借り物の服
翌朝、真美はスマートフォンの着信で目を覚ました。娘の真弓だった。
「お母さん、足は?」
「まだ痛いけど、大丈夫よ」
「本当に骨折してないんだよね?」
「してないって。昨日も言ったでしょう」
「心配なのよ。今日、休みを取れないか聞いてみるから」
「いいのよ。仕事しなさい」
「でも、お母さん一人でしょう」
真美は返事に詰まった。一人。昨日まで住んでいた家も、もうない。
「とりあえず、こっちの手続きを済ませるわ」
「終わったら静岡に来て。しばらくうちにいればいいから」
「そうね」
「迎えに行くからね」
「無理しなくていいってば」
電話を切ってから、真美はしばらく天井を見つめた。静岡。何度も誘われていた。しかし、夫と暮らした家を離れる決心がつかなかった。その家が、なくなった。
思いもよらない形で、行き先だけが残った。
*
午前中は役場や消防署との連絡で終わった。火災の原因はまだわからない。保険会社への連絡、必要な書類の確認、今後の生活についての相談。考えなければならないことはいくらでもあった。
施設へ戻ると、昨日、火事の現場にいた近所の女性が待っていた。
「真美さん、これ」
大きな紙袋を差し出された。
「何?」
「着るもの。うちの娘のだけど、よかったら」
「そんな、悪いわよ」
「遠慮しないで。着るものもないでしょう」
真美は紙袋を受け取った。ポロシャツとスカート、それに薄手のカーディガンが入っていた。
さっそく部屋で着替えてみた。そして鏡の前で固まった。
「……ちょっと」
ポロシャツは着られたが、少し窮屈だった。若い女性向けの細身の作りなのだろう。身体の線が普段よりはっきり出てしまう。スカートも短い。膝がずいぶん見えている。
五十三歳の自分には落ち着かない格好だった。真美は裾を引っ張った。伸びるはずもない。
「困ったわねえ」
しかし他に着るものはなかった。昨日の服は煙と煤の匂いが染みついている。ありがたく借りるしかない。
鏡の中には見慣れない自分がいた。
そのときスマートフォンが鳴った。悟からだった。
『足の具合はいかがですか』
『まだ少し痛いけど大丈夫です。ありがとう』
『近くにいます。何か必要なものがあれば買っていきますよ』
真美は思わず笑った。
『じゃあ、お礼にコーヒーをご馳走させてください』
送信してから少しだけ後悔した。しかし返事は早かった。
『わかりました。迎えに行きます』
真美はもう一度鏡を見た。この格好で会うの? 少し迷って、髪を整え始めた。
*
悟は三十分ほどでやってきた。真美を見ると、少し驚いたようだった。
「こんにちは」
「こんにちは。昨日はありがとう」
悟の視線が服装に向いた。真美は気づいた。
「変でしょう。この服。近所の娘さんに借りたの。私の服、全部燃えちゃったから」
「そうなんですね」
「若い子の服だから、ちょっと窮屈で」
悟はもう一度、真美を見た。
「似合ってますよ」
真美は一瞬、返事ができなかった。
「……そう? そこは気を遣って言ってるんでしょう?」
「いえ」
「本当に?」
「ええ」
真美は笑った。
「悟くんって、変な人ね」
「よく言われます」
「でしょうね」
昨日と同じやり取りだった。けれど昨日より少し楽しかった。
*
二人は町の喫茶店へ入った。昼食の時間を過ぎていて、客はまばらだった。
「今日はどこか走ってきたの?」
「少しだけ」
「少しって、どのくらい?」
「百キロくらいです」
真美は吹き出した。
「それ、少しなの?」
悟は普段よりよく話した。エンジン、道路、山道。専門的な話になるとわからなかったが、楽しそうな悟を見ているのは面白かった。
「彼女はいないの?」
「いません」
「こんなに格好いいのに? 女の子に誘われたりしない?」
「ありますけど」
「あるんじゃない」
「予定が合わないことが多くて」
「仕事が忙しいの?」
「ドライブです」
真美は笑った。
「女の子より車なの?」
「そうですね」
「もったいない」
真美は悟の顔を見た。整った目鼻立ち、無駄のない身体つき、長い指。きっと喜ぶ女性は多いだろう。なのに本人はそのことに関心がない。
どんな女性なら、この人の関心を引けるのだろう。
*
「私ね、静岡へ行こうと思ってるの」
コーヒーを飲み終えるころ、真美は言った。
「娘さんのところですか?」
「ええ。足が治るまで、しばらく世話になろうかなって。でも、この足でしょう。娘に迎えに来てもらうのも悪いし」
悟はカップを置いた。
「じゃあ、送りますよ」
「え?」
「静岡まで」
「何言ってるの。そんな遠くまで」
「ちょうど名古屋へ帰るところですから」
「でも、静岡までよ?」
「通り道ですよ」
「通り道って……あなた、本当に距離の感覚がおかしいわね」
「よく言われます」
真美は笑った。しかしすぐに真顔になった。
「でも、そこまでしてもらえないわ」
「僕は構いませんよ。急いでませんから」
真美はその顔を見つめた。この青年は、駅まで送るとでも言ったような顔をしている。
「……じゃあ、お願いしちゃおうかしら」
「はい」
「本当にありがとう、悟くん」
*
移動前に病院へ確認した。足を休ませながら移動し、痛みや腫れが強くなるようなら途中でも受診するよう注意された。村に残る手続きのうち、後日対応できるものも確認した。
真美は娘に電話した。
「送ってくれる人がいるから」
「送ってくれる人? 昨日の知らない人?」
「もう知らない人じゃないわよ。名前も知ってるし」
「そういう問題じゃないって」
「大丈夫よ。いい人だから」
真弓はため息をついた。
「……お母さんらしい。着く日が決まったら教えてね」
その夜、真美は荷物をまとめた。借りた服とスマートフォン、財布、身分証、小さな化粧ポーチ。それだけだった。
鏡の前に立った。この服で静岡まで行くのか。少し恥ずかしい。
似合ってますよ。
悟の言葉を思い出す。
「……お世辞じゃないのかしら」
明日から、あの車で二人きり。名古屋への帰り道に静岡へ寄ってもらうだけ。それだけのことだ。
そう思おうとした。けれど、なかなか寝つけなかった。




