変わらないのね」
「嫌でした?」
「まさか」
今夜は、昨日のような言い訳を探さなくてよかった。
*
部屋へ入ると、真美はゆっくり見回した。
昔の記憶にある部屋とは違う。それでも、どこか似た匂いがする気がした。
「懐かしい?」
悟が尋ねた。
「ええ。でも、思い出していたのとは少し違うわ」
真美はベッドの端に腰を下ろした。
「昔ね、ここへ来たとき、ものすごく緊張したの」
「そうなんですか」
「大人になったつもりでいたけど、何にも知らなかった」
真美は悟を見上げた。
「それなのに今は、五十三にもなって、また緊張してる」
悟が隣に座った。
「僕もですよ」
「何が?」
「真美さんといると、次に何を話せばいいのかわからなくなることがあります」
真美は驚いた。
「悟くんにも、そんなことあるの?」
「あります」
車の話なら何時間でもできる青年が、自分の前では言葉を探している。
真美はそれが嬉しかった。
そっと悟の手を取った。
「じゃあ、無理して話さなくていいわ」
窓の外を車が走っていった。
その夜、真美は昔の自分を懐かしむだけではなく、今の自分の時間を過ごした。
*
翌朝、悟はホテルの近くでコーヒーを買ってきた。
「今日は静岡まで行けそうです」
「そうね」
真美は紙カップを受け取った。
娘に会うのは嬉しい。
けれど、二人だけの旅が終わることは、寂しかった。
「悟くん」
「はい」
「静岡に着いても、また会える?」
悟はすぐにうなずいた。
「もちろん」
「名古屋から?」
「車なら近いですから」
真美は笑った。
この人にとって、距離はいつだって大した問題ではない。
問題になるのは、これからなのかもしれない。
娘が待っている。
真美はまだ、そのことの意味を深く考えていなかった。




