二話 汗国
上下の揺れによってアイナグルは意識が浮上した。馬によってどこまで遠くに連れてこられてしまったのだろう。朧げながら、途中に何度か水を飲ましてくれたような気がする。
喉は潤っていた。優しい人攫いなのかもしれない。人攫いに優しいも何もあったものではないが、アイナグルはそういった人扱いされる小さな優しさに飢えていた。
布越しに感じる光によって朝になっているとわかった。やがて馬の歩調は徐々に緩やかになり、止まる。馬から落ちないように固定されていた縄が外され、アイナグルはまた布ごと抱えられた。
いったいどこに連れてこられてしまったのだろう。布が開けは、そこは奴隷市場かもしれない。瞼をひらけば、この夢想にも似た感覚が現実と地続きになってしまうのが怖くて、アイナグルは目を瞑ったままでいた。
やがてゆっくりとアイナグルは床に下ろされ、アイナグルを包んでいた布が解かれた。眩しさにアイナグルは目が眩んだが、アイナグルは覚悟を決めて瞼を開いた。
豪奢な家具、調度品が並べられた天幕の中だった。アイナグルを包んでいたのは絨毯のようなものだった。柔らかい触り心地に布団に包まれているのと同じよう心地で怪我などはしなかった。
「強引な真似をして悪かったな」
若い男の声が響いた。弦楽器のような深く豊かな低い声だった。編み込んだ漆黒の髪を半上げに束ねている。
衣服から覗く首筋や太い腕など褐色の肌には、動物や蔓性の植物の刺青、そして自ら皮膚を剃刀で裂き、その傷痕で模様をつけ身体を飾っている瘢痕があった。
草原の古い氏族の戦士の風習であり、ナイマト族などでは野蛮だと廃れて久しい風習だった。そんな伝統が今も息づいている民族がいるなんて。
アイナグルと視線を合わせるように床に膝をついた若い男が、アイナグルに手を差し出した。その声は、狼に襲撃された際に「シムバットの娘、アイナグルだな?」と尋ねた声に似ていた。
「偉大なるカガンよ。あなたがご所望した、ナイマトの美姫を献上する」
配下のような男が跪いて、恭しく頭を下げた。カガンという響きにアイナグルは鼓動が跳ねて警鐘のように鳴り響く。
この草原の地でカガンと呼ばれるものはただ一人だけ。バティル──戦士の名を持つ草原を統べる覇者の名だ。ただの人攫いではなくカガンの献上品として攫われてしまったのだと気づいてアイナグルは冷や汗が出てきた。
美姫と形容されたが、アイナグルは平凡な容姿をしている。むしろ、妹のガイニの方が幼い頃からその美貌を讃えられ、ナイマトの薔薇と称されるほどだった。
もしかして、アイナグルはガイニと間違われて連れてこられたのではないか。
天幕の隅にいた女性が、静かに白いスカーフを持ってアイナグルに近づいてきた。屈強な男たちに囲まれていたから、同じ空間に女性がいることに気づかなかった。
現実が信じられなくて、まだ夢の中にいるような心地だったが、その白いスカーフがアイナグルを一気に現実に引き戻した。白いスカーフは誘拐婚の作法の一つで、白いスカーフをかぶってしまうとアイナグルは結婚を了承したと見なされる。
「い…いやっ!」
反射的に白いスカーフを払い除けてしまった。いつか夢に見た結婚はこんなものではない。こつこつ嫁入り道具を揃えて、女の人たちに花嫁衣裳に針を一つずつ通してもらう。そして祝福されながら、花婿の家に向かう。そう考えていたのに。
アイナグルは天幕から駆け出した。天幕から出る前に屈強な男たちに捕まるかと思ったが、彼らは薄らと余裕そうな笑みを浮かべてアイナグルを視線だけで追った。
「愚かな娘だ」
「カガンよ、あなたの子うさぎを追いかけましょうか」
後ろから、男たちの揶揄うような笑い声が聞こえた。
「よい。気の済むまで逃げさせておけ」
バティルの鷹揚な声が響く。アイナグルは振り返らずに走った。外には天幕が立ち並び、ここがカガンの宿営地なのだとわかる。
家畜の乳を搾る女たちや、馬の世話をする男たちが物珍しげにアイナグルを見る。アイナグルが三つ編みを揺らしながら走っているのを、皆はからかったり笑ったりしながら避けていくが、その後ろを悠然と追ってきたバティルには畏れ敬いながら飛び退くようにして道を開けた。
「あなたの雌鹿があちらへ飛んでいきますよ、カガン」
「あの子が私だったら、私もあれくらい鈍く走りますのに」
女たちの嬌声にも似た甘い声が響く。アイナグルは悔しくなってもつれそうになる足を懸命に動かした。天幕群を抜け、家畜の群れを抜け、草原に出た。
日は燦々とアイナグルを照らし、遮蔽物のない草原はアイナグルの姿をはっきりと見せてしまう。
アイナグルのナイマト族は草原の覇者たるカガンのラド族とは歴史的に敵対してきた。虐げられてきたという事実を知らないラド族からすれば、敵対部族の姫であるアイナグル──本来なら愛娘のガイニを攫うことは有効な攻撃なのだろう。
虐げられる天幕から出たかった。川の濁流に飲まれ、いつか大海に流れ着きたかった。内陸の海など見たこともない土地に生まれたアイナグルの密かな夢。
幸福な花嫁になりたかったのに、このままでは強引な結婚で身体を、尊厳を傷つけられてしまう。
足がもつれて、その場に転んでしまった。すぐに立ちあがろうとした時、馬のゆったりとした足音が近づいてくる。
「思ったより遠くまで逃げたな。追いかけっこはまた付き合ってやるから、幕屋に戻ろう」
バティルは馬から軽快に降りて、アイナグルをその場に押し倒した。バティルの日焼けした太い腕に血管と瘢痕が覗く。
強者の余裕ともいうべきか。バティルは一度アイナグルを逃して、逃げ切れたという希望を抱かせてからその希望をへし折り摘み取る。そうしてアイナグルの心を折ろうとする。
「白いスカーフは受け取れません」
アイナグルは震えを堪えてそう叫んだ。バティルは笑みを浮かべたままだったが、その言葉を聞いた途端に目の温度がスーッと冷えていくように見えた。黄金の瞳だけがぎらぎらと輝いている。
「お前はナイマトに帰りたいか」
バティルの問いにアイナグルは言葉に詰まった。帰りたくない。だが、敵であるラド族にいることもできない。アイナグルが望んでいたのは叶うはずもない夢物語であり、風に飛ばされる綿毛や、飛翔する鷹になりたいというようなもの。
「帰りたくない」
アイナグルが誘拐に抵抗しなかったのは、隊商の積荷に紛れて遠くの地に連れて行かれるという気分だったからかもしれない。あまり誘拐という事実を重く受け止めていなかった。
アイナグルの言葉を聞いて、アイナグルを地面に縫い留めているバティルの腕の力がいっそう強くなった。彼の長い髪がアイナグルに垂れてきて影になっている。
「なら、スカーフを被れ。そうすればお前を守ってやれる。お前を狼の生贄に差し出すあの悍ましい一族からな」
ナイマト族もラド族を瘢痕で身体を飾る悍ましい一族だの罵っていた。やはり両部族の溝は深い…と思いかけたところでアイナグルは狼の生贄という言葉が引っかかった。
「生贄…?」
狼に家畜が襲われるのは一大事だというのに、誰も天幕から出てこなかったのはアイナグルを食べさせるためだったのか。
「ナイマト族は狼に生贄を差し出して自分たちの家畜は襲わないよう取り引きをしている。そして他の部族に狼を嗾ける」
狼は地母神の古い盟約により、人の言葉を解するという。ナイマト族の長は亙であり、狼と意思疎通ができた。もうそんな伝承を信じているのは、草原の地ではナイマト族だけだった。だからこそ狼との契約を独占できたのだろう。
アイナグルを虐げてきたのは、生贄だったからなのか。屠殺する家畜に情が移らないようにするみたいに。その時胸に芽生えたのは、怒りだったのか悲しみだったのか。
「ナイマトに帰りたくはないけれど、知らない男を受け入れることもできない。舌を噛んで死んでやる」
自分の意思に反して身体を暴かれるようなことになれば、舌を噛んで高潔な最後を迎えようと思った。舌が軌道を塞ぎ、苦しめると知ってはいたが。
アイナグルが押し倒されながらもそう宣言する姿に、鬼気迫るものを感じたのか、バティルはアイナグルの上から退いて面白そうに笑った。
「攫ってすぐに俺のものにしてやろうと思っていたが、その鷹のような眼光は気に入った。お前から俺を欲してほしい」
「…何…?」
バティルの言葉にアイナグルは意味がわからず混乱した。少なくとも今すぐ身体を暴かれる貞操の危機はひとまず去ったのだろうか。
「お前を惚れさせてやる。お前から望むまで、お前には指一本触れない。この契約を飲むなら、その証にスカーフを被れ」
ナイマトに帰りたくないし、帰すこともできないアイナグルをラド族の中に置いておくには結婚という体裁は保っておかなければならないらしい。
「永遠に私が望まなければ?」
アイナグルはじっとバティルを見つめ返した。彼が鷹のようだと評したから、猛禽類のような鋭さがあると信じて。
「そんなことにはならないように努めるが、もし永遠に望まないのなら后妃として贅沢に暮らせばいい」
生贄にされるナイマトに帰らなくてよくて、ラド族の中での一応の安全は確保される。アイナグルにとって悪くない契約だった。
「わかった」
アイナグルは頷いた。動作としては頷いただけなのに、濁流に流されていきたいと願っていた自分が自分の足で立ち、必死に何かを掴もうとしているかのようだった。




