第四章「天使の砦」前編
その日、私はクッキーを焼いていた。すりおろしたショウガの汁を入れたジンジャークッキーだ。ユルと小さなお茶会を開く約束をしていたので、今度は私がお菓子を用意してもてなそうと張り切っていた。しかしクッキーができあがっても、待てど暮らせどユルはやって来なかった。
おばあさまがいたときは、週に一回ぐらいの訪問だったけど、おばあさまが亡くなって、家や私のことがよほど心配なのか、ユルはここのところ、ほとんど毎日のように魔法の家を訪れていた。来られない時は、前もってそれを知らせてくれていた。
きっと何か他の用事ができてしまったのだろう、と、私はジンジャークッキーを戸棚にしまった。
次の日も、私はクッキーを焼いた。しかし、ユルは姿を現さなかった。そして、次の日も、次の日も……。
私は朝起きると、まず窓辺の木の上を確かめた。畑仕事の最中もしきりに空を仰いだ。ユルがいつ来てもいいように、クッキーも焼き続けた。おかげでクッキーばかり食べて過ごした。嫌な予感が黒雲のようにもくもくと、胸の中で大きくなっていった。
七日目、屋根の上に人影を見つけた私は、
「ユル!」
きちんと確かめもせず大きく手を振った。逆光でよく見えなかったけれど、その人影は私に見つかったのが意外だったのか、屋根の上で少し身じろぎしただけで、しばらく降りてこなかった。この辺りで私も、あれ? ユルじゃないかもしれない、と気づいた。
目を凝らしていると、やがてその人は翼をふわりとさせて私の前に降りてきた。やはり天使だったらしい。紋章付きの長衣も着ている。でもユルじゃない。赤い髪の毛で、少しいかつい、今まで会ったことも見たこともない天使だった。
「おい、娘っ子、この家にグレタの弟子のフィーという女はいるか?」
その人は辺りを見渡してから、唐突に私へ尋ねた。ユルに何かあったのだろうか、私は心配になりながら答えた。
「フィーは私です」
ええ? と赤毛の天使は怪訝そうな顔をして私をじっと見て、
「ふざけるのはやめ……、本当なのか?」
私がきょとんと見返すのに、途中でなぜかぎょっとなって、それからまじまじと私を眺めた。
「ユルのやつ、いや、まさか……」
何かぶつぶつ言っている。
「あの、ユルの知り合いですか? ユルはどうかしたんでしょうか?」
彼は、ごほんと、咳をした。
「俺はエイデンだ。ユルの代わりに来た。ユルは怪我を負って、しばらく来られない」
怪我? 胸の辺りがすっと寒くなった。
「大丈夫なんですか? 怪我っていったい……」
「怪我は……、もうだいぶよくなった。ただ場所が翼のある箇所だったもので、しばらく飛べないんだ」
「どうして怪我なんて」
うーん、と彼は言い淀んだ。
「七日前、国の北部で魔物が出て、俺たち翼人騎士が駆り出された。その時にな」
七日前、お茶の約束をしていた日だ。ユルが騎士なのは知っていたけど、そんな危ないところへ行っていたなんて。
私の顔色を見て、相手はきっぱりと、でも慰めるように言った。
「命に別状はないから安心しろ。じゃあ、そろそろ家について報告をしてもらおうか」
私は少々困った。
「報告…… って、どんなことですか?」
「それは、まあ、色々あるだろう。ユルはいつもどうしてるんだ?」
「ユルは別段、家の事は何も聞きません。ただ私とおしゃべりしたり……」
「おしゃべり? 何を?」
「色々です。おばあさまが亡くなってからはしきりに私を気にかけてくれました。ちゃんと食べているのかとか。あ! 猫たちの世話をしてくれたり、私にパンケーキを作ってくれたりもするんです!」
エイデンは口をあんぐりさせた。
「あいつが? そんなことを?」
「はい、エプロンを着て、すごく上手にパンケーキを作ってくれます! この前は、私が出かける間に留守番も引き受けてくれたんですよ!」
ユルがどれだけ親切か伝えたかったのだが、エイデンは、エプロン、パンケーキ、留守番、とつぶやいて、口を押さえ、肩を震わせ始めた。
「エイデンさん?」
泣いているのだろうか? と心配になって見上げるが、どうも相手は涙を流して笑っているらしい。
「あ、あいつ、あのユルが? 鉄仮面の、無双の槍使いの、氷の副騎士団長が?」
腹が痛え、とお腹を押さえて、目尻を指で拭っている。
鉄仮面、槍使い、副騎士団長、と今度は私がつぶやく番だった。
「ユルって、鉄仮面の、槍使いの、副騎士団長なんですか?」
「おう、そうだぞ、いつもすました顔してるが、槍の腕はピカイチで、本当は団長になる実力も器もあるくせに、本人がなぜか承諾しないんだ」
私は眉をひそめた。
「私、ユルが槍を持ってるところ見たことありません。それにいつもにこにこしてるし、副騎士団長なのも知りませんでした」
にこにこ……? と彼は気味悪そうに声を上げる。
「おい、それは本当に俺の知っているユルか? やつは二重人格か? それとも同じ名前の別人でもいるのか?」
私もちょっと自信がなくなってきた。
「ユルはおばあさまが亡くなってから、ほとんど毎日のように来てくれるんです。そんな調子で副騎士団長の仕事もできるんでしょうか?」
なるほど、と相手はあごに手をやった。
「それでこのところ様子が変だったんだな」
「変?」
「夜の見張りだの、事務仕事だの、寝る間を惜しんでやっていて、訓練は怠らないし、有事の際には誰より早く駆けつけるが、昼間に、任務だと言って姿を消す時間がある」
おそらく、その時間にここへ来ていたのだろう、と彼は腕組みした。
「今日も俺に頼みがあるというから聞けば、魔法の家の様子を見に行ってくれという。そこに家の番をしているフィーという娘がいる、約束をしたが守れなかったから、自分がわびていたと伝えてほしいと。この流れで俺はピンと来たね!」
声高に言って、彼は人差し指をかざしたが、私を見下ろして、ううむ、と指を折り曲げた。
「……だが、俺の勘違いだったようだ」
「何がですか?」
「まあ、嬢ちゃんは気にしないでくれ、では何事もなければ、俺は失礼するとしよう」
飛び立ちかけた天使を、待って! と私は引き留めた。
「もし、ユルのところへ帰るなら、ジンジャークッキーを持って行ってくれませんか?」
「ジ……何だって?」
「クッキーです。あの日、お茶会をする約束をしていたんです」
エイデンはうなだれて、片手で顔を覆ってしまった。
「面白いも度が過ぎると笑えんもんだな……」
「え?」
「わかったよ、フィーの嬢ちゃん」
「……はい」
「俺たちの砦に連れてってやる。クッキーは直接、ユルに渡せ」
「私が行ってもいいんですか?」
「ああ、ただし、ちと遠いぞ」
ユルに会える、と思うとぱっと明るい気持ちになった。顔に出ていたのか、私を見て、へへっとエイデンもつられて笑った。
「行くなら、よく着込んできな」
「着込む?」
「ああ、空を飛ぶのは人間には寒いらしいからな」
と、空を見上げる人にならって、私も上を向く。太陽が輝いて、青い色は澄み渡っていた。
カバンにクッキーを入れて、キルトのコートと帽子と手袋とマフラーを身につける。そのくらいは入り用だとエイデンに助言された。
猫たちに早めのごはんをやって、家全体に目くらましをかけた。これで私の許可なしには、誰にも魔法の家は見えなくなった。あとは家が気まぐれを起こさなければよいのだが。
ほほう、とエイデンも感心したように家の消えた場所を、じっと眺めていた。
「それで、いったいどうやって……」
私が振り向いて問いかける途中で、彼はひょいと私を抱えあげた。私はバランスを崩し、彼の首にしがみついた。
「エ、エイデンさん、高くて、ちょっと怖い……、それにちょっと恥ずかしいです」
「仕方ないだろ。我慢しろ。飛ぶのに邪魔だからおぶれねえんだよ。それにこれからもっと高く飛ぶぞ。このくらいで怖がってるようじゃ、やめたほうが……」
「いえ! 行きます! 連れていってください!」
私は気を強く持ち直し、相手の目を見て断言した。本当に大丈夫かあ? と彼は眉を斜めに下げていた。
「それじゃあ、飛ぶぞ。しっかりつかまってろよ」
半透明の黄金色を帯びた翼を羽ばたかせ、その人が助走をつけた瞬間にふわりと浮かび上がった。
私はあまりの怖さに、相手が苦しがるまで首を絞めてしまい、慌てて謝り、手を緩めた。薄目を開けるだけにして、なるべく周りを見ないようにする。そうでないとパニックになりそうだった。
「飛ぶのは初めてか?」
耳元に声が降ってきた。風もごぼごぼうなっている。
「そうです!」
「ユルと飛んだことはないのか?」
「ありません!」
そうか、と何だか面白がるようにエイデンは笑った。
太陽は近いのに、風が冷たい。いや、私たちが風になり、空中を吹き過ぎているのだ。どうりでこの冷たさが止むはずもない。
「ユルは槍を持っていないわけじゃない」
飛んでいる最中、エイデンは色々な話をしてくれた。「ある程度の手練れになると、武器を自分の中に持つようになる」
「自分の中ですか?」
「ああ、それでちょうど背中の翼みたいに、必要な時にだけ取り出せるようになるんだ。俺の場合は剣だな」
「見てみたいです!」
「今は無理だからまた今度な。ところでユルはクッキーなんか食うのか?」
「食べると思います。パンケーキは食べてましたし」
私は小さい頃におままごとでユルにスミレの花を食べさせた話もした。
「つくづく嘘みてえな話だな。こりゃ、ユルの顔を見るのが楽しみだ」
びゅん! とスピードが速まって、私は悲鳴を上げた。
私とエイデンは三十分ほど飛び続けた。その頃には私も少し周りの風景を見られるようになっていた。眼下には平らな砂地が広がっていて、緑はぽつぽつあるだけ。行く手には巨大な岩山が横たわっていた。
「そろそろ着くぞ」
その岩山の手前で、エイデンはゆっくりと下降していった。
久しぶりに地面に降ろされて私はよろけた。
「大丈夫か?」
「平気です。エイデンさんは重くなかったですか?」
鍛えてるからな! とその人は腕を叩いて笑った。
そんな私たちの様子を間近で見ていたのだろう。門の前の兵士二人は、ぽかんとしていたが、エイデンが声をかけると、またびしっと姿勢を正した。でも二人とも不思議そうに私のことを横目で追っているのがわかった。




