八話 慈愛深き
銅を磨いた鏡を覗き込む。脂っ気のない黒髪、日焼けして乾燥した肌、翠の瞳が映る。変わり映えしないアイナグルの姿だった。
アイナグルが愛されているのは若いから。若さを失えば居場所はなくなる。シリンに頼んで彼女の故郷の真珠の粉を使った美容品を取り寄せてもらうべきなのだろうか。
「美姫…には見えないわよね」
アイナグルはそっと肌を撫でた。攫った時は夜だったからアイナグルの姿がよく見えなかったのだろう。アイナグルは若い。だが、美しくはない。若い女なら誰でも良いという理由で寵愛されているのだろうか。
「エルケ・カトゥンは…多くのものを持っていらした」
アイナグルは鏡に映る自分にため息を吐いた。鮮明にエルケの姿が思い起こされる。エルケがガイニみたいに猫のような美貌を持っていたら、アイナグルは素直に「敵わない」と諦めていただろう。
エルケはバティルよりはるかに年上で、子をたくさん産むことを求められる妻としての役割ができる期間は短い。年増の石女と罵られることもあったのかもしれない。
骨の感触が皮膚を見ただけで伝わりそうなほどエルケは痩せていた。出産に耐えられるように、冬を越せそうな肥えた羊のような体型が好まれるので、美の対極にいるような容姿と言えるだろう。
「でも、エルケ・カトゥンは美しかった」
アイナグルは自分の口から悔しげに漏れた言葉に一瞬だけ驚いたが、すぐに納得した。エルケは美しいとはいえない容姿だが、知性を纏った彼女は美しかった。
頭の中のものは何者にも奪われません
シリンの言葉が蘇った。エルケは美醜の世界で戦ってはいなかった。知性の世界で戦っていたのだ。美貌や若さといった失われるものを武器にはしていない。
若さという刃はいずれ錆びる。寵愛という鎧は気まぐれに剥がされる。ならば奪われない武器を手に馴染ませなければならなかった。しなる弓のような。
「カトゥン、お目覚めでしたか」
シリンがお湯を張った盥を持って天幕へ入ってきた。アイナグルの洗顔用だが、その手にはお湯以外に優美な飾りがついた瓶を持っている。
「薔薇の香油でございます。肌や髪に塗り込むと良いですよ」
シリンが微笑む。薔薇の香油は皇妃に相応しい貴重な品なのだろう。アイナグルは自分が飾られれば飾られるほど息が苦しくなるのに気づいた。
黄金の天幕も、カトゥンという地位もアイナグルには相応しくない。それは銅鏡に映ったアイナグル自身が証明している。エルケのように実績があるわけでもない。
ジャハーンがアイナグルを目の敵にする理由もわかる。敵対していた部族の女が、なぜかわからないがカガンから寵愛されているのは面白くないだろう。
それにバティルから愛を囁かれているアイナグルだからわかる。ジャハーンはバティルに好意を抱いている。血縁という親愛ではなく男女の愛を。
「…いい香りね」
アイナグルは小瓶から漂う芳香に口元を緩める。
「お肌に塗ればカガンも喜ばれるかと」
シリンの言葉にアイナグルは固まった。肌に塗った香りがバティルの鼻に届く様を想像して顔が熱くなる。しかし、ハッとして急激に頭が冷えていく。
肌の香りを嗅がれるということは、服を脱ぐということ。シリンはアイナグルが夫婦の契りを交わしたと固く信じているから、香油もアイナグルが寵愛を受けるためのささやかな道具くらいに考えているだろう。
だが、アイナグルは未だ夫婦の契りを交わしていない。
ナイマト族という出身、ジャハーンの女としてバティルに向ける愛、政治的な立場を支えるエルケという存在。その全てがアイナグルを焦らせた。
何を焦ることがあるのだろうとアイナグルは鏡に映る自分に問いかける。もともとバティルが攫いに来なければアイナグルは狼の生贄になって死んでいた。今の状況こそ、天から降ってきたようなものだ。
最初からバティルを受け入れるつもりなんてなかった。だからこそ、白いスカーフを拒否して逃げて契約を交わしたことによりようやく形だけは受け入れたふりをした。
アイナグルはバティルに何も与える気はなかったのだから、彼に他に妻や懸想する女がいようともアイナグルは何も焦る必要はないはずなのに。
バティルの気まぐれが終わったら、アイナグルは静かに死を受け入れればいい。狼の牙に貫かれるか、曲刀に斬られるかの違いだ。
「一度は死んだ身。なら、何でもできる」
アイナグルはシリンには聞こえないように、言い聞かせるように呟く。あの日、ナイマト族のアイナグルは狼に喰われて死んだ。
髪をきつく三つ編みにしていく。エルケという存在に打ちのめされていたが、美しくなくとも知識があればバティルの隣に並び立てるということの証明なのだ。
兵法書は今の状況だと手に入れることはできないだろう。ぴりぴりとした空気が漂っている中でアイナグルが兵法書を手に入れたらジャハーンのように反感を持たれる。
エルケも稀代の戰上手として皇后に君臨しているわけではない。カトゥンの仕事は天幕を管理すること。夫が遠征で空けている間に領地をつつがなく回すことだ。
「シリン、帳簿を持ってきて」
シリンは「かしこまりました」と恭しく頭を下げる。武器の売買の帳簿は手に入れられないが、兵糧の備蓄や薬の備蓄の帳簿はアイナグルでも手に入れられる。
ナイマトの滅亡にアイナグルは加担している。だが幕屋で全てが終わるのを待って、バティルに全ての責任を押し付けたくない。
「私だって共犯者よ」
歴史的に敵対してきた侵略者より、出身でありながらも敵に与するアイナグルの方が罪深いのかもしれない。
アイナグルはシリンの出身国である東から医者を招いて、怪我人が増えることを予想し薬の備蓄を増やすようにしたり、西域から来る商人たちから噂話と商品を仕入れ、寺院に積極的に寄進しバティルの侵略者としての悪名を薄めようとした。
バティルの領地は広大だ。様々な生まれの従属民を抱え、肥大化した国は瓦解する寸前だった。そのひびを一つずつ修復するかのような地道な努力が、アイナグルの仕事だ。
時間が経つにつれ、「小さなオルドを管理しているカガンの第四妃、アイナグル・カトゥンは宗教に寛容だ」という噂が流れ始めた。
遊牧民の信仰、景教、回教、仏教、儒教など教会に相当する天幕を与え宗教を保護した。広い汗国内において迫害されることのない土地を求め様々な民族がアイナグルのオルドへ集い、アイナグルの抱える領民は膨れ上がった。
慈愛深き皇妃という名がアイナグルの通り名になり始めた頃、アイナグルはエルケの天幕に呼び出された。ジャハーンに連行された時以来だった。
「お久しぶりです。正妃様」
アイナグルが挨拶すると、エルケは鷹揚に笑った。
「前に会った時より、随分と見違えた。元からカガンはアイナグル・カトゥンのことを鷹のような眼光を持っていると言っていたからね」
エルケは前に会った時よりずいぶん痩せていた。顔に刻まれた皺は深い。それが彼女の心労を表しているようだった。
「お前にもカガンの嫁だという自覚が出てきたようで嬉しいよ。今はずいぶんと宗教に熱心なようだね」
「迫害されてきた民たちを我がオルドで保護しております」
エルケは感心するように頷いた。アイナグルはエルケの予想を軽々と超えたらしい。今までエルケはアイナグルのことをただの小娘だと、脅威にすらならないと思っていたから。
そのおかげで弓を引いていても、暗殺を企んでいるわけじゃないと信じてもらえたが。逆に言えばジャハーンの方がアイナグルを大きく見積もっていたとも言える。
「そういう優しさも必要だろうね。巫覡者たちは大切だけど、あまり占い任せにするのも良くない。宗教を尊重することは大事だが、彼らを政治に持ち込みすぎるのも良くないよ」
エルケは占いによって国を乱した過去の監国の話を語った。
「お前はよくオルドを管理しているよ。私に会ったばかりの時のままのおどおどした小娘だったら、私はカガンに進言してお前からオルドを取り上げようと思っていた」
エルケはアイナグルが実力を示さなければ、第四オルドを管理するには荷が重いということで他のカトゥンにすげ替え、アイナグルを自らの第一オルドに呼び寄せ、天幕を与え、オルドを管理しないカトゥンとしてひっそり暮らさせようとしたらしい。
バティルもシリンに口止めまでしてアイナグルを何も知らない呑気なカトゥンにしたかったのなら、オルドを管理させる大役に任じなければよかった。オルドを管理しない方がバティルにとっては都合が良かったはずだ。
敵対している部族から攫ってきた嫁に黄金の天幕を与え、オルドを管理させる。それは破格の待遇だった。アイナグルがバティル曰く鷹のような眼光で睨み返したとき、バティルはアイナグルならばオルドを管理できると信用したのかもしれない。
それが王たる資質による人を見る目なのかはわからない。だが、信用されたのなら何か返したかった。甘えて強請れと言われても、わがままになれと言われても、与えられるばかりではアイナグルが納得できない。
「アイナグルよ」
エルケは優しくアイナグルの名を呼んだ。その響きがエルケに認められたことにより、距離が縮まったことを示している。そして記憶にないはずの母の面影を感じた。
「私の代わりにカガンの御子を産んでくれないか」




