六話 知識
移動は牛、馬、ラクダが引く天幕を載せた車体が五隊に分かれ、その長さは十五里、幅はその半分に及んだ。季節は冬に向かい、霜が下りるようになっていた。
アイナグルは暇さえあれば、弓を引き続けた。弦の当たる場所の皮膚が擦れ、血が滲み、やがて固い皮膚に覆われるようになった。
「カトゥン、もうおやめください。こんな傷だらけになって…」
弓を引くのをシリンはおろおろしながら見守っていた。しかしアイナグルは弓を引く「痛み」こそ忘れてはならないものだと思った。
たとえ生贄だったとしてもアイナグルを育んできたナイマトという一族が滅びる。神聖な狼と盟約を結んだ古の部族が歴史から消える。苦いものが喉の辺りに張り付いている。
以前、シリンがラド族が勝ちナイマト族が滅びると決まっているかのように話したことが少し引っかかったというのに、磨かれた鎧や鍛えられた馬たち、そして体力の武器に兵士たちの姿を見ると、細々と続いてきたナイマトは滅びるだろうとアイナグルが受け入れてしまった。
シリンはいそいそと包帯を清潔に水で洗い、東方の商人から取り寄せたという薬をアイナグルの手に塗り込んだ。薬は植物をすりつぶしたようなつんとした臭いがした。
「カトゥン、女が弓を引いても何にもなりませんよ。狩りや戦闘は男の仕事ですから」
シリンはあまりアイナグルに弓を引いて欲しくないらしい。彼女にとってアイナグルは後継を産むための大事な母体なのだ。傷がつくのが恐ろしいのだろう。
「これは、私のためにやるの。バティル様だって私がわがままになることをお望みだわ」
弓を引くことはアイナグルにとって刺繍をすることに似ていた。母の面影をなぞるようにアイナグルは弓と刺繍にのめり込んでいった。
ぽとりと針を落とす。布に刺繍をしようと針を持ったが、弓の練習のしすぎで包帯を巻いた手ではうまく針が持てなくなっていた。
「ほら、カトゥン。弓という男の仕事をなされたから、裁縫という女の仕事ができなくなったではありませんか」
シリンは痛々しい傷口を見ていられないというふうに目を背けた。天幕には炉の火がゆらゆらと燃え、装飾品である骨や壁飾りを照らしている。
「大丈夫よ、できなくなったなんてことないわ」
アイナグルは痛みを堪えて針を拾う。しかしシリンにとはアイナグルはカトゥンの仕事を蔑ろにし、男の真似事ばかりに夢中になっているという風に見えるらしい。
アイナグルは言葉を証明してみせるようにすいすいと針を動かして見せた。
「…裁縫に支障がでるなら、弓などやめてはいかがですか。たとえ…カトゥンが弓を引けるようになったとしても、男の方がずっと力が強くて敵いませんよ。女が矢を一本射る間に、男は三本、四本と連射しますよ」
シリンは労わるようにアイナグルの包帯だらけの手を見つめた。アイナグルは兵士になりたいわけじゃない。人を射りたいわけではない。
狩りができるようになれば、楽しいかもしれないがラド族には狩りの名手がたくさんいて、アイナグルが狩りをしなくても食料には困らない。
ここで役に立つためにはどうしたらいいのだろうとアイナグルは途方に暮れた。ナイマト族へのけじめだって、アイナグルは自分ではつけていない。バティルや兵士たちといった他人の手で行われるのだ。
それが悔しくて、母の面影を追い求める以上に弓を引き続けたのかもしれない。アイナグルが射抜きたいのは的ではない。愚かな自分の頭を射抜きたいのだ。
「私…どうしたらバティル様のお役に立てるか、わからないの。重要な決断を彼から提示されて頷くだけは嫌。甘えて強請るだけしか選択肢がないことが嫌なの」
アイナグルがまだ清い身のままであること、ラド族の中で生かされていること、カトゥンと呼ばれる地位にいれること、全部がバティルの気まぐれでしかない。
そんな不安定な立場のままで生きていきたくない。アイナグルはなぜかカガンという地位も金もある男に「お前を惚れさせてやる」と優しくされ甘やかされている。
下手に出られて愛を乞われて、いい気にならない女はいない。アイナグルもなぜ「こんな私にカガンが?」と疑問に思いながらも、豪華な天幕を与えられ、身の回りを世話してくれる侍女を与えられ、いい暮らしを享受していた。
気まぐれで与えられたものは気まぐれで取り上げられる。天幕の狭い関係性から逃げ出したいと思っていた。でもそれは誘拐されるのではなくて、自分の足で出て自分で馬を駆け出ていきたかった。それが、今やっとわかった。
「カトゥン…」
シリンはアイナグルが包帯の手を握りしめたのを見て、憐れむように呟いた。火に当たって寝ていたアクテュスが耳をぴくぴくと動かし、くぅーんと鳴く。
「私はもう何も奪われたくない」
傷だらけの手はアイナグルが「奪わせてなるものか」と足掻いた証のように思う。
「頭の中のものは何者にも奪われません」
シリンの瞳がアイナグルを見つめていた。しかしその瞳の中に映る表情には今までとは違う何かがある。今までは異民族の花嫁を教え導く使命を帯びていた。
しかし、今は教え導くという下の者に対する眼差しではなく、一人の人間として認めているようだった。
「自分の価値は自分で証明していくしかありません」
シリンはそっとアイナグルに帳簿を差し出した。文字の練習のためにアイナグルがつけたものだ。アイナグルの不慣れな拙い字で数字が記録されている。家畜の数や搾乳量の数字もあれば、贈答品や財貨の数字もある。
「カトゥンがお望みなら、私はカトゥンにさらなる知識を授けられます」
シリンの気迫にアイナグルは静かに頷いた。その日からシリンはアイナグルにもっと難易度の高い勉強を教え始めた。今までは数字と簡単な文字しか教えてもらっていなかったが、帳簿をつけるという実践を経て学問を身につけていた。
「カトゥンたちが普段使われるのは表音文字ですが、私の故郷では表意文字を使います」
シリンが指差す先には見慣れない文字があった。志玲とあり、シリンが自分の名前だと教えてくれる。発音もアイナグルが呼んでいるものと少し違っているようだ。
「これが読めるようになれば東西の古い文献を読むことができます。この草原は交易路の真ん中にあるので人の往来が多く、学者も呼び寄せやすいです」
確かにここの天幕群には隊商が行き交っていた。ナイマト族は閉鎖的な一族だったので、ラド族ほど商人は行き交っていなかった。
畑で肉は取れないし、草原では小麦は取れないという考えから、バティルらは定住民や隊商との取り引きを重視しているとシリンは教えてくれた。
ラド族の方針としては略奪するよりも同盟部族を増やし交易の輪を広げていくことらしい。バティルは先代よりも平和的な路線に変わったそうだが、そんな彼でさえナイマトに関しては「滅ぼすべき」と断じたのだ。
軍が動けば、使者も商人も増える。商人が増えれば、客も増えるとアイナグルが予想したようにたどり着いた前衛基地には補給物資や武器を売り込むために商人たちが集まっていた。
隊商が商品を並べている天幕にアイナグルはシリンを伴って訪れた。バティルがアイナグルに大量の贈り物をしてくれた時、彼は商人から商品を買い上げたのだろう。
刺繍のための絹糸と、勉強のための文献を買おうとアイナグルが日に焼けて少し黄ばんだ書物に手を触れようとした時だった。
「それを手に入れてどうするつもり」
冷たい声が響き、アイナグルは振り返った。まず最初に目に入ったのはアイナグルを庇うようにシリンが前に出て頭を下げている姿だった。
「ジャハーン・グンジ…」
シリンが挨拶しながらさりげなく相手のことをアイナグルに教えてくれた。ジャハーンはカワウソの帽子を被り、無数の小束に編んだ黒髪を垂らした女だった。
バティルを見送った時も、アイナグルが誘拐され天幕から逃げ出した時もいた「あの子が私だったら、私もあれくらい鈍く走りますのに」と嘲笑した人である。
アイナグルはジャハーンからちくちくした棘のような微かな敵意を向けられているように感じた。グンジという称号を持つバティルの女兄弟たちは周辺の部族に嫁いでいるらしく、このオルドに残っているのはバティルの末の従姉妹だけだと聞いたことがあった。
「えっと…。文字の勉強をしようと思って」
アイナグルは少し照れながらも素直に答えると、ジャハーンは眉を顰め鼻で笑った。
「それは兵法書よ。カトゥンには必要のないものだわ」
ジャハーンはアイナグルが触れようとした書物はトゥルグマと呼ばれる戦術を記したものだと教えてくれた。しかし、馬鹿にしたような響きがあった。
しかし、ジャハーンは何かハッとしたような表情になり、アイナグルを睨みつけた。
「まさか、あなたはナイマトにラドの戦法を密告するつもり? 弓を引いているようだし、カガンのお命を狙うつもりでしょう!」
ジャハーンは怒りで顔を真っ赤にしてアイナグルの腕を掴んだ。まさか弓を練習していることが暗殺を企んでいると捉えられるとは思わなかった。
「私、そんなつもりじゃ…!」
必死に弁明しようとするが、ジャハーンの掴む力が強い。シリンが「グンジ、お待ちを!」と止めようと追いかけてくれるが、アイナグルはジャハーンの家来たちに荷物のように馬に乗せられ、別の天幕へと連行されてしまった。




