九話 女同士の話
「……え?」
アイナグルは思わず声が漏れた。静かな天幕にはぱちぱちと燃える炎の音と、衣擦れの音だけが響く。
「お前は若い。出産に耐えられるほど健康だ」
そう話すエルケの頬は痩けていて、手は骨がうっすらと浮かび上がっていた。バティルがアイナグルを寵愛するのは「若い」からだとアイナグルは以前結論づけていた。エルケが子供を産めないから、アイナグルに代わりをさせたがったのだろうか。
「私はね、他のカトゥンの息子たちはカガンの器ではないと考えている」
カガンは名目上、実力で選ばれることになっているが遊牧民は末子相続が基本だ。末子が親の大部分の財産を受け継ぐことができ、カガンの地位をめぐる争いを有利に進めることができる。
アイナグルは三つ編みの先端を掴んだ。エルケは知らないのだ。アイナグルは真の意味でバティルとは夫婦ではない。しかし、何でも見透かしていそうなエルケが知らないということはバティルが本当に二人だけの秘密を守ってくれていることに他ならなかった。
「私は歳をとり過ぎた。先代のカガンの妻でもあったが、結局は子を孕むこともなかった。きっと私は女として不出来なのだろう」
「そんなことはありません。エルケ・カトゥンは多くのものを持っていらっしゃるのに、不出来なんて…! 子を授けてくれる天が少し意地悪なだけなんです」
アイナグルは拳を握りしめていた。後継を産まなければ地位が盤石にはならないのに、子を持たずに皇后としてここまでやってきた実力のあるエルケが自分を卑下するのが許せなかった。エルケが不出来ならアイナグルはどうなるのだ。
「ふふっ…。そんな必死に否定しなくても。お前の優しさは伝わったよ。さすが慈愛深き皇妃だな」
気づけば体が前のめりになっていたので、アイナグルはエルケが思わず笑ってしまうほど必死になっていた自分に気づき顔を赤くして姿勢を正した。
「…私には荷が重いです。カガンをお慕いしている女人なら他にもいます。ジャハーン・グンジとか…」
妻が恋敵の女を新たな妻に推挙するという奇妙な光景に見えたことだろう。否、そもそも妻が別の妻に「私の代わりに夫の子を産んでくれ」と頼んでいる時点でおかしいのだろう。
「ジャハーン…あの子は別の部族に嫁にやるよ」
エルケがなんでもないかのようにあっさりと語るのでアイナグルは目を見開いた。
「ジャハーン・グンジはカガンをお慕いしているようですし、エルケ・カトゥンにすごく懐いて…」
「ジャハーンが懐いているから、ずっとそばに置いていてやろうと私が考えると? あの子に会えなくなるのは寂しいが、それで政局を見誤ることはない」
この人はたとえ愛している人でも必要に迫られれば冷徹に切り捨てることができる人なのだとアイナグルは背筋に悪寒が走る。
「南の部族が税を拒んでいてね。カガンの求心力を高めるためにジャハーンを嫁にやる。兵を送るより嫁を送る方が安い。それにジャハーンの父も有力な属領を持っているからね。ジャハーンがカガンの妻になってしまえば権力が集中しすぎるんだ」
家畜の骨の賽を振るように、エルケは大局を見据えていた。
「牧地の羊が減っている。西域の商人が増えた。第三妃が娘を他部族へ嫁がせようとしている。この三つは繋がっている」
エルケは淡々と語った。羊の数が減っているのはアイナグルが記録を見たときに気づいたことだった。
「羊が減っているのは草の質が悪いからでは」
「その質の悪い牧草地を使うように仕向けたのは第三妃だ。第三妃はお前のオルドを弱体化させようとしているよ」
確かにバティルが軍を出したので、商人の往来が活発になった。西域の商人も増えた。アイナグルも干し葡萄を食べた覚えがある。
アイナグルは商人たちから噂を集め、宗教を保護していたが、その商人の往来そのものに疑問を向けたことはなかった。バティルの軍の動きに連動して商人たちも動くだろうと浅いところで考えるのをやめていた。
それ自体が誰かが糸を引いているものだとは思わずに。だが、第三妃の企みはうまくいっていない。アイナグルが宗教を保護し民が集まったことにより、アイナグルのオルドは大きくなってしまった。
「お前は意図せぬところで第三妃の企みを潰してしまったようだね」
エルケは穏やかに笑う。アイナグルは自分が気づかぬうちに政治の世界に足を踏み入れたことを実感していた。バティルが女同士の諍いにアイナグルが巻き込まれることを恐れて何も言わなかった意味がわかった。
怖い。恐怖で身が竦む。何も知らないままバティルの金糸雀でいた方が幸せなのかもしれなかった。だが、停滞した幸福よりも自分の足で地を歩きたいと願う。
あの日、バティルに攫われた時無意識に覚悟を決めていた。闇の中へ、あるいは光の中へ。過酷な運命が待っていたとしてもここから逃げ出したいと。
「私はもう長くない。病魔が日に日に私を蝕んでいくのを感じる」
「そんな…!」
エルケの言葉にアイナグルは口元を押さえたが、以前よりも明らかに痩せてしまったエルケを見て「もう長くない」という言葉が嘘ではないことがわかる。
エルケがジャハーンを嫁がせるのは第三妃が娘を嫁がせようという企みを先回りして潰す意図もあるだろうが、自分を慕ってくれているジャハーンに自分の死を見せたくないからではないだろうか。
近くにいれば衰えていく姿を見せることになる。まだ健康が許すうちにジャハーンを遠ざけておきたいのだろう。
「アイナグル、私の代わりにカガンの御子を産んでくれ」
エルケは改めてそう口にした。アイナグルの寵愛はいつ潰えるかわからない。だから、子を産んで地位を盤石にしろと助言した方がアイナグルの不安を煽って良いのかもしれない。
だが、エルケがそういう言い方をせずに「私の代わりに」という言い方をしたのはアイナグルに「皇后に命じられた」という言い訳を与えたのではないか。
バティルがアイナグルをエルケの代わりに子を産む女として見ていたとは思えない。彼はアイナグルが許すまで指一本触れないと約束して守ってくれている。
嫁にするために誘拐されたり、政治の道具として嫁がされたりするのが当たり前の中でバティルはアイナグルを尊重してくれている。
エルケに頼まれたからではない。寵愛に縋るように身体を許すわけでもない。まだ髪を解かせてやるのは、勇気がいるが髪に触れるくらいはバティルに許してやってもいいのかもしれない。
「真に私がバティル様を愛せた時は、彼に何かを返したいと思います。それが子を産むことなのだとしたら…大カトゥンの願いも叶うことになりましょう」
それが精一杯だった。アイナグルは言い終わると唾を飲み込んだ。
「…今はそれで良いよ」
エルケは少し残念そうな表情をしたがすぐにいつもの微笑みに戻った。エルケは他のカトゥンという選択肢もある中で、アイナグルを選んだ。
アイナグルがオルドの管理で認められたというのもあるが、一番寵愛を受けていたことも理由だろう。「私の代わりに」というくらいだから、エルケはもしアイナグルが子供を産んだら皇后として後ろ盾となり、アイナグルの子を我が子のように可愛がってくれるだろう。
アイナグルに後ろ盾はない。エルケの権力はありがたいことなのだろう。だが、すぐには頷けなかった。
バティルの真摯な想いにはアイナグル自身の想いで答えたかった。そこにエルケや他の人の名前を出したくない。バティルの想いに応えることがあるなら、「誰かに言われたから」という理由にしたくない。
彼が愛をくれるなら、こちらも純然たる愛で返さなければ失礼だ。滅ぼす敵部族出身の女など寵愛しても政治的な旨みは少ない。ならば、本当にバティルはアイナグルを愛しているのだろうか。
彼からの愛を少しは信じてもいいのだろうか。




