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母の恋人  作者: 大神みや


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1/12

炎の向こう

最初におかしいと思ったのは、匂いだった。


焦げ臭い。


悟はアクセルを戻した。秋田県南部の山道。時刻は午後二時を少し回ったところだった。窓を少し開ける。やはり焦げ臭い。


次のカーブを抜けると、山あいの集落から黒い煙が上がっているのが見えた。


「火事か」


悟は車を減速させた。集落へ続く細い道に入ると、数人の男たちが走っている。その先で古い木造家屋が燃えていた。すでに屋根まで炎が回っている。


悟は邪魔にならない場所に車を停め、外へ出た。


「すみません。誰か中に?」


「もう誰もいねえ! あんた、どこの人だ!」


「通りがかりです」


「危ねえから下がってろ!」


消防団員らしい男が道路の向こうを指さした。悟は言われた場所へ移動した。


そこで、一人の女性が座り込んでいるのに気づいた。薄いブラウスに膝丈のスカート。裸足だった。片方の足を投げ出し、燃える家を見つめている。


悟は車へ戻り、毛布とサンダルを持ってきた。


「これ、使ってください」


女性が顔を上げた。


「え?」


「寒いでしょう」


「ありがとう」


思ったより若い声だった。


「怪我してませんか」


「足を、ちょっと」


右足首が腫れていた。


「動かせます?」


「動かすと痛いの」


「無理しない方がいいですね」


悟は女性の隣にしゃがんだ。


「お住まいですか」


「ええ」


「そうですか」


それ以上、何と言えばいいのかわからなかった。


「全部、燃えちゃうわね」


女性は炎を見つめたまま言った。


「三十年も住んでたのに」


「……そうですか」


「そうよね。そんなこと言われても困るわよね」


女性は少し笑った。悟もつられて笑った。


*


消火活動は続いていた。村の消防団に加え、隣町から消防車が到着していた。


「真美さん、足はどうだ」


先ほどの男がやってきた。


「痛いけど、大丈夫」


「大丈夫じゃねえべ。病院行った方がいい」


男は悟を見た。


「あんた、車で来たんだよな。悪いけど、この人を病院まで乗せてってくれねえか。救急車も呼んだけど、すぐには来られねえらしいんだ」


悟は女性を見た。意識ははっきりしている。煙を吸って具合が悪くなった様子もない。


消防団側の確認を待ち、本人も車での移動を望んでいると聞いてから、悟はうなずいた。


「わかりました」


女性は二人に支えられ、ゆっくり立ち上がった。


「ごめんなさいね。知らない人にまで迷惑かけちゃって」


「どうせ時間はありますから」


悟は助手席のドアを開けた。


「あら、低いのね、この車」


「乗りにくかったですか」


「ちょっとね。でも面白い車」


悟は少し嬉しそうに笑った。


*


病院までは四十分ほどかかる。カーナビに目的地を入力し、悟は車を走らせた。助手席の女性は窓の外を見ていた。


「真美さん、でしたっけ」


「ええ。よく聞いてたわね」


「さっきの人が呼んでいたので」


「あなたは?」


「悟です」


「悟くんね。いくつ?」


「三十四です」


「若いのね。私は五十三。十九も上よ」


「そうなんですね」


「そうなんですね、って。それだけ?」


「何かありますか?」


真美は思わず笑ってしまった。


「面白い人ね、あなた」


悟は何がおかしいのかわからない顔をしていた。


しばらくして、悟が口を開いた。


「真美さん、この辺の方じゃないんですか?」


「え?」


「あまり訛ってないので」


「あら、わかる? 東京なの。生まれも育ちも」


「そうなんですか」


「若いときにこっちへお嫁に来たのよ。三十年以上になるのに、こっちの言葉がなかなか身につかなくてね。あなたは?」


「東京です。今は仕事で名古屋に住んでいます」


「遠いところから来たのね。お仕事?」


「ドライブです」


「名古屋から秋田まで、何しに?」


悟は少し考えた。


「運転しに」


真美は声を上げて笑った。


「変わってるわねえ」


「よく言われます」


「でしょうね」


真美はまだ笑っていた。それから、ふと思い出したように言った。


「私ね、娘が静岡にいるの。看護師をしているのよ」


「静岡ですか。名古屋からも近いですね」


「そうなの?」


「ええ。よく走りますよ」


「静岡まで?」


「はい。その先も」


真美は呆れたように笑った。


「娘にはずっと、こっちへ来なさいって言われてたのよ。一緒に暮らそうって」


「いいですね」


「そうね。でも、なかなかね」


その先は言わなかった。悟も聞かなかった。


*


病院では右足首の捻挫と診断された。幸い骨折はなかった。固定具をつけ、しばらくは無理をしないように言われた。


診察を終えた真美は、待合室にいた悟を見つけて驚いた。


「まだいたの? 帰っててよかったのに」


「足、大丈夫でした?」


「骨は折れてないって」


「よかったですね」


「家は燃えちゃったけどね」


「それもそうですね」


二人で笑った。


「あなた、このあとどうするの?」


「特に決めてません」


「ホテルは?」


「まだです」


「本当に行き当たりばったりなのね。そういうの、楽しい?」


「楽しいですよ」


悟は即答した。真美は少し驚いた。自分にはそんなふうに答えられるものがあっただろうか。


病院の職員から、村で手配された一時宿泊先について説明があった。真美は手元に残ったスマートフォンで娘へ連絡した。


「すぐ迎えに来るって言うの。でも明日も仕事なのよ。看護師だから急には休めないでしょう」


「そうですね」


「今日は泊まって、明日考えるわ」


悟は立ち上がった。


「じゃあ、そこまで送りますよ」


「もう十分よ。これ以上、迷惑かけられないわ」


「足、痛いんでしょう」


悟は宿泊先の場所を確認しに行った。真美はその背中を見送った。背が高く、姿勢がいい。黒いシャツには余計な飾りがない。ずいぶん若いころ、こんな男の人に憧れたことがあった。


五十三にもなって、何を考えているのだろう。


*


宿泊先は町外れの小さな施設だった。


「本当にありがとう」


「いえ」


「あなたもどこか泊まるんでしょう? 今夜はどこ?」


「まだ決めてません」


「またそれ?」


二人で笑った。


真美は足をかばいながら車を降りた。悟がドアを支える。


「ねえ、悟くん。連絡先、交換してくれる?」


二人はスマートフォンを取り出した。真美は名前の欄で少し迷った。


悟さん。


それを消して、「悟くん」と入力した。


「また連絡するかもしれないわよ」


「どうぞ」


「本当に?」


「ええ」


真美は笑った。


*


その夜、真美は施設のベッドに横になっていた。目を閉じると燃える家が浮かぶ。夫と暮らし、真弓を育てた家。もう、ない。


涙が出るかと思った。けれど、不思議と出なかった。


代わりに、昼間の青年の顔が浮かんだ。


「運転しに」


思い出すと笑ってしまう。


スマートフォンを手に取った。画面には「悟くん」。明日、もう一度お礼を言おう。それだけなら変じゃないわよね。


しかし、お礼なら今日だって何度も言った。


真美は布団を鼻のあたりまで引き上げた。五十三歳。家を失ったその日に、見知らぬ青年へ連絡する口実を考えている。


自分でも呆れてしまう。それでも、少しだけ楽しかった。


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