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一話 誘拐

 澄んだ蒼穹に鷹が飛翔している。広大な草原の中の羊の群れを牧羊犬とともに放牧地に追い立ているのは、少女アイナグルだった。


 北の草原地帯に小さな領地を持つナイマト族を示す、刺繍が所狭しと縫い込まれた衣装に髪を細く何本も三つ編みにしてビーズを編み込んでいる。


 何本もの三つ編みは未婚を示し、娘時代は細い三つ編みを三十本編み、端で二本にまとめている。花嫁となり、生まれ育った家から嫁ぎ先に移る際に、何本も編んでいた三つ編みを二本に編みかえる。


 アイナグルはいつか幸せな結婚をするとき、愛しい夫が自分の髪を解くのを密かに夢見ていた。


 そのために必要なものは、父親がまとめてくれる縁談、そして嫁入り道具である。


 「…お母さん」


 アイナグルはつんとする鼻の奥から垂れてくる鼻水を出さないように啜り、目に浮かぶ涙を溢さないようにぎゅっと瞑った。


 アイナグルの手には燃えかすのような何かが握られている。それは黒焦げになった端切れのようなものであり、母親の遺品である刺繍布の燃え残りであった。

 

 代々伝わる紋様を祖母から母へ、母から娘へと受け継いでいく。花嫁衣裳から敷布に至るまで嫁入り道具に敷布をして、それが完成して初めてお嫁に行ける。


 しかし、アイナグルの嫁入り準備は遅々として進んでいない。刺繍を教えてくれるはずの母はアイナグルが幼くして儚くなり、継母はアイナグルに刺繍を教えず雑用ばかりを押し付けて異母妹ガイニにつきっきりだった。


 ガイニは着々と刺繍布の準備が進んでいた。アイナグルはわずかに手元に残った実母の遺品の刺繍布を見て、真似をしながら刺繍を進めていたが、アイナグルの刺繍と母の刺繍はガイニの「うっかり」で燃えて消えていた。


 「姉さん、ごめんなさい。綺麗な刺繍だったから火にかざして見ていたの。そしたら火の粉が飛んできて…。うっかり燃えてしまったの」


 目を潤ませながら謝るガイニの姿が思い出された。泣いているのに、口角は少し上がっていて、「してやった」という意地悪な達成感が滲んでいるあの笑顔のような泣き顔を。


 「ほら、こんなに泣いて反省してちゃんと謝っているんだから、お姉ちゃんとして許してあげなさい。あんなぼろ布をちょっと燃やしちゃったくらいで、許してあげないなんて狭量よ」


 継母は柔らかな声色に包みながらも、圧をかけてきた。父は女手を減らしたくなかったから、アイナグルの結婚には消極的で、ガイニのためなら良い縁談を探そうと躍起になるのに、アイナグルは放置だ。

 

 継母のガイニには猫を呼び寄せるような甘い声で、アイナグルには冷たい吹雪のような声が頭の中に蘇る。謝ったら必ず許さなきゃならない、姉だから我慢して妹に譲らなきゃいけない。天幕内にはそんな空気が漂っていた。


 アイナグルは燃えかすから掬い出した刺繍布の残骸を抱きしめて、逃げるように家畜の世話に出た。それはアイナグルに任せられた仕事だったから。


 継母は母の嫁入り道具を「ぼろ布」と言った。刺繍は性格がでる。丁寧な縫い目をなぞれば、母がどれほど器用で実直な人だったかを雄弁に語っていた。母の刺繍を真似る時間が、記憶の中で朧げになってしまった母とつながる唯一の時間だった。


 羊が草を食む姿が地平線を覆っているように見える。アイナグルが悲しんでいるのがわかるのか、燃え残りを握りしめるアイナグルを牧羊犬が見つめていた。


 犬の名前はアクテュス。父から見向きもされず、継母からは疎まれ、妹からはいじめられているアイナグルにとって唯一の味方だった。


 アクテュスはたぶん、野良犬だったのをアイナグルが拾ったのだと思う。思うというのは出会った頃を思い出せないからだ。母親が儚くなり、継母がきて辛く当たられ、ガイニが生まれて父の関心が移り、色々とアイナグルにとって辛いことが重なったから、その頃の記憶は曖昧だ。


 アクテュスはアイナグルを見つめてぶんぶんと尻尾を振っている。「大丈夫だよ、僕がいるよ」と言ってくれているかのようだ。


 母は河を超えた先に住むウハン氏族の姫でナイマト族の族長の父に嫁いだらしい。


 母は姫らしく豪華な嫁入り道具を持ってきていた。豪華な銅鏡、真珠の耳飾りなど希少な宝石をたくさん持っていた。それらの全ては継母やガイニたちに奪われてしまった。


 大丈夫。奪われることも踏みつけられることも慣れている。そう自分に言い聞かせる。ガイニの婚礼が盛大に行われれば、今よりは少しはましになるかもしれない。ガイニより先に嫁に行けないことは恥ずかしいことなのかもしれないが、今はじっと嵐が過ぎ去るのを待つように耐えなければならない。


 アイナグルはアクテュスを抱きしめて眠った。手入れをしてやっている柔らかい毛が、アイナグルを包んでくれた。


 星々が輝く夜が来て、アイナグルは暖をとるようにアクテュスの毛に顔を埋めた。しかし、アクテュスはばたばたともがき、アイナグルの腕の中から抜け出てしまう。


 「アクテュス、戻っておいで」


 アイナグルは小声で呼んでみたり、ちゅっちゅっと舌を鳴らして呼んでみたが、アクテュスは尻尾を振って天幕の外に出てしまう。


 そして遠吠えを繰り返す。アイナグルは慌てて天幕から飛び出した。継母はアクテュスのことを薄汚い犬だと嫌っていたから、鳴き声で眠りを妨げたら殺されてしまうかもしれない。


 アクテュスの尻尾を切って、口にバターを詰めてやるなんてまだしたくない。アイナグルは夜風が冷える中、アクテュスを追って天幕の外を出た。


 アクテュスは遠吠えを続けている。もしかして狼が家畜を襲っているのだろうか。背筋がぞくりと冷えたとき、アイナグルは暗闇から飛び出してきた何かに押し倒された。


 「な…何!?」


 アイナグルが必死に状況を確かめようと起きあがろうとするが、重い何かがアイナグルの体の自由を奪っていた。ぽたりと冷たい粘液がアイナグルの頬に落ちる。巨大な狼が今まさにアイナグルに唸りながら牙を向けていた。


 その瞳は殺気立っている。食われる──アイナグルが一瞬にして恐怖に包まれたとき、アクテュスが自分の体の倍以上はあろうかという狼の首筋に食らいついた。


 「アクテュス!」


 アクテュスが突進するように狼に食らいついたおかげで、狼はアイナグルの上から離れ、アクテュスと揉み合うように地面に転がっていた。


 アクテュスが食べられてしまう。その恐怖は自分が食べられてしまうと怯えたときよりずっと大きかった。


 その時、蹄の音が近づいて矢が風を切る音が響いた。矢は月光に照らされ、狼の足元に刺さる。狼は威嚇のような矢に飛び退き、首筋に食らいついていたアクテュスを地面に叩きつけて去っていく。


 アクテュスはしばらく警戒したように去り行く狼の背に吠えていたが、やがて尻尾を振ってアイナグルのもとへ掛けて来た。馬も徐々に速度を落として近づいてくる。


 「あの、ありがとうございました」


 馬上の弓の使い手に礼を言って、ふと別の恐怖が首をもたげた。てっきりアイナグルは同じ氏族の男が狼の襲来に気づいて、弓を手に助けに来てくれたのだと思った。


 暗闇で分かりにくいが毛皮の帽子を被り、男が見に纏う衣服や刺繍の形は、アイナグルが慣れ親しんだナイマト族のものではなかった。


 この人は誰だ?


 まだ男の手に握られたままの弓が、次はアイナグルを射抜くのではないかと唾を飲み込んだ。


 「シムバットの娘、アイナグルだな?」


 若い男の声だった。帽子から落ちる影によって表情は読み取れない。馬の蹄の音が、アイナグルを取り囲むように複数近づいていた。これは狩りのやり方だとアイナグルは直感した。


 「どうして、私の名前を」


 アイナグルがそう口にした時、背後から布が口元に押し当てられた。背筋がぞわりとした瞬間、鼻腔に薬草を煎じたようなつんとした刺激臭が伴う。まるで馬乳酒を飲んだようにアイナグルは酩酊してしまった。


 意識が混濁しているアイナグルを、複数人の男がまるで荷物かのように担いで馬に乗せる。アイナグルはフェルトのような手触りの布に包まれてしまった。


 抵抗しなくてはと思うのに、黒い感情がそれを邪魔する。助かったとしても誘拐未遂に遭った娘なんて、もう嫁の貰い手がない。父や継母はどう思うだろう。それに何より、虐げられる天幕という狭い関係性から抜け出せることに微かな喜びが混じっていた。


 闇の中へ、あるいは光の中へ進んでいくような気がした。それがさらに過酷な運命のはじまりなのだとしても。アイナグルは酩酊する感覚に意識を委ねて重い瞼を閉じた。

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