炎の向こう
最初におかしいと思ったのは、匂いだった。
焦げ臭い。
悟はアクセルを戻した。秋田県南部の山道。時刻は午後二時を少し回ったところだった。窓を少し開ける。やはり焦げ臭い。
次のカーブを抜けると、山あいの集落から黒い煙が上がっているのが見えた。
「火事か」
悟は車を減速させた。集落へ続く細い道に入ると、数人の男たちが走っている。その先で古い木造家屋が燃えていた。すでに屋根まで炎が回っている。
悟は邪魔にならない場所に車を停め、外へ出た。
「すみません。誰か中に?」
「もう誰もいねえ! あんた、どこの人だ!」
「通りがかりです」
「危ねえから下がってろ!」
消防団員らしい男が道路の向こうを指さした。悟は言われた場所へ移動した。
そこで、一人の女性が座り込んでいるのに気づいた。薄いブラウスに膝丈のスカート。裸足だった。片方の足を投げ出し、燃える家を見つめている。
悟は車へ戻り、毛布とサンダルを持ってきた。
「これ、使ってください」
女性が顔を上げた。
「え?」
「寒いでしょう」
「ありがとう」
思ったより若い声だった。
「怪我してませんか」
「足を、ちょっと」
右足首が腫れていた。
「動かせます?」
「動かすと痛いの」
「無理しない方がいいですね」
悟は女性の隣にしゃがんだ。
「お住まいですか」
「ええ」
「そうですか」
それ以上、何と言えばいいのかわからなかった。
「全部、燃えちゃうわね」
女性は炎を見つめたまま言った。
「三十年も住んでたのに」
「……そうですか」
「そうよね。そんなこと言われても困るわよね」
女性は少し笑った。悟もつられて笑った。
*
消火活動は続いていた。村の消防団に加え、隣町から消防車が到着していた。
「真美さん、足はどうだ」
先ほどの男がやってきた。
「痛いけど、大丈夫」
「大丈夫じゃねえべ。病院行った方がいい」
男は悟を見た。
「あんた、車で来たんだよな。悪いけど、この人を病院まで乗せてってくれねえか。救急車も呼んだけど、すぐには来られねえらしいんだ」
悟は女性を見た。意識ははっきりしている。煙を吸って具合が悪くなった様子もない。
消防団側の確認を待ち、本人も車での移動を望んでいると聞いてから、悟はうなずいた。
「わかりました」
女性は二人に支えられ、ゆっくり立ち上がった。
「ごめんなさいね。知らない人にまで迷惑かけちゃって」
「どうせ時間はありますから」
悟は助手席のドアを開けた。
「あら、低いのね、この車」
「乗りにくかったですか」
「ちょっとね。でも面白い車」
悟は少し嬉しそうに笑った。
*
病院までは四十分ほどかかる。カーナビに目的地を入力し、悟は車を走らせた。助手席の女性は窓の外を見ていた。
「真美さん、でしたっけ」
「ええ。よく聞いてたわね」
「さっきの人が呼んでいたので」
「あなたは?」
「悟です」
「悟くんね。いくつ?」
「三十四です」
「若いのね。私は五十三。十九も上よ」
「そうなんですね」
「そうなんですね、って。それだけ?」
「何かありますか?」
真美は思わず笑ってしまった。
「面白い人ね、あなた」
悟は何がおかしいのかわからない顔をしていた。
しばらくして、悟が口を開いた。
「真美さん、この辺の方じゃないんですか?」
「え?」
「あまり訛ってないので」
「あら、わかる? 東京なの。生まれも育ちも」
「そうなんですか」
「若いときにこっちへお嫁に来たのよ。三十年以上になるのに、こっちの言葉がなかなか身につかなくてね。あなたは?」
「東京です。今は仕事で名古屋に住んでいます」
「遠いところから来たのね。お仕事?」
「ドライブです」
「名古屋から秋田まで、何しに?」
悟は少し考えた。
「運転しに」
真美は声を上げて笑った。
「変わってるわねえ」
「よく言われます」
「でしょうね」
真美はまだ笑っていた。それから、ふと思い出したように言った。
「私ね、娘が静岡にいるの。看護師をしているのよ」
「静岡ですか。名古屋からも近いですね」
「そうなの?」
「ええ。よく走りますよ」
「静岡まで?」
「はい。その先も」
真美は呆れたように笑った。
「娘にはずっと、こっちへ来なさいって言われてたのよ。一緒に暮らそうって」
「いいですね」
「そうね。でも、なかなかね」
その先は言わなかった。悟も聞かなかった。
*
病院では右足首の捻挫と診断された。幸い骨折はなかった。固定具をつけ、しばらくは無理をしないように言われた。
診察を終えた真美は、待合室にいた悟を見つけて驚いた。
「まだいたの? 帰っててよかったのに」
「足、大丈夫でした?」
「骨は折れてないって」
「よかったですね」
「家は燃えちゃったけどね」
「それもそうですね」
二人で笑った。
「あなた、このあとどうするの?」
「特に決めてません」
「ホテルは?」
「まだです」
「本当に行き当たりばったりなのね。そういうの、楽しい?」
「楽しいですよ」
悟は即答した。真美は少し驚いた。自分にはそんなふうに答えられるものがあっただろうか。
病院の職員から、村で手配された一時宿泊先について説明があった。真美は手元に残ったスマートフォンで娘へ連絡した。
「すぐ迎えに来るって言うの。でも明日も仕事なのよ。看護師だから急には休めないでしょう」
「そうですね」
「今日は泊まって、明日考えるわ」
悟は立ち上がった。
「じゃあ、そこまで送りますよ」
「もう十分よ。これ以上、迷惑かけられないわ」
「足、痛いんでしょう」
悟は宿泊先の場所を確認しに行った。真美はその背中を見送った。背が高く、姿勢がいい。黒いシャツには余計な飾りがない。ずいぶん若いころ、こんな男の人に憧れたことがあった。
五十三にもなって、何を考えているのだろう。
*
宿泊先は町外れの小さな施設だった。
「本当にありがとう」
「いえ」
「あなたもどこか泊まるんでしょう? 今夜はどこ?」
「まだ決めてません」
「またそれ?」
二人で笑った。
真美は足をかばいながら車を降りた。悟がドアを支える。
「ねえ、悟くん。連絡先、交換してくれる?」
二人はスマートフォンを取り出した。真美は名前の欄で少し迷った。
悟さん。
それを消して、「悟くん」と入力した。
「また連絡するかもしれないわよ」
「どうぞ」
「本当に?」
「ええ」
真美は笑った。
*
その夜、真美は施設のベッドに横になっていた。目を閉じると燃える家が浮かぶ。夫と暮らし、真弓を育てた家。もう、ない。
涙が出るかと思った。けれど、不思議と出なかった。
代わりに、昼間の青年の顔が浮かんだ。
「運転しに」
思い出すと笑ってしまう。
スマートフォンを手に取った。画面には「悟くん」。明日、もう一度お礼を言おう。それだけなら変じゃないわよね。
しかし、お礼なら今日だって何度も言った。
真美は布団を鼻のあたりまで引き上げた。五十三歳。家を失ったその日に、見知らぬ青年へ連絡する口実を考えている。
自分でも呆れてしまう。それでも、少しだけ楽しかった。




