四話 皇妃
ラド族の天幕群は広大で、掲げられている旗によりその天幕の持ち主を示すが、まったくの異邦人であるアイナグルには見分けがつかなかった。
バティルがアイナグルに黄金の天幕を与えてくれたのは、寵愛を示す意味もあるが、天幕を目立つようにして迷うことを防ごうとしたのではないか。
アイナグルのような皇妃の天幕は東側にあり、周囲には侍女や奴隷の天幕がある。南にはカガンの謁見のための天幕があり、天幕群の一番端には亙の天幕があった。
天幕の垂れ幕をくぐり、アイナグルは自分の天幕へと帰ってきた。
「カトゥン、どこへ行っておられたのですか。侍女も連れずに急にいなくならないでください」
シリンがアイナグルの姿を見つけると、慌てたように近づいてきた。昨夜もバティルはアイナグルに一切触れずに同じ天幕で過ごし、明け方にアイナグルを起こさぬように天幕を出て行った。
「目が覚めてしまって。朝の冷たい空気を浴びていたの」
アイナグルは自分の三つ編みを指に絡めながら、答えた。何本もの三つ編みで彩られていた頭は今は既婚者を示す二対の三つ編みのみ。晒されたうなじが慣れない。
「カトゥンは侍女が起こすまで、お休みになられて良いのです」
シリンはきっと起こそうとした布団の中にアイナグルがいなかったことに驚いたのだろう。布団の中にはアイナグルの代わりに豹の毛皮が敷かれているだけだ。
「朝早くから家畜の世話をしなければいけないでしょう? ラド族のやり方はわからないけど、教えてくれたらできるようになるわ。寝ているのが、申し訳なくて」
家畜の乳搾りは得意だった。乳を攪拌してバターを作るのにも慣れている。家畜を放牧に連れて行く時間だけが、威圧的な父、厳しい継母、意地悪な妹から離れられる時間だった。
少しでも仕事をさぼったりしたら、継母に服をひん剥かれ、鞭で打たれたこともある。寒い中、天幕から追い出されたこともあった。冬じゃなかったから死ななかったが。
「カトゥンが下々のような仕事をしなくてよろしいのです」
シリンはここが数多くの従属民を抱える巨大な宮殿であることを説明した。家畜の世話、乳の加工、皮革の加工、天幕の設営、書記など、様々な仕事に従事する者たちがおり、アイナグル自ら仕事をしてしまうとその者たちから仕事を奪うことになると、淡々と説得された。
「カガンは惚れて攫ってきてしまった引け目から、カトゥンが何の憂いもなく天幕で優雅にお過ごしになることをお望みです」
バティルはシリンにアイナグルのことを「惚れたから攫ってきた」と説明したのだろう。本当の狙いは美姫と謳われたガイニだっただろうに。
攫ってきてしまったという後ろめたさは感じているらしい。醜女だったから捨てるのではなく、ちゃんと妻として迎え入れるあたり、男気はあるのかもしれない。
「優雅に…? 天幕から出るなということ?」
それでは籠の鳥ではないか。鷹狩りに使う鷹のように、使ってもらえるなら、鳥扱いも受け入れられたかもしれないが、アイナグルに求められているのは金糸雀のように美しく囀るためだけの、愛玩用。
「そうとは申しておりません。カトゥンはナイマトのご出身でしょう。ラド族にはナイマト嫌いが根強いですから、カトゥンが不快な思いをなさらないように、カガンが今は配慮を徹底させております。しばらくはお待ちください」
シリンの言葉にアイナグルは、白いスカーフを拒んで天幕から逃げ出した時に向けられた奇異の眼を思い出した。捉えた獲物を痛ぶるような目。あの時のざらりとした感覚。
「つまり、カガンが力にものを言わせて、私を嫌う人たちを改心させているの」
いきなりやって来た敵部族の姫が、豪華な天幕を与えられ、悠々自適に過ごし、上から「嫌うな」と言われたら、ラド族はあまり良い感情をアイナグルに抱かないのではないか。
「ここでの立場は私が開拓していくものだわ。カガンに任せっきりの人形になるつもりなんてない」
バティルはアイナグルを位のない側室として扱うのではなく、皇妃という位を与えた。そして、黄金の天幕、侍女のシリン、アイナグルの天幕の周りを囲む従属民たちの天幕、小さな宮殿を与えたのだ。
「シリン、カトゥンとして私の仕事は何」
家畜の世話が下々の仕事だと言われたのなら、アイナグルは他の仕事をしなくてはならないということだろう。シリンは一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「では、昨夜カガンが贈られた品物の帳簿をつけましょう。書記官をお呼びします」
文字を知ること、知恵を統べることが偉大なる皇妃への一歩だとシリンは熱弁した。ナイマト族は口伝で父方の系譜、母方の系譜を覚えるのでアイナグルには文字は親しみのないものだった。
バティルから贈られたものは、珍しい毛皮に宝石などだろうと大雑把にアイナグルは考えていたが、西方から伝わる書物、東の国の陶磁器や漆器、草原にはない動物の剥製など多岐に渡った。
馬蹄が届く範囲全てのものをバティルは手に入れようとしているようだった。
大勢の下男たちが保管用の天幕に入れられた品物を検品し、仕分けて行った。アイナグルの仕事といえばその様子を監督し、時折「いかがいたしましょう」と耳打ちしてくるシリンに応えることだった。
「堂々としているのです。それこそが偉大なるカガンの妻たる風格です」
シリンにそう言われていたアイナグルは、いつも自信なさげに丸めていた背を伸ばし、真っ直ぐに見つめた。シリンがアイナグルに尋ねてくることは、贈られた宝石を手元に置いておくか、それとも別の天幕に保管するか、宝石をどのように加工するよう指示するかなどだった。
シリンはアイナグルに贈られたクロテンの毛皮を帽子に仕立て、そこに宝石を飾りつけることを提案した。着飾ることはカガンからの寵愛という鎧を着込むことだ。
無事に夫婦の契りを結ばれたと信じ切っているシリンには申し訳なかったが、アイナグルはあれは動物の血なのよ、と心の中で謝った。
次々と運ばれてくる品物たちを眺めていたが、アイナグルはとある品に目を止めた。
「それ…もっとよく見せて」
下男が恭しくアイナグルに差し出す。それは頑羊角弓だった。しかし、ラド族が使っているものではなく、珍しい紋様が彫られていた。
「まぁ、カガンったら。カトゥンに無骨な弓を贈られるなんて。珍しい紋様ですから、飾るためのものでしょうか」
シリンが女心をわかってないというように苦笑しながら、弓を眺める。しかし、その弓はアイナグルにとっては特別な意味を持っていた。
「お母様の…ウハン族の弓だわ」
男は主として馬やラクダ、狩猟や戦闘などを担当し、女は牛や乳製品などを担当するが、母の生まれ育ったウハン族では女も男と同じく狩猟をしたらしい。
母は嫁入り道具として弓を持ってきた。しかし、ナイマト族の中ではあまり受け入れられず、浮いた存在だったらしい。そして継母たちは、母の遺品の中から宝石などは根こそぎ奪っていったが、使えない弓をアイナグルの目の前で壊してしまった。
だから、この弓は母の遺品そのものではないが、アイナグルにとって懐かしいものであった。
「…私、この弓を使いたい」
アイナグルは頬を紅潮させながら、思わず呟いていた。
「ですが、カトゥン。この弓はどうやら男性用みたいですよ。ほら、弦だってこんなに固い」
シリンが軽く弓を引いてみるが、固くて思うように引けなかった。
「それでもいいの。毎日、弓を引いて筋肉をつけるわ」
継母に壊された母の弓を泣きながら見ていることしかできなかった幼い自分を少しでも慰められる気がした。
その日の夜も、バティルは黄金の天幕へと訪れた。
「宝石も毛皮も『そんなもの要らない』と言ったから、俺の花嫁はいったい何を欲しがるかと思ったら、弓か。珍しい品らしいから持っていれば財産になるかと思っただけで、何も実際に使えという意味で贈ったわけではない」
馬乳酒を飲みながら、バティルは呆れたように弓を手入れするアイナグルを見つめた。
「でも、私は宝石よりよっぽど価値を感じました」
ぐっと力を込めて弓を引いてみるが、腕がぷるぷるとするだけでアイナグルが矢を放てるようになるまでは途方もない時間がかかるだろう。
「古今東西、ありとあらゆる弓をお前に贈ろう」
「馬鹿の一つ覚えみたいに、弓ばっかり贈られても困ります」
アイナグルは手入れを終えた弓を置いた。
「この弓は母方の一族を示す紋様入りの弓なんです。母の形見にそっくりで…」
母の弓がもし無事なままだったら、アイナグルはその弓を使っただろう。きっと母の弓は女性用で、この弓よりも弦が固くないだろうから。母の弓が永遠に失われたのだと改めて思い出して、アイナグルは涙が浮かんできた。
「おい、なぜ泣く」
涙を見せたアイナグルに驚いたようにバティルが慌て始めた。不自然にバティルの腕が伸ばされ、アイナグルに触れる直前で下ろされる。ごめんなさいと呟いてアイナグルは涙を拭う。
「母の形見の弓は…壊されてしまって」
アイナグルの言葉に、バティルの瞳の温度が冷えていくように感じた。なぜ、バティルが怒っているのだろう。何か言ってはいけないようなことを言ってしまっただろうか。
もしや、さっき「馬鹿の一つ覚えみたいに」と言ってしまったのが、カガンとしての矜持を傷つけてしまったのだろうかとアイナグルは不安になった。
「誰に壊された?」
「継母に…です。他にも母の遺品は継母や妹たちに全て奪われてしまって。弓は使い物にならないからと壊されてしまいました」
継母は弓を粉々に打ち砕き、燃やしてしまうように命じた。父も何も言わなかった。バティルは馬乳酒を飲む手を止めて炉の火を見つめていた。
「取り戻したくはないか」
バティルはアイナグルを試すように尋ねる。
「取り戻したいですけど。一応、私はここにお嫁に来てしまいましたから。もうナイマトには帰れないので、もうどうしようもない…」
アイナグルは不安を隠すように三つ編みを掴んだ。
「俺なら取り戻してやれるぞ。お前が一言甘えて強請ればいい。お前は俺の寵妃なのだからな」
その甘言に乗ったら何か取り返しのつかないことになりそうだった。
「甘い誘いには代償があるはずです」
アイナグルは果敢にバティルを睨みつける。きっと彼には子うさぎが睨みつけてくるようにしか見えないだろうが。
アイナグルが「取り戻してほしい」と願ってそれを叶える代わりに身体を許すことを条件にされたらと考えると恐ろしい。
バティルは甘い誘いに簡単に乗らなかったアイナグルに満足するように笑った。
「そうだな。お前に指一本触れないと約束したが、布越しに触れるくらいは許してほしいな」
やっぱりと呆れながらアイナグルはため息を吐いた。身体を許すという直接的な願いではなかったが、接触を増やそうとしているのは確かだ。アイナグルは布で隠れているというのに、腕で体を抱きしめるように隠した。
「涙くらい拭ってやれないのは、もどかしいからな」
バティルが吐息と共に言葉を吐き出した。少し掠れていて妙に色っぽかった。
「……あ、そっちですか!?」
アイナグルは自分の身を守るように回していた腕を緩めた。布越しに触れられるということに色っぽい想像をしてしまったが、バティルが言っていたのは手巾で涙を拭うということだったらしい。
「女を泣かせたままにするのは、男の不甲斐なさだからな」
アイナグルは目尻に赤みが残ったままであることが少し恥ずかしかった。今までアイナグルは数え切れないほど涙を流してきた。継母やガイニからいじめられて、その度に一人でこっそり涙を流してきた。
アイナグルを慰めようと、涙を拭おうと考えた人は今までいなかった。初めてそんなことをしようとしてくれた人が、バティル──よりによって敵部族のカガンだなんて。
「どうしてそこまでしてくれるんですか。さっきの取り引き…私に条件が甘すぎるような」
「惚れた女の願いくらい叶えてやりたい。男の見栄だ」
本当はナイマトの美姫ガイニを所望していたくせに、それを全く悟らせずアイナグルを「惚れた女」と言い切ってしまうとは、意外とバティルは出来た人間なのかもしれない。
「俺はお前を強欲でわがままな女に育てたいんだ」
「な…なんでですか?」
清貧であることこそが美徳だと思っていた。アイナグルが贈り物を要らないと言った時、バティルもその慎ましさを褒めたのではなかったのか。
「その方が俺好みだからだ」
バティルはにやりと笑った。
「愛されることに傲慢で、強欲で、残酷な魔性で振り回すじゃじゃ馬が好みだ」
「もしかして、私をとんでもない化け物に育成するおつもりですか?」
バティルは爽やかな笑みを浮かべていたが、笑うことで誤魔化したような気がした。バティルの甘言に堕ちると、堕落させられとんでもない化け物女にさせられてしまう気がする。
しかし、布越しに涙を拭われるくらいなら触れられてもいいのかもしれないとアイナグルは心を許し始めていた。彼の優しさが見え始めていたから。
「バティル様、私は母の遺品を取り戻したいです」
アイナグルは覚悟を決めてバティルの肩に頭を預けるようにして身体をくっつけた。布越しに触れるという条件を達成させながらの、アイナグルなりの精一杯の「甘えて強請る」だった。
「わかった。取り戻してやろう」
バティルの瞳は炎に照らされて赤く光っていた。




