第六章「逃げ出してきた子」
目覚めたら、魔法の家のそばには湖が広がっていた。
ここはどこだろう。天使の砦の前にいたはずなのに、また移動してしまったらしい。澄んだ鳥の鳴き声。ひんやりした空気。魔法の家は、砂だらけの砦に飽きて、水辺が恋しくなってしまったのかもしれない。私のほうは、ようやく砦の人たちとなじんできたところだったので、別の場所に移動したとわかった瞬間から、すでに彼らのことを恋しく思い始めていた。
しばらくするとユルが飛んできた。翼はもう大丈夫そうでよかった。
「みんなお別れを言いたかったと、よろしく伝えてほしいと言っていましたよ」
そうなのだ。魔法の家は突然、気まぐれに動くから、さよならを言えないことも多い。
私がしょげかえっていると、ユルは移動先で手紙を出せるよう、ハヤブサを貸してくれた。見たところ、翼が虹色に輝いていて、ただのハヤブサではない。
砦のみんなへの手紙はユルにお願いして、彼が帰った後で、私はリズに宛てた手紙を書き直していた。天使の砦の話を書きかけていたが、湖のそばに移動したことを付け足さねばならない。
夕暮れ時、伝書ハヤブサにそれをたくして窓から飛ばすと、ハヤブサは羽ばたいたとたんに虹色の光になって消えてしまった。すごい。瞬間移動したみたいだ。
その時、湖のそばで何かがほうっと光った。何だろう? 私は窓を閉めて、猫たちに留守番を頼み、様子を見に出かけた。
木々の間を通り抜けて、湖のほとりにやって来ると、誰かが倒れている。私は急いで駆け寄った。
横向きに倒れていたその人は、長い黒髪の、私と歳の近そうな、きれいな顔立ちの女の子だった。黒っぽい簡素な格好をしているものの、こんなにきれいな子は見たことがなかった。どうも気を失っているようだ。
「あの! 大丈夫ですか!」
呼びかけても目をつぶったまま反応がない。息はしている。
「どうしよう、私一人じゃ運べないかも」
重たい野菜には慣れているけれど、相手はか弱い女の子だ。怪我でもしていたら、なおさら危ない。ユルもいないし、たとえ呼んでも、来てくれるまでの間にこの子の具合が悪くなってしまうかもしれない。
こういう困った時の頼みの綱が、一つだけあった。私は目を閉じて集中し、念じた。
(魔法の家、目をつぶって三つ数えるから、この子を家の中に運んでくれる?)
いち、に、さん…… 目を開けると、私は部屋にいて、私のベッドで先ほどの子が仰向けに横たわっていた。よかった。魔法の家が手伝ってくれたみたいだ。
この方法をとる時、私はいつも目をつぶるので、何が起きているのかはわからない。たぶん家の魔法が瞬時に働いているのだろう。魔法の家もいつも応えてくれるわけではない。基本的に気まぐれなのだ。
急に移動したせいか、うーん、と目の前の子が身動きしてうなった。薄目が開くと、きれいな藍色の瞳が見えた。私は、はっと息を呑んでその子に呼びかけた。
「大丈夫? どこか痛いところはない?」
その子は不可思議そうに天井を見て、私のほうを見て、しばらく考えるようにしてから、身体を起こした。
「あんた、誰だ? ここは……?」
「私はフィー。ここは私の魔法の家よ。この近くの湖のそばで、あなた、倒れてたのよ」
「魔法の家? あんた、魔法使いなのか?」
「ええと、そうね。あんまり魔法はうまくないけど」
相手は額に手をやって、考え込むようにしている。
「大丈夫? 頭が痛いの?」
「いや…… 大丈夫」
「お医者さんに診てもらったほうがいいかしら」
「この家には、あんた一人だけなのか?」
私の言葉を無視して、彼女は尋ねた。
「……そうよ」
「そうか」
それを聞いてなぜかほっとしたようだった。
「医者は呼ばなくていい。俺は平気だ」
「そう?」
ずいぶんぶっきらぼうなしゃべり方の子だな、と私は思いながらも、
「本当は診てもらったほうがいいと思うけど……。とりあえず、身体を拭いて着替えましょうか」
着替えやお湯を用意しようと立ち上がると、
「すまない」
と、その子はうつむきがちに言った。私は少し微笑んでみせて、バスルームからお湯の入った桶とタオルを持ってきた。
「じゃあ、拭いてあげるから、ちょっとだけ脱いでもらえる?」
「え」
相手はぎょっとして、さっと両腕で自身を抱きかかえるようにした。
「じ、自分でできる!」
「でも、打ち身や怪我がないかも確かめないと」
彼女はものすごく不機嫌そうに美しい顔をしかめて、けれどもため息をつくと、大人しく上着の前を開けて脱いで、
「わかった。あんまり見るなよ」
と背中を向けた。
「え」
今度は私が固まって、がたんと立ち上がった。
「男の子?」
「は?」
「あなた、男の子なの?」
彼女、でなくて、彼は目を丸くして、私を振り返る。
「いつ、誰が、女って! どこからどう見ても男だろ!」
「ご、ごめんなさい。だって、ほら、背格好も私と同じくらいだし、髪の毛が黒くて長くて、とってもきれいだし、顔立ちもすごくきれいで、きれいすぎててっきり女の子だとばかり……」
私は頬を両手で押さえ、それから相手に向き直った。
「わかったわ、男の子だったのね。今から男の子として接するわ。じゃあ、身体を見せてもらえる?」
「自分でやる!」
彼は、きっと私を睨みつけ、おろおろしている私を置いてのっそり立ち上がると、桶を持ち、
「借りるぞ」
と、バスルームの戸をばたんと閉めた。私は、やらかしてしまった、と目をつぶって上を向き、すぐに、彼に着替えを選ばなければと、いくつか服を厳選した。
「ここに替えの服を置くから、着られそうなのを選んでね! 私は下に行っているわね!」
呼びかけたものの、返事はなかった。
気を取り直し、あの子がいま食べられそうで消化によさそうなものを作ることにした。だしのきいた卵粥にしよう、と思う。庭で採れたリンゴも剥く。
しばらくして彼が下りてきた。私のズボンとシャツを着ている。着てくれてよかった。
「お腹は空いてる? そこへ座って」
「着替え、ありがとう」
ぼそぼそした調子で、素直にお礼を言う相手に、私はにこりとして、お粥とリンゴを運んだ。
「うまい」
卵粥を口にして彼がつぶやくので、ほっとする。
「あなた名前は?」
「ヒース」
スプーンを口に運ぶ合間に少年が答える。
「いったいどうしてあんなところに倒れていたの? あら、もっと食べる?」
あっという間にお粥を平らげたヒースへ問いかけるが、いや、ありがとう、ごちそうさま、と彼は意外と丁寧に手を合わせた。
「リンゴもどうぞ。詳しいことを答えたくなければ無理には聞かないけれど……」
リンゴを頬張るヒースは、言動と裏腹にやはり儚げにきれいで、この子に何か辛いことがあったのなら、何とか力になってあげたいと私は思った。
彼は食べる間にどうすべきか考えているようだった。やがて話し出した。
「実は俺も魔法使いなんだ。まだ弟子だけど」
予想外のことで、私は目を丸くした。
「そうなの?」
「黒の魔法使いのザラムって聞いたことあるか?」
私はあまりほかの魔法使いに会ったことがない。おばあさまのところへたまにやってくる人がいると、お茶を出したり、少し挨拶する程度だった。
「うーん、どんな人なの?」
「王国に仕える魔法使いで、いつも黒ずくめだからかそう呼ばれてる。黒魔術とか、あやしい魔法も使ってるのかもな。俺は見たことないけど」
「悪い人なの?」
私は心配になった。相手は肩をすくめた。
「わからない。でも、俺の母親が亡くなった時、ふらっと現れて俺を無理やり弟子にしたんだ。俺はずっと逃げる機会をうかがっていて、ついにこの前、転移魔法について書かれた本を見つけた。それで逃げてきた」
と、ヒースは言った。だから彼を見つける前に妙な光が見えたのか。
「その魔法使いの居場所から、ここへは遠いのかしら」
「ザラムは王国の城のそばにある塔に住んでいた。ここはどの辺りだ?」
王国のお城といえば、ユルが天使の砦から飛んで数分のところにあると言っていた。
「ここは確か、王国の西の端っこにある湖のはずだから、だいぶ遠いわね」
「確かって、自分が住んでる場所なのに、ずいぶん曖昧な言い方をするんだな」
「ああ、あのね。この家、移動するのよ。ここへは今朝、来たばかりなの」
移動? とヒースは興奮したように少しだけイスから立ち上がった。
「この家って、家ごと全部か? あんた、フィーだっけ? すごい魔法使いだったんだな」
ええと、と私は目を泳がせた。
「実を言うと私もついこの間まで弟子だったの。おばあさまが亡くなってこの家を受け継いだけど、すごいのはこの家だけで、私は魔法はあんまり……」
そうなのか? と、疑うように彼は私を見やる。
「じゃあ、転移魔法は?」
「できないわ。家が動いてくれるし……」
「手から炎を出したり、水を操ったり」
「うーん」
「それじゃ、これは?」
突然、彼が花瓶に生けてあった白い花を取り上げ、私の前に差し出した。花はふにゃりと形を変え、みるみるうちに白い小鳥になった。
「すごい……」
小鳥は羽ばたいて、次の瞬間には、かわいらしい音を奏でるオルゴールに、オルゴールはするするほどけるように細い糸になり、糸は再び形を作り、彼の手の中には最初の白い花が元通り収まっていた。
彼は、にっと微笑んだ。すごい! と私は拍手していた。
「教えてやるから、持ってみろ」
「え、私には無理よ」
彼が白い花を、いいから、と差し出すので、私はおずおずとそれを受け取り、彼に物の姿形を変える魔法のやり方について講義を受けたが、やっぱり私には才能がないのか、花がゼリーみたいにぶるぶる震えただけだった。
「ヒースは魔法が得意なのね。それにとても楽しそうだわ。黒の魔法使いの弟子でいるのは嫌だったの?」
お茶を飲みながら話を聞くと、ヒースは少しうつむいた。
「まあ、色々あってね。俺は、魔法使いにはならないよ。少なくともあの人の下では」
何か辛いことがあったのだろう、と私は察して、話題を変えた。
「ヒースは、何歳なの?」
「十四だけど?」
「私のほうがお姉さんね」
「フィーはいくつなんだ?」
「十五よ」
腰に手を当てて偉そうにするが、
「なんだ、一つ違いか」
と笑われてしまった。
ヒースには私のベッドを貸そうと思ったのだけれど、悪いからと断られてしまった。結局、彼は居間のソファーで寝ることになった。
「喉が渇いたり、お腹が空いたりしたら、台所のものを自由に飲んだり食べたりしてね。それじゃ、灯りを消すわね」
「フィー」
ヒースがソファーから少し身を起こした。
「何?」
「ありがとう」
私は微笑んで、
「どういたしまして」
と灯りを消すと、二階に上がって自分のベッドに潜り込んだ。
これからどうしよう。ヒースには帰る場所がない。私はちょっと考えた。それならここに住めばいいのかもしれない。野菜や果物はたっぷり採れるし、部屋は……、そうだ、おばあさまの部屋をまた使えるようにしよう。ヒースの使う物も、ユルに頼めば調達してもらえるはず。明日、ユルが来たら頼んでみよう。
「だめです」
にこにこしながら、ユルはきっぱりと断言した。ヒースのことを話し、ここに彼を住まわせる相談をしたところだった。私はほとんど叫ぶように尋ねた。
「どうして?」
「フィー、あなたはもっと、自分が年頃の娘であることを自覚すべきです」
「どういうこと?」
うーん、とユルは困ったように腕組みするし、一緒に聞いていたヒースまで呆れたような顔をしている。
「そもそも、彼が本当のことを話しているという証拠もないのに、信用するのはあまりに早計です」
ユルの言葉に、何? とヒースが立ち上がる。ユル! と私もいさめる。
「ヒースを嘘つき呼ばわりしないで! 表で倒れてた上に、ほかに行くあてもないのよ!」
ユルはため息をついて、一時、考えたようだった。
「それでは彼のことは、我々の砦で預かります」
「俺は、あんたなんかの世話にはならない!」
ヒースが大きい声で言い放つ。
「わかっていないようですね」
ユルは少し冷たい笑みを向けた。
「お世話するつもりはありません。便宜上、保護するんです」
いいですか、とユルはようやくヒースと向き合った。
「黒の魔法使いの弟子だと言いましたね」
「そ、そうだ」
「彼が黙ってあなたを見逃すと思いますか?きっと容易く居場所を突き止めるはずです。その時、ここにいては、あなたにも、そしてかくまったフィーにも、何らかの危険が及ぶかもしれません」
ぐっと押し黙り、ヒースはうつむいた。
「翼人の砦は、王国に近いですが、警備は万全です。黒の魔法使いがやって来ても、あなたに手出しはさせないと保証します」
どうしますか? とユルは尋ねた。ヒースはほどなく顔を上げた。
「行くよ。その砦とやらに」
「……ヒース」
私は何か言おうとしたけど、言葉が出てこなかった。ヒースは頭を下げた。
「連れて行ってください。お願いします」
わかりました、と言うユルを、私は隅っこに引っ張って行った。
ユルの言うこともわかっていた。自分にヒースを助ける力がないことも。私はユルを見上げて小さな声で言った。
「お願い。ヒースのこと、絶対に守ってあげて」
ユルはいつものようにまっすぐに微笑んだ。
「約束します」
庭に出て、ユルが指笛を吹いた。空がぴかっと光り、翼の生えた白い馬が宙に現れ、羽ばたきながら庭に降り立った。
「ペガサス……」
私はぽかんとして、その白い馬に歩み寄るユルを見た。彼は馬を落ち着かせるように、顔のあたりをなでてやっている。
「私、こんな馬、初めて見た」
「俺も」
ヒースも驚いたようにつぶやく。
「近づいてもいい?」
尋ねると、ユルは、
「どうぞ」
と微笑んで、手綱を掴みながら私たちが触れられるように馬をこちらへ向けてくれた。
顎のあたりをそっとなでてやると温かい。
「きれいね」
ペガサスはばたつかせていた翼を折りたたんで、大人しく鼻面を私に寄せた。ヒースがおそるおそる触れると、くしゃみをして彼を驚かせた。
ユルがペガサスの背にまたがったあとで、ヒースがよじ登るようにしてユルの前に乗る。
「気をつけてね」
私が声をかけると、ユルはうなずいた。
「フィーも。何かあったらハヤブサで知らせてください」
「フィー、ありがとうな!」
ヒースも振り向いて言った。ユルが足で合図を送ると、ペガサスはたたんでいた羽を広げ、小走りになり、やがて宙に浮かび上がった。
遠ざかっていく彼らに、私は手を振り続けた。
「グレタのレシピ」〜一口メモ〜
「卵粥」:卵粥は弱った身体にちょうどいい。栄養も取れるし、食欲がなくても食べやすい。フィーが風邪でも引いたら作ってやっておくれ。




