第三章「雨の日の過ごし方」
朝から土砂降りの雨だった。傘をさして畑の様子を見たあと、家に戻る。
髪の毛など濡れたところを拭きながら、玄関でため息をついた。雨は嫌いではないけれど、今日はお日様の光を浴びたい気分だった。
猫たちも外に出られず退屈そうだ。ブチはしきりに顔を洗っているし、トラはイスの上でうとうとしている。シロは窓からじっと表を眺めていた。
「シロ、遊びましょう」
私は猫じゃらしを取り出し、しばらくシロと鬼ごっこをして部屋を駆け回った。しかしそれもシロの興味が続くまでのことだった。シロは何度目かに私が猫じゃらしをじゃらつかせると、ふうとため息をついて横たわり、毛づくろいを始めてしまった。
仕方がない。他のことをしよう。水周りの掃除を終えて、お昼のサンドイッチを頬張る。カフェオレをのんびり飲んでいたら、雷が遠くでゴロゴロいいはじめた。この調子だと、ユルは飛んでこられないだろう。
二階の窓から外の様子を見やる。雨風が打ち付けて、ざあざあ、がたがた、音がする。何をしようかしら。本当は部屋の整理整頓とか、しなくちゃいけないことはたくさんあるけれど、どうも気が進まない。
ふとクローゼットの戸に吊るしてある、ラベンダー色のワンピースに目が留まる。この前、町で手に入れたものだ。まだ家では袖を通していない。きれいだな、と眺めてうっとりするだけだった。
今なら誰もいないし、ほんの少しならいいかな? と、私はお店で着て以来、初めて、そのワンピースを身にまとった。
辺りの湿気を含んで重たい感じはあるけど、ふんわりしていて触り心地がよい。ラベンダー色のひだが足元で揺れて、白い糸の刺繍が見え隠れする。袖もたっぷりしていてかわいらしい。その場でちょっとゆらゆらしてから、おそるおそる、姿見に自分を映す。
やっぱり何となく気恥ずかしい。でもせっかくのワンピースだ。鏡の前で不器用にくるりとし、スカートの裾を持ち上げてみる。きれいなドレープだ。私はワンピースの美しさに釘付けになる。私が揺れると、布地もきれいな輪郭を描いてふくらんで、またすぼまる。
片足を後ろに引いて、裾を広げ、お辞儀をしてみれば、ワンピースは鏡の向こうで、ぎこちなく、けれども優雅にカーテシーを返してくれる。私は感激し、吐息をついて目をしばたかせた。なんてきれいなワンピースなんだろう。
それから繰り返し、お辞儀の練習をしたり、くるくる回って、服の広がり具合を確かめたりした。猫たちは、何をやっているんだろう、というように遠巻きに私を眺めていた。私も、うーんと上を向き、このワンピースを着た人がやりそうなことを考えた。
そうだ、と思いついて、かつておばあさまの部屋だった場所から、蓄音機と古いレコードを持ってくると、居間の開けた場所で音楽をかけ始めた。
ピアノの音が弾むのに合わせて、私もふわりふわりと回ってみる。踊ったことはないけれど、きっとこのワンピースを着たら、その人は踊りに行きたくなるはずだ。ラベンダー色の柔らかな布地と繊細な刺繍が、複雑に揺れ動くのを、もっと見てみたくなって。
雨音が強まり、ピアノの音をかき消すくらいになると、だんだん恥ずかしさもなくなり、楽しくなってきた。そばに来たシロを抱き上げ、ターンすると、じたばた嫌がるから下ろしてやり、足元をすり抜けていくのをよけるようにして、またくるりと回る。
近くにあるものをダンスに巻き込んでいく。一人目は立てかけてあったホウキ、二人目はクッション、三人目はブランケット。くるくると踊りながら台所へおもむいて、じゃがいもを入れていた麻袋を見つけた。そうだ、これをホウキにかぶせて、紐で縛って、ストールを結びつけて腕にすれば、麻袋頭のホウキ紳士の出来上がりだ。私はうふふと笑って、ホウキ紳士を片手で支えつつ、さっき練習したカーテシーを披露した。
「わたくしと踊ってくださいますか? ……ええ、喜んで」
一人二役に自分でもおかしくなってしまう。そのまま音楽のキリの良いところを待って、紳士と回転し始めたところで、玄関に人影を見つけて固まった。
羽織ったローブから水を滴らせているユルが、きょとんとした様子で立っていて、私と目が合うと、いつものように、にっこりした。
「お姫様、わたくしに何か拭くものを貸していただけるとありがたいのですが」
私は固まったまま、顔がぼっと火のように熱くなるのを感じた。やっとのことでホウキ紳士をそっと足元へ置く。二階のバスルームからタオルを持ってきて、無言でユルに渡し、再び二階に上がると、ベッドにもぐり込み丸くなった。
しばらくすると相手が階段を上がってくる気配がした。彼はベッドの端に座り込んだ。
「お姫様、大丈夫ですか?」
ちょっと笑いを含んでいるのがわかる。もう、放っておいて! ユルなんか嫌い! と八つ当たりしたかったけれど顔を出すのも恥ずかしかった。
毛布の上から頭の辺りに手を置かれたのがわかった。
「フィー、せっかくの服がぐしゃぐしゃになってしまいますよ」
「恥ずかしくて、消えちゃいたい」
私は毛布にくるまったまま、のろのろした調子で正直に言った。
「どうしてですか。とてもかわいらしいのに」
服がかわいいのはわかっている。問題は私のさっきのありさまを見られたことだ。この恥ずかしさは、褒めればどうにかなるってものじゃない。私がいっそう縮こまったので、ユルもあきらめたのか、しばらくすると、
「今日はね、パンケーキにジャムをのせてみようと思って持ってきたんですよ。下で作りますから、後で来てくださいね」
ぽんぽんと毛布を叩いて、立ち上がると、また階段を下りていった。
彼が完全にいなくなったのを毛布の隙間から確認して、がばっと起き上がると、私はすばやく服を着替えた。顔がまだ熱かったけど、ワンピースは丁寧に吊るして、しわを伸ばした。
「やっぱりきれいなワンピース」
私はつぶやいた。ワンピースに罪はない。大事にしよう。
部屋でぐずぐずしていたら、下から甘い香りが漂ってきた。抗えず、階段の柱の隙間からこっそり台所のほうをのぞく。
ユルが台所からテーブルへ物を運んでいく途中で、私に気がついて、ふっと笑いかけた。
「もうすぐできますよ。お茶の準備を手伝ってもらってもいいですか?」
わかった、と私も台所に立って、ポットとカップを棚から取り出した。音楽はもう止まっていて、ホウキ紳士は壁に立てかけてあった。気まずい……。
リンゴジャムとクリームを添えたパンケーキは、甘酸っぱくてとてもおいしかった。熱い紅茶で気分もだいぶよくなった。
ジャムは昨日の晩にユルが煮たのだという。うまくできたので私に食べさせたくなって、土砂降りだったけれど、来てしまったのだと彼は笑った。ユルが夜中にジャムの鍋を真面目に見張っていたかと思うと、ちょっと面白くて、重い気持ちが晴れてきた。
「ありがとう。すごくおいしいよ。でも雷が鳴ってたから、危なかったでしょう?」
「はい、飛んでいる途中で鳴り始めて、少し怖かったです」
と、相手は困ったような顔で笑って、お茶を飲んだ。雨は小降りになったようだし、雷の音ももうしないから、帰りはきっと大丈夫だろう、と私は窓の外へ目をやる。
「ところで、フィーにお願いがあるのですが」
カップを置いて、ユルが話し出す。
「お願い? 何?」
「実はこれまで国王陛下から、何度か、パーティーに出席するようお誘いを受けていまして」
「パーティー?」
ちょっと前の私なら、その響きにわくわくしていただろうけど、さっきのことがあった今はあまり聞きたくない単語だ。ユルは考えるようにあごに手をやって、珍しく憂鬱そうにしている。
「ところが私はあまりダンスが得意でなく……。それで、フィーに私の練習相手をしてほしいのです」
「無理よ! 私だって踊れないもの!」
さっきの見てたでしょう? と言いたくなるのをぐっとこらえる。恥ずかしさがまた込み上げてくる。
「では、私が踊れているか、見ていてくれるだけでいいので」
そう言うと、ユルは立ち上がり、
「ちょっとこの方をお借りしますね」
とホウキ紳士を手に取った。そうして両腕を構えると、
「いち、に、さん……、いち、に、さん……」
と前に進んだり、後ろに下がったりし始めた。動きが小さくてぎこちない気もする。
「ここで相手がターンします」
ホウキ紳士をくるりと回すけれど、うまくキャッチできず、紳士は床に倒れた。おやおや、とユルは拾い上げ、また、いち、に、さん……、いち、に、さん……とやり始めた。
「どうでしょう。踊れていますか?」
うーん、と私は首をかしげた。私に聞かれてもよくわからない。
「音楽をかけたほうが、やりやすいんじゃない?」
そうですか? と、ユルは蓄音機を動かして針を落とす。ピアノの音が流れ出した。そして彼は、ホウキ紳士を壁に立てかけると、私へ手を差し出し、
「このホウキの方は踊りにくいので、フィーが代わりに、ここに立っていてもらえませんか?」
と言う。私は、ううむ、と眉をひそめたけど、音楽は流れているし、ユルがずっと手を差し伸べているので、
「立っているだけよ」
と手を取って立ち上がった。
本当に立っているだけ。そのつもりだったのに、いち、に、さん……、いち、に、さん……。前へ後ろへ、と目の前の人が動いていると、突っ立ったままでは邪魔になってしまうので、私も何となく、後ろへ前へ、と相手とは逆に動いている。そして、いち、に、さん……、いち、に、さん……と、ステップを追いながら、いつしか私も頭の中で数えていた。
いち、に、さん……、いち、に、さん……前へ後ろへ。いち、に、さん……、いち、に、さん…… 右へ左へ。
「ここで相手がターン」
ユルが私の片手を持ち上げたとき、私はためらいなく、くるりと回った。だんだん、いち、に、さん……、がいらなくなってきて、音楽の流れに乗れるようになる。タン、タン、タン……、タン、タン、タン……、ちょっと楽しくなってきた。
前へ後ろへ、右へ左へ。足元ばかり見ていたのが、次第に背筋を伸ばし、顔も上げられるようになる。ユルが笑うので、私も、ふふっと笑った。
音楽が終盤に差し掛かり、私がターンすると、
「お辞儀をしましょう」
私はカーテシーをして、ユルは私の手を取ったまま丁寧なお辞儀をした。しゃんと音楽が止む。いつの間にか、そばのソファやカーペットの上に猫たちが集まってこちらを見ていたので、私たちはその観客たちにも大げさなお辞儀をして見せた。
「どうですか、私のダンスは大丈夫そうですか?」
「ばっちりよ」
私は息を弾ませて言いながら、きっとユルは元から踊れるのに、踊れないふりをしてくれたんだろうな、と思った。
何だかユルの気遣いに、上手に乗せられてしまった感じもしたけれど、こうして音楽に合わせて身体を動かしていたら、ただ楽しくて、今はそれだけでいいや、という気持ちになった。
「それでは姫君、わたくしともう一曲、踊っていただけませんか?」
ユルがかしこまって身をかがめ、右手を差し出す。
「そうね、踊ってさしあげても、よくってよ」
私もわざと尊大な口調で返して、彼の手を取り、こらえきれずに先に笑い出してしまった。
「グレタのレシピ」〜一口メモ〜
「パンケーキのアレンジ」:普通の味に退屈したら、ジャムやクリームでアレンジしてもいい。人生と同じ。




