五話 望み
春になると水鳥を狩ることができる沼地へ、夏になると涼しくて水が豊かな高地へ、秋には湖へ向かい馬乳酒を天に捧げる祭りを行い、冬には野生動物が多く狩りができる土地へ天幕は移動する。
しかし、ラド族の天幕はまだ冬営地に移動する時期ではないというのに、天幕を解体し移動を始めていた。アイナグルに与えられた黄金の天幕も、今は骨組みだけになっている。
あの夜、アイナグルが初めて「母の遺品を取り戻したい」と欲望を口にしたとき、バティルは満足したように笑っていた。それからしばらく忙しいのか、バティルはアイナグルの天幕にはたまに眠りに来るくらいで、穏やかな日々が続いていた。
「急に移動だなんて、冬営地に移動するなら羊群を西へ回した方がいいわ。記録を見たけれど、去年の冬に仔羊の死亡率が高かったから、あの谷は使わない方がいい」
シリンが文字を知ることこそが偉大なるカトゥンへの一歩だと言っていたとおり、文字はアイナグルに新しい世界を見せてくれた。
アイナグルはまず、今までの膨大な記録を精査した。羊、山羊、馬は何頭いて、子畜の死亡率や病気の家畜の割合を導き出し、乳量が減ったのは草の質が悪いことを突き止めた。
「冬営に入る前に乾燥チーズをあと三十籠は作らないと」
アイナグルが思案していると、シリンはその姿に感慨深いものを感じるように目を細めた。異民族の天幕に連れてこられて、怯えることしかできなかった少女が懸命に仕事をしている。
シリンは白いスカーフをアイナグルに被せようとした。出会った時は混乱していたから、スカーフを被せようとした女と、侍女として仕えてくれているシリンが同一人物であることがしばらくは繋がらなかった。
しかし、記憶をゆっくり辿っていけばあれはシリンだった。シリンは一度は結婚を拒絶したアイナグルの姿を知っているからこそ、余計に感慨深いのだろう。
「カトゥンはまだご存知ないですか。カガンが軍を出すそうですよ」
「え?」
アイナグルはいきなり天幕を移動させる必要があるとしか聞いていなかった。
「カガンはカトゥンに血生臭いお話を聞かせたくなかったのでしょう。我々は冬営地に向かうのではございません。後軍として前線基地まで向かいます」
シリンの言葉にアイナグルは周りが鎧を磨いたり、武器の手入れをしたりと全体が浮き足だっていたことを思い出した。
遠くにカガンの天幕が見える。そこにはバティルがいて、羽のついた被り物で頭を覆い鎧を輝かせている。いつものテン皮で縁取った軽い狩猟用の長衣ではない。
バティルの周りには同じく鎧を着た戦士たちがいる。バティルの馬は尾と鬣に結び目を作り、額部に白い星のある美しい鹿毛で、鞍、鞍敷、轡、あぶみ、などが全て純金で飾られていた。
「軍が動けば、使者も商人も増える。商人が増えれば、客も増える。今の備蓄では足りないわ」
干した肉、乳、馬乳酒、乾燥チーズ、小麦や雑穀、茶、塩、馬の飼料など、冬営地に向かうだけなら十分だが戦を起こすなら少し心許ない。
「どうしてバティル様はこんな大事なことを私に教えてくれなかったの?」
こんな重要なことをなぜかアイナグルはシリン伝えで聞くのではなく、バティルから直接聞きたかったと思ってしまった。
「私だって草原の女だわ。血生臭い話にいちいち気絶しているような気の弱い女じゃない」
アイナグルは自分が子供のように扱われているようで悔しかった。だが、それも仕方がないのかもしれないと思う。だったアイナグルはまだ白い結婚なのだから。
バティルの中でまだアイナグルは「女」ではない。肌に触れたこともない妻は、もしかすると庇護すべき妹や娘のように感じるのかもしれない。
だからといって、アイナグルはまだ身体を許す気にはなれなかった。
「気を遣われたのでしょう。何せ、今回の遠征は仇敵ナイマトを滅ぼすためのものなのですから」
シリンから発された言葉にアイナグルは息を呑んだ。ラド族とナイマト族は敵対している。だから、いつかは争いになるかもしれなかった。
「私の…せい?」
アイナグルは震える指で口から漏れた言葉を封じ込めるように唇を押さえた。アイナグルが母の遺品を取り戻したいと言ったからバティルは「滅ぼして」遺品を取り戻そうとした。
「カトゥン、気を確かにお持ちください。いずれナイマトとは決着をつけなければならないのです。それより大切なのはこれからのことです」
シリンは激励するようにアイナグルの肩を撫でた。
「これからカトゥンは敗れた部族出身という肩書きを背負うことになります。ますますカガンからの寵愛が鎧となります」
もうシリンの中ではナイマト族が滅ぼされ、ラド族が勝利するという道筋が描かれているようだった。確かにラド族はかつて世界を飲み込もうとした帝国のハンの血筋を継いでいる。
崩壊した帝国から枝分かれした汗国を治め、時に戦い、時に同盟によって草原を平定した。ラド族は古い系譜の一族。それにより古代の王の称号カガンを名乗るようになった。
強大な軍事力で圧倒すれば、ナイマト族は滅ぼせるのかもしれない。酷い家族だったけど、死んで欲しいなんて思っていない。いないのだが、彼らがもう二度とアイナグルを脅かさないということに安堵してしまう自分もいた。
「わ…私は家族の死を願ったりなんてしない…!」
アイナグルはカガンの天幕へと走り出していた。後ろから「カトゥン、どこへ行かれるのです!?」というシリンの悲鳴に近い叫び声が聞こえたが、振り返らなかった。
バティルの周りには鎧を着込んだ戦士たちと、見送りのためか女たちがいた。戦士たちはアイナグルがスカーフを拒み逃げ出した時に「愚かな娘だ」と罵った人たちだ。
カワウソで縁取られた帽子に無数の小束に編んだ黒髪を垂らした女は「あの子が私だったら、私もあれくらい鈍く走りますのに」と嘲笑した人だ。
「バティル様!」
アイナグルがバティルを呼ぶとバティルは見送りに来てくれたのかと嬉しそうに笑い、バティルに媚びるように笑みを浮かべていた女は顔を顰めた。
「私のせいでナイマトを滅ぼすのですか」
アイナグルは震える声で尋ねると、周りのものたちは嘲笑うように口元を緩ませた。しかし、バティルだけは眉ひとつ動かさなかった。否、表情が固くなって無へと近づいているように見える。
「ナイマトを滅ぼすのはラド族の悲願だ。お前の言葉だけで決めたことではない」
確かにカガンが私情だけで軍を動かすとは思えなかった。アイナグルは自分の思い上がりを恥じたが、それでもきっかけの一つにはなっているのだろう。
「カトゥンは自覚が甘いご様子。もうラド族の人間ですのよ」
たくさんの三つ編みを揺らしながら、女がくすりと笑った。
「ナイマトはお前を見捨てたんだ。狼と盟約を交わしたナイマトはもはや人間の敵。ナイマトの存在は草原に燻る火種だ。俺の代で潰す」
バティルの重いため息のような言葉は、長いこと両部族が憎しみ合ってきたことを示していた。バティルは黄金の帯に下げられた曲刀を撫でる。背には白樺の弓があった。
「傲慢で残酷な女になれ。お前は望んだんだ。取り戻したいと」
バティルの甘い誘惑は喉が焼けるような蜂蜜のようだった。どくん、と鼓動が高鳴る。確かに取り戻したいと望んでしまった。
狼の牙から垂れた唾液に怯えたあの夜が仕組まれていたのだと知って絶望した。なぜ虐げられ、奪われ、屠殺される家畜のように育てられたのかと、自分の人生の理不尽さを恨んだ。
バティルはアイナグルに親を憎んでもいいと許しているのではないか。アイナグルがそんな親不孝な娘になることを望んでいる。野生の獣のように目を輝かせて獲物を狙うことを。剥き出しの野心をアイナグルから引き出そうとする。
自分を殺そうとした家族のことを敬うなんて、馬鹿なのかもしれない。誘拐された娘を探したり助けに来ようとする様子もない。本当に愛されていなかったのだと、信じたくなかった。
「取り戻したい。…全てを」
アイナグルが奪われてしまったもの全て。それは母の遺品だけではなく、アイナグルの尊厳という目に見えないものも含まれていた。
アイナグルは故郷に弓を引くことを決意した。




