三話 婚礼
アイナグルはバティルと二人乗りで馬に跨り、天幕へと帰った。先程の天幕とは別の天幕に案内される。そこには女性たちが待っていて、刺繍が施された花嫁衣裳が用意されていた。
アイナグルが白いスカーフを受け入れると、赤い花嫁衣裳に着替えさせられ、金や銀の装飾で飾り、手と足の指先にヘナで赤く彩られた。
侍女らしき女たちに身の回りの世話を何でもしてもらったが、アイナグルはずっと居心地の悪さを感じていた。バティルには「后妃として贅沢に暮らせ」と言われていたが、今までの虐げられてきた生活が身に染み付いてしまっていて、崖から突き落とされるように裏切られるのではと恐々としていた。
バター入りの乳を飲み、祝福と共に小麦粉を振りかけられ、肉や麵麭を齧り、塩水を飲み交わす。こうしてアイナグルは理想としていた結婚からはかけ離れた結婚をした。
アイナグルは黄金の天幕に案内された。内部は金糸飾られ、西方からラクダで進んできて献上されたものらしい。
「お前のために用意した天幕だ。今日からはここで寝起きするといい」
バティルは豪奢な婚礼の礼装の上着を脱いで上裸になり、花弁などが飾られた布団に横になった。
「な…なんで、脱ぐんですか!?」
アイナグルは咄嗟に目を手で覆い、顔を背けた。布団は一組しかない。大きさはあるものの、寄り添わなくては二人では寝られないような微妙な大きさだ。
焚かれた香木、妖しげに灯る乾燥した糞の燃料から燃える炎、散らばるように飾られた花弁。すべてが初夜を彩るものだとアイナグルでもわかった。
お前から望むまで、お前には指一本触れない。バティルとはそう契約したが、それは婚礼にまで持ち込むための嘘だったのではないかとアイナグルは不安になった。
「夜の天幕は冷えるからな。脱いだ方がいい」
バティルはなんでもないように告げる。バティルが治める汗国はアイナグルがいたナイマト族の宿営地より、寒冷地にあるようだった。確かに夜は冷えるが今までアクテュスを抱きしめて寝ていたから、あまり気にしたことがなかった。
「心配するな。無理矢理、手込めにしてはお前の心は永遠に手に入らないだろう。約束は守る」
バティルは布団を開けて、こちらに来るように示している。しかし、先ほど形式上の夫になったとはいえまだ気を許していない男の隣で寝れるほどアイナグルは強かにはなれなかった。
「床で寝ます。絨毯も敷いてあるし」
アイナグルは自分の三つ編みを縋るように掴んだ。これを最愛の夫が解いてくれるのが夢だったが、今は固く結ばれ、心と同じく解かれる気にはならない。
「それに、そんな上等そうな布団で寝たことないです。絨毯の方が慣れているし」
バティルは呆れたようにアイナグルを見ている。もしかすると、近くで寝るくらいなら凍死した方がましだと考えている貞淑を通り越した馬鹿なのではと考えられているのかもしれなかった。
「風邪をひくぞ」
「今までアクテュス…犬と一緒に寝ていたから、風邪ひいたことなかった」
アイナグルはナイマトに置いてきてしまったアクテュスのことを思い出した。アイナグル以外に世話をする人間がいないから、アクテュスは野良犬に戻ってしまっただろうか。誰かが邪魔に思って殺されたりしていたら。そう考えただけで涙が浮かんできた。
「絶対に手は出さないが、共寝が泣くほど嫌なら、アクテュスを番犬にして寝ろ。俺が不埒な真似をしたらアクテュスが邪魔をするだろう」
「え…?」
バティルの言葉にアイナグルが驚いていると、バティルはアクテュスを天幕へ連れてきた。なんでも、アクテュスはアイナグルが誘拐されて馬に乗っているのを、追いかけてきたらしい。それをラド族に保護されていた。
「アクテュス!」
アイナグルは駆け寄ってくるアクテュスを抱きしめた。父や継母、ガイニには唸ったり吠えたりして「可愛くない犬」と言われているアクテュスがバティルには尻尾を振って大人しくしていたことに驚いた。
アイナグルの匂いを追ってここまで来てくれた忠犬ぶりにも感激したが、気難しい性格のアクテュスがここまで懐くバティルは実は良い人なのではないかという思いが芽生えていた。
「アクテュスを真ん中にして寝ろ。俺はこの境界線を超えない」
バティルはにやりと笑った。アイナグルはアクテュスの存在とアクテュスのバティルに対する態度で少し警戒心が薄れたので、おずおずと布団に入った。香木の香りが眠りを誘い、誘拐された疲労感から瞼が重くなって不用心にもすぐに寝てしまった。
翌日、起きるとすでにバティルはおらず執務のための天幕に移ったと侍女─シリンというらしい─から聞いた。侍女は湯浴みの準備をしながら、微笑んだ。
「皇妃、無事に夫婦の契りを終えられたようで、何よりでございます」
シリンはアイナグルの体を拭き、香油を塗り込んだ髪を二つの三つ編みに編み変えた。実はこれは白い結婚なのだということは伏せておいた方がいいだろうと、アイナグルは黙っていた。
着替えて天幕を出ると、そこには高々と血がついた敷布が掲げられていた。
「あれは何?」
アイナグルが尋ねると、シリンは頬を赤らめながら伏目がちに答えた。
「何をおっしゃいます、カトゥン。あれはカトゥンが夫婦の契りを交わされた証にございます」
「つまり…?」
アイナグルは頭が泥の中に埋まってしまったかのように思考が停滞して、何も考えられなかった。
「破瓜の血にございます」
目の前が真っ暗になるような心地がした。まさか、アイナグルが寝ている間にバティルは約束を破り、アイナグルの身体を暴いたのか。
アイナグルはその日は天幕の中にこもって過ごした。シリンがなぜか落ち込んでいるアイナグルを慰めようと、珍しい茶葉を使った団茶を勧めてくれたり、刺繍をしてみてはどうかと裁縫道具を用意してくれたが、何も手につかなかった。
その夜もバティルはどの面下げてきたのかわからないが、花や毛皮、珍しい宝石などを土産にアイナグルの天幕へやってきた。
「俺の花、宝石、虹よ。お前のような女に相応しい品を持ってきた」
バティルは笑みを浮かべて、豪華な品々を差し出してくる。しかしアイナグルにとってはバティルが約束を破り、アイナグルの身体を暴いたことへの罪滅ぼしのために物を持ってきたようにしか見えなかった。
どんなに珍しく高価なものを積み上げられようとも、アイナグルの中にある、裏切られたという悲しみと、身体を暴かれたことへの怒り、そして強者の契約にまんまと騙され、一瞬でも信じてしまった自分の愚かさと悔しさは消えることがないだろう。
「そんなもの要りません」
アイナグルはそっぽを向いた。バティルとは目も合わせたくなかった。
「欲しがらないとは慎ましいな。だが、そんな慎ましい者にこそ、俺は与えたくなる」
バティルはアイナグルがどんなものを気に入るか確かめるため、金や銀の装飾品を見せたり、狼やクロテンの毛皮を見せてきた。しかし、それらの何もアイナグルの心を震わすことはなかった。
「約束を破った罪滅ぼしのつもりですか。私は物で解決できるような女じゃないですよ」
アイナグルは精一杯の虚勢を張った。弱いところを見せれば、バティルという獣に踏み荒らされるかもしれないから。
「俺がいつ約束を破った? 今もこうして指一本触れず、お預けを食らった犬みたいに律儀に待っているというのに」
バティルは片方だけ眉を器用に上げた。その声は怒っているというより拗ねた子供みたいだった。
「天幕の外に、敷布が掲げられていました。あれは…侍女が言うには、私の…私の…血だって!」
アイナグルはだんだんと顔を赤らめながら叫んだ。破瓜の血と口にしてしまうのは恥ずかしかったので、血とだけ言ったがそれだけで伝わったようだ。
バティルは真っ赤になったアイナグルを驚いたように見つめていたが、ついに堪えきれなくなったように吹き出した。
「あれは家畜の血だ。周りには本当の夫婦ではないことを誤魔化すために、擬装したんだ」
それを聞いてアイナグルは安堵の息を吐いた。自分が熟睡してしまって、自分の身に何が起きたのか分からなかったわけではないのだ。
「今は擬装だが、必ず真実にしてみせる」
バティルはそう笑いながら金の腕輪や銀の額飾りをアイナグルの肌に当てて似合うかどうかを確かめていた。丁寧に、自分の指は肌に触れないようにして。
アイナグルがバティルの真の意味で妻になっていないとばれるとアイナグルはただの敵部族から攫ってきた奴隷なってしまう。それならば、カガンの妻であると周知させていた方が安全なのだろう。
狼から助けてくれた時のように、またこの人に守られてしまったのだとアイナグルは自覚して、胸が暖かくなった。




