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母の恋人  作者: 大神みや


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3/13

仙台の夜

「おはようございます」


施設の前に停まった車から悟が降りてきた。


「おはよう。今日からよろしくね」


悟は小さなバッグを受け取り、後部座席へ置いた。真美は足をかばいながら助手席へ座り、スカートの裾を整えた。昨日より短く感じる。気のせいだろうか。


「じゃあ、行きますね」


「お願いします」


車が静かに走り出した。真美は窓の外を見た。三十年以上暮らした土地が遠ざかっていく。もう戻らないのかもしれない。


少し胸が苦しかった。しかし隣で悟がハンドルを握っている。それだけで、少し安心できた。


*


悟の運転は滑らかだった。カーブでも身体が大きく揺れない。ブレーキも自然だった。


「運転、上手なのね。こんな車なのに、全然怖くない」


「ありがとうございます」


「もっと乱暴に走るのかと思ってた」


「乗ってる人が疲れますから」


「一人のときは?」


「もう少し楽しみます」


真美は笑った。悟は前を見たまま口元を緩めた。


この人は車の話をするときだけ表情が変わる。好きなものの前では少年のようになる。


自分にも、そんなものがあっただろうか。


*


サービスエリアで休憩した。真美は悟の腕を借りて車を降りた。歩くたび、スカートの裾が気になった。


「やっぱり、この服ちょっと恥ずかしいわ」


「どうしてですか?」


「若すぎるでしょう」


「そんなことないと思いますけど」


「悟くんって、女の人の服、わかるの?」


「詳しくないです」


真美は笑った。


「でしょうね」


「でも、似合ってると思いますよ」


真美は足を止めた。


「……ありがとう」


今度は素直に言った。


売店で飲み物を買い、ベンチに座った。真美はガラスに映る二人の姿を見た。背の高い青年と、小柄な女性。親子に見えるだろうか。それとも年の離れた恋人同士だろうか。


そんなことを考えている自分に気づき、慌ててお茶を飲んだ。


「熱っ」


「大丈夫ですか」


「ええ、ちょっと」


笑ってごまかした。


*


仙台に近づいたころ、空が暗くなり始めた。出発が遅れ、途中でも何度か休憩していた。


「今日は仙台で泊まりませんか」


「疲れた?」


「少し。昨日もあまり寝てないので」


「そうよね。いろいろあったものね」


「無理して走ることもないですし」


「そうしましょう」


真美はうなずいた。


「宿は決めてるの?」


「これから探します」


「また行き当たりばったり?」


「はい」


市内に入り、駐車場に車を停めると、悟はホテルを検索し始めた。真美はスマートフォンの画面をのぞき込んだ。


「普通のホテル?」


「はい」


「……そうよね」


悟が顔を向けた。


「どうかしました?」


「この格好でフロントへ行くの、ちょっと恥ずかしいなって」


「別に変じゃないですよ」


「あなたはそう言うけど。若い女の子の服を着たおばさんが歩いていたら、目立つでしょう?」


悟は少し考えた。


「そうですかね」


真美は窓の外へ目を向けた。少し間を置いて口を開く。


「ねえ、悟くん。ラブホテルって、泊まれるのよね」


悟は一瞬、真美を見た。


「泊まれますね」


「人に会わずに入りやすいところもあるでしょう? だったら、そっちの方がいいかなって」


車内にナビの案内音だけが流れた。


「……嫌?」


「いえ」


「変な意味じゃないのよ。足も悪いし、ほかのお客さんに見られるのもちょっとね」


「わかりました」


「本当に?」


「はい」


真美は笑った。自分で提案しておきながら、胸が少し落ち着かなかった。


*


ホテルは市街地から少し離れた場所にあった。悟は車を停め、真美の荷物を持った。足をかばう真美を支えて部屋へ入る。


大きなベッド。柔らかな照明。広い浴室。


「……広いのね」


こういう場所に来たのはいつ以来だろう。真美は思い出せなかった。


悟は椅子に腰を下ろした。真美はベッドの端に座る。


「悟くん。変に思ってない?」


「何をですか?」


「私がここにしようって言ったこと」


「別に。泊まれればいいので」


「あなたらしいわね」


真美は笑った。悟はスマートフォンで明日の道を確認している。


ここへ来ても、この人は車のことを考えている。少し呆れた。けれど安心もした。悟は何も求めてこない。


そのはずだった。


*


夕食は近くの店で買った弁当で済ませた。悟はビールを飲まなかった。


「飲まないの?」


「明日も運転するので」


「朝には抜けるでしょう?」


「そうですけど」


「真面目なのね」


「運転が好きなので」


「全部そこにつながるのね」


真美は笑った。


食事を終えると、真美は足元を見つめた。


「困ったわね」


「どうしました?」


「湿布、替えないといけないのよ」


バッグから薬と新しい包帯を取り出した。


「自分でできますか」


「できると思ったんだけど、ちょっと難しくて」


「手伝いましょうか」


「いいの?」


悟は医師から聞いた手順を確認しながら慎重に包帯を外した。足首はまだ腫れていた。


「痛みますか」


「少しね」


「無理しないでください」


真美は大きな手の丁寧な動きを見ていた。


「悟くんって、器用なのね」


「車をいじるので、細かい作業は好きです」


「また車?」


交換を終えると、悟は包帯を片づけた。


「……もう一つ、お願いしてもいい?」


「何ですか?」


「背中、拭いてもらえないかしら。足がこんなだから、うまく動けなくて」


悟は一瞬黙った。


「僕でいいんですか?」


「ほかに誰もいないでしょう」


真美は笑った。しかし頬は少し赤かった。


*


悟が温かいタオルを用意して戻ると、真美はベッドの端に座っていた。肩にバスタオルを掛けている。


「本当に、僕で大丈夫ですか」


「ええ。お願い」


悟は真美の背中を拭いた。最初は二人とも何も話さなかった。


「痛くないですか」


「大丈夫」


「寒くないですか」


「ええ。悟くん、さっきからそればっかり」


「すみません」


「謝らなくていいのよ」


しばらくして真美が口を開いた。


「ねえ、悟くん。私、五十三歳なのよ」


「知ってます」


「そうよね。……忘れてくれてもいいのに」


悟の手が止まった。


「ごめんなさい。変なこと言ったわ」


悟はタオルを置いた。


「真美さん。僕、真美さんと一緒にいるの、楽しいです」


真美は振り返った。悟は真面目な顔をしていた。


「私もよ」


少しの沈黙があった。真美は手を伸ばし、悟の手に触れた。


「……ありがとう」


悟はその手を握り返した。


「もう少し、そばにいてくれる?」


悟はうなずいた。


「はい」


その夜、二人は初めて恋人として抱き合った。


*


翌朝。真美が目を覚ますと、悟はまだ眠っていた。


枕元のスマートフォンに、娘の真弓からメッセージが届いていた。


『お母さん、今日はどこまで行くの?』


真美はしばらく画面を見つめた。それから隣で眠る悟を見る。


『今日は仙台を出るところよ』


そう返信した。嘘ではない。けれど昨夜のことは書かなかった。


五十三歳になって、こんな朝を迎えるとは思わなかった。


真美はそっと笑った。


静岡へ着くまで、あと何日あるのだろう。


昨日までは、一刻も早く娘のところへ行かなければと思っていた。


今は、もう少しだけ、この旅が続けばいいと思っている。


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