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母の恋人  作者: 大神みや


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2/14

借り物の服

翌朝、真美はスマートフォンの着信で目を覚ました。娘の真弓だった。


「お母さん、足は?」


「まだ痛いけど、大丈夫よ」


「本当に骨折してないんだよね?」


「してないって。昨日も言ったでしょう」


「心配なのよ。今日、休みを取れないか聞いてみるから」


「いいのよ。仕事しなさい」


「でも、お母さん一人でしょう」


真美は返事に詰まった。一人。昨日まで住んでいた家も、もうない。


「とりあえず、こっちの手続きを済ませるわ」


「終わったら静岡に来て。しばらくうちにいればいいから」


「そうね」


「迎えに行くからね」


「無理しなくていいってば」


電話を切ってから、真美はしばらく天井を見つめた。静岡。何度も誘われていた。しかし、夫と暮らした家を離れる決心がつかなかった。その家が、なくなった。


思いもよらない形で、行き先だけが残った。


*


午前中は役場や消防署との連絡で終わった。火災の原因はまだわからない。保険会社への連絡、必要な書類の確認、今後の生活についての相談。考えなければならないことはいくらでもあった。


施設へ戻ると、昨日、火事の現場にいた近所の女性が待っていた。


「真美さん、これ」


大きな紙袋を差し出された。


「何?」


「着るもの。うちの娘のだけど、よかったら」


「そんな、悪いわよ」


「遠慮しないで。着るものもないでしょう」


真美は紙袋を受け取った。ポロシャツとスカート、それに薄手のカーディガンが入っていた。


さっそく部屋で着替えてみた。そして鏡の前で固まった。


「……ちょっと」


ポロシャツは着られたが、少し窮屈だった。若い女性向けの細身の作りなのだろう。身体の線が普段よりはっきり出てしまう。スカートも短い。膝がずいぶん見えている。


五十三歳の自分には落ち着かない格好だった。真美は裾を引っ張った。伸びるはずもない。


「困ったわねえ」


しかし他に着るものはなかった。昨日の服は煙と煤の匂いが染みついている。ありがたく借りるしかない。


鏡の中には見慣れない自分がいた。


そのときスマートフォンが鳴った。悟からだった。


『足の具合はいかがですか』


『まだ少し痛いけど大丈夫です。ありがとう』


『近くにいます。何か必要なものがあれば買っていきますよ』


真美は思わず笑った。


『じゃあ、お礼にコーヒーをご馳走させてください』


送信してから少しだけ後悔した。しかし返事は早かった。


『わかりました。迎えに行きます』


真美はもう一度鏡を見た。この格好で会うの? 少し迷って、髪を整え始めた。


*


悟は三十分ほどでやってきた。真美を見ると、少し驚いたようだった。


「こんにちは」


「こんにちは。昨日はありがとう」


悟の視線が服装に向いた。真美は気づいた。


「変でしょう。この服。近所の娘さんに借りたの。私の服、全部燃えちゃったから」


「そうなんですね」


「若い子の服だから、ちょっと窮屈で」


悟はもう一度、真美を見た。


「似合ってますよ」


真美は一瞬、返事ができなかった。


「……そう? そこは気を遣って言ってるんでしょう?」


「いえ」


「本当に?」


「ええ」


真美は笑った。


「悟くんって、変な人ね」


「よく言われます」


「でしょうね」


昨日と同じやり取りだった。けれど昨日より少し楽しかった。


*


二人は町の喫茶店へ入った。昼食の時間を過ぎていて、客はまばらだった。


「今日はどこか走ってきたの?」


「少しだけ」


「少しって、どのくらい?」


「百キロくらいです」


真美は吹き出した。


「それ、少しなの?」


悟は普段よりよく話した。エンジン、道路、山道。専門的な話になるとわからなかったが、楽しそうな悟を見ているのは面白かった。


「彼女はいないの?」


「いません」


「こんなに格好いいのに? 女の子に誘われたりしない?」


「ありますけど」


「あるんじゃない」


「予定が合わないことが多くて」


「仕事が忙しいの?」


「ドライブです」


真美は笑った。


「女の子より車なの?」


「そうですね」


「もったいない」


真美は悟の顔を見た。整った目鼻立ち、無駄のない身体つき、長い指。きっと喜ぶ女性は多いだろう。なのに本人はそのことに関心がない。


どんな女性なら、この人の関心を引けるのだろう。


*


「私ね、静岡へ行こうと思ってるの」


コーヒーを飲み終えるころ、真美は言った。


「娘さんのところですか?」


「ええ。足が治るまで、しばらく世話になろうかなって。でも、この足でしょう。娘に迎えに来てもらうのも悪いし」


悟はカップを置いた。


「じゃあ、送りますよ」


「え?」


「静岡まで」


「何言ってるの。そんな遠くまで」


「ちょうど名古屋へ帰るところですから」


「でも、静岡までよ?」


「通り道ですよ」


「通り道って……あなた、本当に距離の感覚がおかしいわね」


「よく言われます」


真美は笑った。しかしすぐに真顔になった。


「でも、そこまでしてもらえないわ」


「僕は構いませんよ。急いでませんから」


真美はその顔を見つめた。この青年は、駅まで送るとでも言ったような顔をしている。


「……じゃあ、お願いしちゃおうかしら」


「はい」


「本当にありがとう、悟くん」


*


移動前に病院へ確認した。足を休ませながら移動し、痛みや腫れが強くなるようなら途中でも受診するよう注意された。村に残る手続きのうち、後日対応できるものも確認した。


真美は娘に電話した。


「送ってくれる人がいるから」


「送ってくれる人? 昨日の知らない人?」


「もう知らない人じゃないわよ。名前も知ってるし」


「そういう問題じゃないって」


「大丈夫よ。いい人だから」


真弓はため息をついた。


「……お母さんらしい。着く日が決まったら教えてね」


その夜、真美は荷物をまとめた。借りた服とスマートフォン、財布、身分証、小さな化粧ポーチ。それだけだった。


鏡の前に立った。この服で静岡まで行くのか。少し恥ずかしい。


似合ってますよ。


悟の言葉を思い出す。


「……お世辞じゃないのかしら」


明日から、あの車で二人きり。名古屋への帰り道に静岡へ寄ってもらうだけ。それだけのことだ。


そう思おうとした。けれど、なかなか寝つけなかった。

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