仙台の夜
「おはようございます」
施設の前に停まった車から悟が降りてきた。
「おはよう。今日からよろしくね」
悟は小さなバッグを受け取り、後部座席へ置いた。真美は足をかばいながら助手席へ座り、スカートの裾を整えた。昨日より短く感じる。気のせいだろうか。
「じゃあ、行きますね」
「お願いします」
車が静かに走り出した。真美は窓の外を見た。三十年以上暮らした土地が遠ざかっていく。もう戻らないのかもしれない。
少し胸が苦しかった。しかし隣で悟がハンドルを握っている。それだけで、少し安心できた。
*
悟の運転は滑らかだった。カーブでも身体が大きく揺れない。ブレーキも自然だった。
「運転、上手なのね。こんな車なのに、全然怖くない」
「ありがとうございます」
「もっと乱暴に走るのかと思ってた」
「乗ってる人が疲れますから」
「一人のときは?」
「もう少し楽しみます」
真美は笑った。悟は前を見たまま口元を緩めた。
この人は車の話をするときだけ表情が変わる。好きなものの前では少年のようになる。
自分にも、そんなものがあっただろうか。
*
サービスエリアで休憩した。真美は悟の腕を借りて車を降りた。歩くたび、スカートの裾が気になった。
「やっぱり、この服ちょっと恥ずかしいわ」
「どうしてですか?」
「若すぎるでしょう」
「そんなことないと思いますけど」
「悟くんって、女の人の服、わかるの?」
「詳しくないです」
真美は笑った。
「でしょうね」
「でも、似合ってると思いますよ」
真美は足を止めた。
「……ありがとう」
今度は素直に言った。
売店で飲み物を買い、ベンチに座った。真美はガラスに映る二人の姿を見た。背の高い青年と、小柄な女性。親子に見えるだろうか。それとも年の離れた恋人同士だろうか。
そんなことを考えている自分に気づき、慌ててお茶を飲んだ。
「熱っ」
「大丈夫ですか」
「ええ、ちょっと」
笑ってごまかした。
*
仙台に近づいたころ、空が暗くなり始めた。出発が遅れ、途中でも何度か休憩していた。
「今日は仙台で泊まりませんか」
「疲れた?」
「少し。昨日もあまり寝てないので」
「そうよね。いろいろあったものね」
「無理して走ることもないですし」
「そうしましょう」
真美はうなずいた。
「宿は決めてるの?」
「これから探します」
「また行き当たりばったり?」
「はい」
市内に入り、駐車場に車を停めると、悟はホテルを検索し始めた。真美はスマートフォンの画面をのぞき込んだ。
「普通のホテル?」
「はい」
「……そうよね」
悟が顔を向けた。
「どうかしました?」
「この格好でフロントへ行くの、ちょっと恥ずかしいなって」
「別に変じゃないですよ」
「あなたはそう言うけど。若い女の子の服を着たおばさんが歩いていたら、目立つでしょう?」
悟は少し考えた。
「そうですかね」
真美は窓の外へ目を向けた。少し間を置いて口を開く。
「ねえ、悟くん。ラブホテルって、泊まれるのよね」
悟は一瞬、真美を見た。
「泊まれますね」
「人に会わずに入りやすいところもあるでしょう? だったら、そっちの方がいいかなって」
車内にナビの案内音だけが流れた。
「……嫌?」
「いえ」
「変な意味じゃないのよ。足も悪いし、ほかのお客さんに見られるのもちょっとね」
「わかりました」
「本当に?」
「はい」
真美は笑った。自分で提案しておきながら、胸が少し落ち着かなかった。
*
ホテルは市街地から少し離れた場所にあった。悟は車を停め、真美の荷物を持った。足をかばう真美を支えて部屋へ入る。
大きなベッド。柔らかな照明。広い浴室。
「……広いのね」
こういう場所に来たのはいつ以来だろう。真美は思い出せなかった。
悟は椅子に腰を下ろした。真美はベッドの端に座る。
「悟くん。変に思ってない?」
「何をですか?」
「私がここにしようって言ったこと」
「別に。泊まれればいいので」
「あなたらしいわね」
真美は笑った。悟はスマートフォンで明日の道を確認している。
ここへ来ても、この人は車のことを考えている。少し呆れた。けれど安心もした。悟は何も求めてこない。
そのはずだった。
*
夕食は近くの店で買った弁当で済ませた。悟はビールを飲まなかった。
「飲まないの?」
「明日も運転するので」
「朝には抜けるでしょう?」
「そうですけど」
「真面目なのね」
「運転が好きなので」
「全部そこにつながるのね」
真美は笑った。
食事を終えると、真美は足元を見つめた。
「困ったわね」
「どうしました?」
「湿布、替えないといけないのよ」
バッグから薬と新しい包帯を取り出した。
「自分でできますか」
「できると思ったんだけど、ちょっと難しくて」
「手伝いましょうか」
「いいの?」
悟は医師から聞いた手順を確認しながら慎重に包帯を外した。足首はまだ腫れていた。
「痛みますか」
「少しね」
「無理しないでください」
真美は大きな手の丁寧な動きを見ていた。
「悟くんって、器用なのね」
「車をいじるので、細かい作業は好きです」
「また車?」
交換を終えると、悟は包帯を片づけた。
「……もう一つ、お願いしてもいい?」
「何ですか?」
「背中、拭いてもらえないかしら。足がこんなだから、うまく動けなくて」
悟は一瞬黙った。
「僕でいいんですか?」
「ほかに誰もいないでしょう」
真美は笑った。しかし頬は少し赤かった。
*
悟が温かいタオルを用意して戻ると、真美はベッドの端に座っていた。肩にバスタオルを掛けている。
「本当に、僕で大丈夫ですか」
「ええ。お願い」
悟は真美の背中を拭いた。最初は二人とも何も話さなかった。
「痛くないですか」
「大丈夫」
「寒くないですか」
「ええ。悟くん、さっきからそればっかり」
「すみません」
「謝らなくていいのよ」
しばらくして真美が口を開いた。
「ねえ、悟くん。私、五十三歳なのよ」
「知ってます」
「そうよね。……忘れてくれてもいいのに」
悟の手が止まった。
「ごめんなさい。変なこと言ったわ」
悟はタオルを置いた。
「真美さん。僕、真美さんと一緒にいるの、楽しいです」
真美は振り返った。悟は真面目な顔をしていた。
「私もよ」
少しの沈黙があった。真美は手を伸ばし、悟の手に触れた。
「……ありがとう」
悟はその手を握り返した。
「もう少し、そばにいてくれる?」
悟はうなずいた。
「はい」
その夜、二人は初めて恋人として抱き合った。
*
翌朝。真美が目を覚ますと、悟はまだ眠っていた。
枕元のスマートフォンに、娘の真弓からメッセージが届いていた。
『お母さん、今日はどこまで行くの?』
真美はしばらく画面を見つめた。それから隣で眠る悟を見る。
『今日は仙台を出るところよ』
そう返信した。嘘ではない。けれど昨夜のことは書かなかった。
五十三歳になって、こんな朝を迎えるとは思わなかった。
真美はそっと笑った。
静岡へ着くまで、あと何日あるのだろう。
昨日までは、一刻も早く娘のところへ行かなければと思っていた。
今は、もう少しだけ、この旅が続けばいいと思っている。




