七話 皇后
馬は草原を駆け、アイナグルのいた天幕群から遠い天幕群へと移動していた。アイナグルは抗議したかったが舌を噛むと言われて口に詰め物をされ喋ることを封じられ馬に揺られていた。
シリンと引き離されてしまい、アイナグルは自分一人だけでこの状況を打開しなくてはならなかった。やがてジャハーンたちは巨大な天幕の前で止まった。
天幕の中に放り込まれると、ようやくアイナグルは口の詰め物を外された。
「エルケ皇后! カガンのお命を狙う不届なナイマトの雌鹿を連れてきたわ!」
ジャハーンは自信満々なように頬が紅潮している。先程は怒りから顔が赤くなっていたが、今は骨を咥えて尻尾を振っているアクテュスに似ていた。姫を犬みたいだと思うのは失礼だろうか。
「おやおや、ジャハーン。人をあまり家畜のように扱うでないよ」
奥の椅子には四十に差し掛かろうかというほどの女が座っていた。少し痩せ気味なのか頬骨が出ているように見える。
「カガンのお命を狙ったのよ。それに、エルケに挨拶にも来ない無礼者だわ」
ジャハーンは放り込まれた衝撃で床に膝をついているアイナグルを見下ろして口元ば馬鹿にするように笑っていたが目は睨みつけていた。
「私はバティル様のお命を狙うつもりは全くなく…!」
アイナグルは詰め物を外されたすぐにしゃべったからか、喉に何か引っ掛かるような感覚がして咳き込んでしまった。
「ジャハーンよ。アイナグル・カトゥンがカガンのお命を狙った証拠はあるのか?」
エルケはアイナグルを一度見たあと、ジャハーンに視線を移した。
「この女はナイマト族の出身よ。そしてカガンが軍を出すこの時期に兵法書を買おうとした。自分の故郷にラド族の戦法の秘術を伝えるためなのよ!」
「私はあれが兵法書だとは知りませんでした」
アイナグルは必死に叫ぶ。
「それだけか?」
エルケは静かに尋ねる。ジャハーンは少し言葉に詰まったが、思い出したように続けた。
「それに、弓を練習しているのよ。カガンを遠くから狙うつもりだったのよ!」
ジャハーンは腰に手を当てて得意げな顔をした。
「ジャハーンよ、お前はちょっとナイマト差別でものを見過ぎだね」
エルケは穏やかに笑った。
「兵法書を買おうとしたのも、カガンのお役に立つためかもしれないじゃないか。それにこんな小娘が弓を練習したところで、やられるほどカガンは弱くないよ」
ジャハーンはエルケの言葉に反射的に「でも…!」と続けようとしたが、何も言い返せなかったのかもごもごと口を動かしたあとに黙ってしまう。
「エルケに挨拶にも来ないわ」
そしてジャハーンは負け惜しみのように呟いた。
「急に連れてこられて驚いただろう。ジャハーンのカガンを思う気持ちがちょっと暴走してしまっただけだ。悪かったね。謝罪を受け入れてくれると嬉しいよ」
エルケはアイナグルに微笑みかけた。しかし、グンジという姫の称号を持つジャハーンにエルケに挨拶に来ないアイナグルが無礼と言われたのだ。アイナグルはエルケに挨拶に来なければならなかったのかもしれない。
「いえ、誤解が解けたようでよかったです。ただ、ラド族のしきたりに不慣れなものですので、挨拶に伺うことができず。失礼ですがあなたは…」
「まあ! エルケが誰だか知らないの」
アイナグルの言葉にジャハーンが甲高い声で叫んだ。エルケはカトゥンと呼ばれていた。カトゥンはカガンの妻を指す称号だが、高貴な女性ならカトゥンという称号を名乗ることができる。
「エルケはカガンの正妃、第一皇后よ」
ジャハーンの言葉にアイナグルは息を飲んだ。エルケはバティルより随分と年上に見えたからだ。バティルは若きカガンと呼ばれるほどでまだ三十にも届いていないだろう。髭も生やしていないことから余計に幼く見える。
エルケがバティルよりかなり年上に見えたことも驚いた要因の一つではあったが、それよりもアイナグルの心をかき乱すことがあった。
バティルにはアイナグルの他にも妻がいたのだ。草原の有力者には複数の妻がいるなんて考えてみれば、当たり前のことなのに、なぜ自分だけは違うと思っていたのだろう。
継母だってアイナグルの母が儚くなったから正妻格に繰り上げられただけで、父には母以外の妻がいた。
バティルはアイナグルの涙を拭いたいと言ってくれた初めての人だったのに。きっと優しく甘やかすのも、他の妻に同じようにやっていたのだろう。バティルに下手に出られていい気になっていた自分が恥ずかしい。
アイナグルは特別などではなかったのだ。
「カガンはアイナグル・カトゥンを掌中の珠のように大切にされておられるからね。風切羽を切って鳥籠に入れたいのだろう。私はあまり感心しないけれど」
エルケは微笑みながらも少し不気味に感じられた。つまりエルケはアイナグルの羽が切り落とされようとしていると知っていても、別に止める気はないようだ。
以前、アイナグルが鳴くだけの金糸雀ようだと危惧していた状況は案外的をえていたのかもしれない。
「別のオルドを管理しているから、アイナグル・カトゥンも忙しいだろう。挨拶に来なかったことを別に私は怒っていないから。安心しなさい」
「…寛大なお心に感謝します」
アイナグルは礼をすると、ようやく解放された。天幕から出たところで、馬に乗って追いかけてきてくれたシリンと合流した。
「カトゥン、ご無事ですか!?」
シリンは目に涙が浮かんでいた。アイナグルは何も酷いことはされなかったと言って、シリンが心配のしすぎで倒れそうだったから、口の中に詰め物をされたことは黙っていた。
そしてカガンの正妃であるエルケに会ったことを伝えた。シリンは少しばつが悪いような表情をした。バティルが軍を出してナイマトを滅ぼすことやバティルに他の妻がいることをアイナグルは知らされていなかった。
カガンの妻が複数いるという考えに至らなかったのはアイナグルの落ち度かもしれないが、それを知っていたシリンはアイナグルが皇妃としての仕事がしたいと言い出した時に、まずエルケに挨拶するように進言するべきだったのではないか。
アイナグルはジャハーンから挨拶に来ないと責められたのだ。
「カガンはカトゥンのお心が煩わされることをお望みではないのです」
シリンはバティルに口止めされていたようだ。またナイマト嫌いを配慮させていると告げられた時のような気持ちが湧き上がってきた。
「カトゥンは今、一番カガンが寵愛なされています。女の諍いのようなものに巻き込みたくなかったのでしょう」
アイナグルが他のカトゥンたちに嫉妬され嫌がらせを受けないように最初から関わりを持たないようにさせたのだ。それがなぜだか腹立たしかった。バティルに目隠しをされているようだ。
シリンはエルケについて教えてくれた。エルケはバティルより十五歳年上で、父から相続した妻らしい。バティルが若いながらもカガンとしてやっていけるのは、エルケの内助の功のおかげだ。エルケは人民集会でも一目置かれるほどに影響力を持っている。
エルケは若くもなければ美しくもなかった。だが、バティルを一番に支えている。それに比べてアイナグルは何もなかった。バティルがアイナグルを寵愛するのも、アイナグルが「若い」からだろう。
自分の価値が若さだけであることが悔しかった。バティルの「気まぐれ」はいつ終わるかわからない。すぐに身体を許さないアイナグルに飽きるかもしれない。老いればきっと飽きるだろう。
「…くやしい」
アイナグルはシリンに気づかれないように呟いた。縋るように身体を許すことなんてできない。それはアイナグルが自分で自分の尊厳を捨てるようなものだ。
父や継母、ガイニに踏み躙られてきたアイナグルの尊厳を今はアイナグル自身が踏み躙ろうとしていることに恐怖を覚えた。




